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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                             このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中で引用したり、取材のヒントを得るために良く利用する書籍です。  文中の注釈が長くなりますので、ここに掲載します。               ■「成田の史跡散歩」小倉 博 著 崙書房 2004年               ■「成田の地名と歴史」大字別地域の事典編集委員会 2011年      ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会編 1986年       ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会編 1972年

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

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江弁須の虚空蔵様~正蔵院
前回の皇産霊神社のすぐ近くにある「正蔵院」を訪ねます。

正蔵院ー21

「正蔵院」は山号を「妙見山」とする真言宗豊山派のお寺です。
日本で最初に大僧正となった行基(669~749)によって天平十一年(739年)に
開山されたと伝えられています。

「成田市史」中に収載されている「公津村史」には正蔵院について次のような記述があります。
「本院ハ真言宗ニシテ東勝寺ノ末寺ナリ。創立紀年詳カナラズ。本尊ハ虚空蔵菩薩ニシテ
其尊像ハ行基菩薩ノ作ナリト言ヒ傳フ。」


他の資料でも成田市の指定文化財となっている「虚空蔵菩薩坐像」を本尊としていますが、
小倉 博氏は本尊は「大日如来」であると記しています。(「成田の史跡散歩」P91)


正蔵院ー6

「公津村史」には次のような記述もあります。
「本院ハモト千葉家ノ祈願寺ニシテ檀家ト云フモノナカリシカバ、當區全戸数ハ
三十二戸ナルモ其多クハ法華宗ニシテ、東勝寺(真言宗)ニ属スルモノ僅カニ
五、六戸ニ過ギズ。」

「明治維新ノ際初メテ檀家ヲ募リ、追々増戸、現今ハ成木新田及飯田新田ニ於テ約
二十戸ノ檀家ヲ有ス。」


「正蔵院」は現在は宗吾霊堂として知られる東勝寺(真言宗)の末寺ですが、千葉氏の
祈願寺であったため、檀家を持っていませんでした。
もともと区内の32戸の多くが法華宗徒で真言宗徒は5、6戸でしかなかったようです。
明治時代になってから檀家を募り、以降その数を増やしてきました。


正蔵院ー8

本堂脇に建つ石板には次のようにあります。
「当院境内に勧請し奉る智恵福徳の広大無辺な虚空蔵菩薩は日本最初の大僧正に
なった人、行基(西暦670-749)の彫刻で福智授与の誓願安産・育児の霊験、殊に
あらたかにして現に数万の信徒を有する当山は天平十一年(738)行基の開山にて
境内幽遂老杉天を摩し、堂閣荘重、古色蒼然、実に森厳なる霊地なりしが、惜哉、元禄
年間火災に被り全焼烏有に帰せり、今の本堂は大正十五年に再建されたものである。」

(原文のまま)


境内には本堂より立派に見える「虚空蔵堂」があります。

正蔵院ー1
正蔵院ー2
正蔵院ー16

このお寺は「江弁須の虚空蔵様」として知られています。
福徳と知恵が授かり、安産・育児の神様として、多くの信者が「虚空蔵堂」を訪れます。

「効験甚ダ顕著ニシテ主ニ福徳知恵ヲ得セシメ、就中婦人ノ安産小児ノ健全ヲ守護シ給フ、
現ニ千人ノ信徒ヲ有シ縁日ハ毎月十三日ナルモ𦾔暦正月十三日ノ如キハ信徒群衆區内
挙テ饗應ニ奔走ス。」
 (公津村史)


正蔵院ー3

享和四年(1804年)と刻まれている手水盤。


正蔵院ー4

常夜燈には文化十三年(1816年)と記されています。


正蔵院ー18
正蔵院ー19
正蔵院ー20

本堂の前にスダジイの古木があります。
根元は空洞化し、わずかに根元が残っているだけですが、上部には葉が茂り、
根元からは若い芽を伸ばしています。
すばらしい生命力です。


正蔵院ー11
正蔵院ー15

「虚空蔵堂」の右手にあるお堂には風化でお顔が平たくなった仏様がおられます。
台座にある紀年銘は、文政十一年(1828年)と読めるような気がします。

仏様はお遍路さんが装束の背中に書く「南無大師遍照金剛」の襷を掛けています。
消えかけた木札には「四国霊場第十二番焼山寺移す」とありました。

「焼山寺(しょうざんじ)」は難所で知られる徳島県神山町にある四国霊場十二番の真言宗の
お寺で、ここも「虚空蔵菩薩」が御本尊です。
「のちの世を 思えば苦行焼山寺 死出や三途の 難所ありとせ」との歌も添えられています。


正蔵院ー12
正蔵院ー13

お堂の奥にある小さな墓地。
彫られた文字はほとんど読めませんが、お坊さんのお墓のようです。

正蔵院ー23

「不生位」と読めます。
「不生位(ふしょうい)」とは、真言宗の僧侶の位牌に書かれる「悟りの世界」を表す位号で、
「死は永遠の悟りの世界に入ることである」という意味です。


正蔵院ー24
正蔵院ー25

境内の藤棚を軽快に飛び跳ねているシジュウカラを見つけました。
回りは開発が進んだ住宅街ですから、近くの「皇産霊神社」(前回掲載)とこの「正蔵院」の
森が、僅かに残った羽根を休められる場所なのかも知れません。


正蔵院ー17

正蔵院ー9

「虚空蔵様」と言えば「鰻」ですね。
磐裂神社の項で紹介しましたが、「虚空蔵様」の地域の人々は「虚空蔵様の使い」とされて
いる鰻を決して口にしません。
「虚空蔵堂」の中を覗かせていただくと、鰻が描かれた奉納額がたくさん掲げられています。

「故ニ当區内ノ者は宗旨ノ如何ニ關ラズ、又男女老少ノ別ナク決シテ鰻ヲ食スル者ナク、
他郷ニ転籍スルモ亦同ジ、サレバニヤ彼ノ円滑ニシテ且ツ力アル鰻スラ当區内ノ者ニハ
何處テモ二本指ニテ挾ミ得ル由。」
 (公津村史)

近くの池に棲む鰻は、捕まえられても殺されることがないので、二本指で挟むことができる
と書かれています。
今も池に棲んでいるとすれば、近くの成田山の門前では毎日大量の鰻が消費されている
のですから、何とも幸せな鰻たちですね。
奈土のオビシャとウナギ ⇒


正蔵院ー27


                   ※ 「正蔵院」 成田市江弁須295
                      京成公津の杜駅から徒歩約15分



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公津村の寺社 | 07:53:29 | トラックバック(0) | コメント(0)
1200年の歴史~江弁須の皇産霊神社
今回は江弁須(えべす)の「皇産霊神社(みむすびじんじゃ)」です。

皇産霊神社ー1

津冨浦、一坪田、臼作など、成田市内に「皇産霊神社」はいくつかありますが、
そのいずれも資料が少なく、ここ江弁須の皇産霊神社に関する資料も、わずかに
「成田市史 近代編資料集一」中の明治17年頃の公津村史に、
「無格社皇産霊神社 臺方字井戸花ニ坐ス。創祀不詳 
              祭事ハ井戸花中ニテ行フ。」

の二行しか見つけられませんでした。
臺方は現在の台方で、当時はこの一帯は臺方に属していたのでしょう。


皇産霊神社ー2
皇産霊神社ー4

「平安時代の西暦800年にさかのぼり、坂上田村麻呂が東方出征の折に
兵糧を確保するため、この地に陣を構え「江弁須」と名付けた。
高御産霊巣日之大神が祭神。
1987年に大規模な改修が行われた。」

(「拝殿建設記念碑」より

「たかむすびのかみ」は、古事記では「高御産霊巣日神」、日本書紀では「高皇産霊尊」と
書かれている「創造」の神様です。
江弁須と名付けた時にこの神社も創建されたということのようです。


皇産霊神社ー5
皇産霊神社ー6


皇産霊神社ー7
皇産霊神社ー8
皇産霊神社ー9

流造の本殿はどっしりとバランスの良い佇まいです。


皇産霊神社ー10

本殿の裏には三つの祠と一つの石柱が並んでいます。
中央の大小二つの祠は「熊野神社」で大きい方には大正7年と記されています。
小さな熊野神社の紀年銘は読めません。
また一番右側の祠は風化が進んでいて、何の神様か分かりません。
五角形の石柱は「地神塔」で、各面に「天照皇太神宮(てんしょうこうたいじんぐう)」
「大己貴命(おおあなむちのみこと)」「少彦名命(すくなびこなのみこと)」「埴安姫命
(はにやすひめのみこと)」「倉稲魂之命(うかのみたまのみこと)」と刻まれています。
「形状が五角形の石柱であることから、地神塔は一つの石仏のように思われがちだが、
旧公津地区ではそれぞれ五社神という神社として崇拝したのである。」

(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博著 P91)


皇産霊神社ー11

左の格子の中には「天満宮」「子安神」「疱瘡神」が並んでいます。
右側は神輿蔵です。


皇産霊神社ー12

古い神輿です。
今は使われていないようです。


皇産霊神社ー13

天保二年(1831年)の紀年銘がある手水盤。


皇産霊神社ー28

皇産霊神社の参道に添うように二つの神社の参道が並んでいます。
「稲荷神社」と「浅間神社」です。


皇産霊神社ー27
皇産霊神社ー18

「稲荷神社」の参道です。
左側に見えているのは「皇産霊神社」の参道、右側は「浅間神社」の参道です。


皇産霊神社ー14

安政六年(1859年)と記された稲荷神社の手水盤。


皇産霊神社ー19

近年に補修されたようです。


皇産霊神社ー16

「浅間神社」の参道。


皇産霊神社ー15

明治39年と刻まれています。


皇産霊神社ー17

昭和7年の建立です。


皇産霊神社ー20

「皇産霊神社」と「稲荷神社」の参道の間に建つ石碑には、
「公津村江辧須字珎重鎮座 村社皇産靈神社」と刻まれています。


皇産霊神社ー25
皇産霊神社ー26

掘り込まれた参道に石垣を裂いて根を張り、あるいは二本の木の間にあった石を挟んで
持ち上げてしまったり、参道の木々はいずれも大木です。


皇産霊神社ー22
皇産霊神社ー23
皇産霊神社ー3

住宅街の中にありながら、深い森に囲まれた「皇産霊神社」。
深く沈んだ空気が境内を支配しています。


皇産霊神社ー24
 

                  ※ 「皇産霊神社」 成田市江弁須304
                    京成公津の杜駅から徒歩約15分






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公津村の寺社 | 11:00:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
台の坂の成田山門前町~仲之町
「仲之町(仲町)」は成田村時代の門前四ヵ町の一つで、表参道の「台の坂」を挟んだ町です。

仲の町ー1
仲の町ー2

薬師堂の三叉路から成田山の総門にかけての坂道が「台の坂」。
「仲之町」はこの坂の両側に並ぶ門前商店街です。
上町と幸町との境界が良く分かりませんが、どうやら竹製品の専門店「藤倉商店」と
おせんべいの「雷神堂」の間が境界のようです。
ちょうど2つの店の間に仲之町と書かれた灯篭が道端に建っています。
竹かごや竹の大根おろしをはじめとする台所用品など、店内いっぱいに竹製品が並ぶ
藤倉商店には、珍しそうに覗きこむ外人観光客が絶えません。
雷神堂も雰囲気のある店構えで、煎餅を焼く工程を通りから見ることができます。


仲の町ー5

「木内薬局」は明治時代には「木内一粒丸」という店名でした。
今も看板の上には一粒丸の文字が見えます。


仲の町ー3

総門に下る右側です。
「ごま福堂」、「三芳屋」、「川豊」、「菊屋」、「近江屋」と並んでいます。
三芳屋の手前は現在閉店しているようです。
三芳屋の手前に細い路地があり、その奥に甘味処の「三芳屋お茶処」があります。


表参道ー3
                                              (2014年6月撮影)
両脇の店の軒下をくぐるように入って行く路地ですから、知る人ぞ知る穴場の休憩所です。


仲の町ー7
仲の町ー25

数ある鰻屋の中でも一番有名な「川豊」。
店先で鰻をさばく職人の包丁さばきを、道行く人々が足を止めて見入ります。

「川豊」は明治43年に伊藤豊治氏が印旛沼や長沼、利根川などでウナギや鯉を捕って
卸売をしたことに始まります。
大正14年には田町に「丸豊川魚店」を開き、昭和43年に屋号を「川豊」として、現在の
仲之町に移転しました。


仲の町ー6

川豊の向かい側にあるのが「成田観光館」です。
昔の成田の様子や、祇園祭りの山車などが展示されています。

仲の町ー26
仲の町ー8
・・・・・・・・・・・仲の町ー10
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・仲の町ー18
・・・・・・・・・・・仲の町ー15
仲の町ー21


位置関係が分かりにくいと思いますので、見にくいでしょうが薬師堂から総門に向かって
一覧表を書いておきます。
   [台の坂商店一覧]     
                            (薬師堂)
                 
                  (煎餅)きゃら
                          ●
      (竹細工・民芸品)竹工房せいみや     滝沢酒店(酒・佃煮)
                   ヨシバ写真館      藤月(煎餅)
                   (漬物)おぐらや     杉養蜂店(蜂蜜)
                   (煎餅)林田本店     下田康生堂(薬・漢方)
                   (甘栗)加藤ちゃん     藤倉商店(竹製品)  
                      (漬物)兄弟堂     ●
                       (蕎麦)日進庵     雷神堂(煎餅)
                        (鰻)国之家
                         (漬物)京増     鰻福亭(鰻)
                      (胡麻)ごま福堂     粉名屋(鰻)
     (喫茶・甘味)三芳屋お茶処
                     (羊羹・漬物)三芳屋     さかみち(民芸品) 
                            (鰻)川豊      木内薬局(薬・漢方)
                                        成田観光館
                           (鰻)菊屋     
                  (漬物)川村佐平治商店
                       (漬物)上総屋     橘鮨(寿司)
                  (美術品)アンデルセン     梅屋(旅館)
                     (旅館)梅屋別館     
                  (箸)手作り箸工房遊膳     大黒屋(レストラン)
                    (和装・雑貨)長谷川      大野屋旅館(旅館・レストラン)
               (漢方)一粒丸三橋善兵衛
                (佃煮)茂平のつくだ煮      江戸久(漬物)
                                                 延命院跡
                   (佃煮)又兵衛      ひしや旅館(旅館)
                 (旅館)若松本店     駿河屋(レストラン)
                                 
       (信徒会館)                  (成田山大師堂)
                               (弁財天)
                              (総門)     

青太文字は明治40年頃の地図に載っている店です。  
なお、当時は兄弟堂は人形店、粉名屋は旅館、菊屋は土産物店、上総屋は洋物店でした。                  ●は灯篭の町名が仲之町に変わるところです。
        
表参道ー61
                                    台の坂の中央付近(2014年6月撮影)

仲の町ー27

成田観光館の先には「旅館梅屋」「大黒屋」「大野屋旅館」と続きます。


仲の町ー29

「大野屋旅館」は江戸中期に蝋燭屋として創業しました。
現在の建物は昭和10年のもので、木造三階建て、望楼のついた特異な建造物です。
三階の114畳の大広間には能舞台があり、映画の撮影にもしばしば使われます。
今は旅館としての営業は休業中で、食事処と鉄砲漬けの販売を行っていますが、張り出し
た縁に修学旅行の生徒が鈴なりになって参道を見降ろしていた景色が思い出されます。
平成17年に国の有形文化財に指定されました。


仲の町ー28

通りにはレトロなポストが・・・。


仲の町ー41
仲の町ー45

向かい側には「アンデルセン」「梅屋別館」「手作り箸工房・遊膳」と続きます。
梅屋別館の手前の路地はかつて新勝寺があった「神明山」へと続きますが、現在は
地震の被害を受けて通行止めになっています。


仲の町ー30
仲の町ー31
仲の町ー32

大野屋旅館の先は「江戸久」。
そして路地を左に入ると、水野忠邦による天保の改革でスケープゴートとなった七代目
市川団十郎が一時身を寄せた「延命院跡」があります。
初代以来の市川家と成田山との縁は、屋号を成田屋としていることからもうかがえます。
台の坂に並ぶ小さな灯篭と木戸には、市川家の定紋の三升(みます)が刻まれています。


仲の町ー33
仲の町ー34

延命院跡の脇の細い路地を進むとこんな景色で、幸町側の崖に突き当たります。


仲の町ー36
仲の町ー37

延命院跡から参道に戻ると、道の反対側に重厚な蔵造りの「一粒丸三橋善兵衛」があります。
創業280年の老舗で、店名の一粒丸は「道中薬」と言われる万能薬で、腹痛・頭痛・ストレスに
効能があると言われています。
蔵は明治初期のもので、国の登録有形文化財です。


仲の町ー39

「若松本店」の前はもう成田山。
「大師堂」が向かいに見えています。


仲の町ー43

信徒会館の駐車場からは神明山がちょっと覗けます。
神明山 ⇒

「仲之町」は昔ながらの雰囲気を守って、参拝客を迎える門前の商店街。
時代の流れで少しずつ代替わりが進み、「いまふう」の店舗が増えていますが、
できればこのままで残したい風景です。


仲の町ー47

  
  

          

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まち、町 | 07:02:01 | トラックバック(0) | コメント(4)
奈良時代に創建された「四社大神」
今回は前回の「檀林寺」の隣にある「四社大神(ししゃだいじん)」です。

四社大神ー5

この神社のご祭神は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「別雷命(わけいかづちのみこと)」
「宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)」「天児屋根命(あまのこやねのみこと)」の四神で、
後に「菅原道真」が加わりました。

素戔嗚尊はその粗暴な振る舞いから天照大神を怒らせ、天岩戸に隠れさせてしまった
張本人で、八俣遠呂智を退治してその尾から三種の神器の一つである草薙剣を取出す
など、逸話の多い神様です。
別雷命は上賀茂神社のご祭神で、雷を別けてしまうほどの力を持つ神様。
宇賀之御魂命は穀物・食物の神様で、伏見稲荷大社のご祭神で、稲荷神(おいなりさん)
として信仰を集めています。
天児屋根命は春日権現とも呼ばれ、祝詞の神・出世の神様です。
この四神の組み合わせの理由や経緯については、私には全く分かりません。


四社大神ー7

創建の年代は不詳ですが、千葉県神社名鑑に、
「奈良時代の天平勝宝年中に祇園・稲荷・加茂・春日の四神を祀ったのが始まりという」
とあるそうなので、1270年近い歴史があることになります。

鳥居は昭和41年に建てられたものです。


四社大神ー1
四社大神ー23
四社大神ー2
四社大神ー24

見慣れない表情の狛犬です。
でも、よく見るとどことなく愛嬌があるような気もします。


四社大神ー3
四社大神ー25

鳥居をくぐって直ぐ左手にある「青面金剛(しょうめんこんごう)」。
元禄十七年(1704年)と記されていますから、300年以上も前のものです。
見ざる・言わざる・聞かざるの三匹の猿は、まるでお神輿のように金剛を担いでいます。

さて、この元禄十七年は3月には宝永に改元された年で、前年に死者二十万人を
超えたと言われる元禄の大地震があり、3年後の宝永四年には富士山の大噴火
(宝永の大噴火)があるなど、天変地異が続いていた時代でした。
青面金剛は主に関東地方で庚申様の名で親しまれています。
もともとは疫病をもたらす疫病神として恐れられていましたが、その後帝釈天の使者
として病魔を祓ってくれる存在と変化してきました。
不安な世情を振り払おうとの思いで建てられたのでしょうか。


四社大神ー4
四社大神ー33

青面金剛の向かい合う形で三峯神社があります。
(扉に書かれた墨書がほとんど消えていますが、三と山が上にある文字が読めますので、
三峯神社でしょう。)
明治26年の紀年名があります。


四社大神ー6

拝殿で何やら祭礼が行われています。
10人ばかりの人が神主さんを囲んで集まったりばらけたり・・・。
法螺貝の音も聞こえました。
よそ者が近づいては失礼と思い、鳥居の下で祭礼が終わるのを待ちました。


四社大神ー8

「下総町史」には「下総町の社寺と石宮」からの引用として、
「本来は檀林寺の鎮守として須佐之男神を祀っていたものへ、愛宕・天神・稲荷を
合祀したとする見解もある。」
(P413)との記述もあり、四神の組み合わせには
諸説があるようです。
なお、明治43年に菅原道真の「天満宮」を合祀した記録は残っています。


四社大神ー9

開け放たれた拝殿からは本殿が見えます。


四社大神ー10
四社大神ー12

本殿の屋根には千木・鰹木はありません。
拝殿が最近建て替えられたものであるためか、比較するととても重厚に見えます。


四社大神ー13
四社大神ー27     ← 来宮様
       天満宮 →   四社大神ー28

この2つのお宮にはどこにも名前がありません。
祭礼が終わった氏子の方に聞いてみましたが、「大きい方はキノミヤサマと言っているが、
詳しいことは分からない。小さい方は確か天満宮。」とのことでした。

「もう祭礼もほとんど参加する人がいなくなった。オレらの時代で終わりだな・・・。」
鳥居をくぐりながら振り返った老人は寂しそうに呟きました。


四社大神ー31
四社大神ー30
四社大神ー29

写真を撮っている傍を小鳥が飛び跳ねています。
近づいても恐がる様子を見せません。
鳥には詳しくありませんが、図鑑で見るとセキレイかカワラヒワだと思います。
雑木林に囲まれたこの神社は、格好の餌場なのでしょう。

※ 「地誌のはざまに」を書かれているKanageohisさんから、これは「ジョウビダキ」のオス
  だと教えていただきました。
 地誌のはざまに⇒
  あらためて図鑑を見るとピッタリその通りでした! ありがとうございました。


四社大神ー26

雑木林に分け入ってみると、ところどころにこのような崩れた石碑のようなものが、
枯葉に埋もれて散乱しています。


四社大神ー34
四社大神ー11

この「四社大神」に関する資料はほとんど見当たりません。
わずかに残った高齢の氏子に細々と守られはいますが、やがては忘れ去られて
しまうのでしょうか。
奈良時代に創建されたのだとすれば、どこかに埋もれているであろう資料を
掘り起こせば興味ある歴史が現れてくるはずです。


四社大神ー35


               ※ 「四社大神」 成田市大菅162
                 JR成田線滑川駅より徒歩約30分
                 前回紹介した檀林寺と隣り合わせの場所にあります



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滑河町の寺社 | 07:07:39 | トラックバック(0) | コメント(2)
消えた歴史~檀林寺
大菅の檀林寺を訪ねました。

檀林寺ー1

「檀林寺(だんりんじ)」は浄土宗名越派のお寺で、山号は「梧桐山(ごどうさん)」、
院号は「光明院」。

「寺伝によると天平神護2年(766年)、良辯上人を開山とし、智証大師の中興を経て
天台寺院となりましたが、その後正和元年(1312年)浄土宗名越派大空上人により
再興されたと伝えられています。 本尊阿弥陀如来は台座に仏師定慶の銘があり、
境内には建武2年(1335年)を最古とする板碑十数基があります。 現在の本堂は
江戸期の火災後再建されたものです。」
 (山門前の説明板)


檀林寺ー2
檀林寺ー3

階段を登ると質素な山門が迎えてくれます。


檀林寺ー4

「寺伝によれば、天平神護2年(766)良辯上人を開山とし、智證大師の中興を経て
天台宗寺院となったとされているが、天台時代の記録等は他にない。
その後、堂宇荒廃していたが、正和年間(1310頃)浄土宗名越派祖・尊観上人の弟子
大空上人によって再興され、浄土宗寺院となったと伝えられる。
この地は浄土三祖・良忠上人に縁のある鎌倉桐ヶ谷に地形が以ており、大空上人、
二世恵観上人の努力で、境内の諸堂が整備され、またこのとき鎌倉光明寺に因み
院号を光明院として、僧侶の初期の学問寺院とならんことを願い寺号を檀林寺と
号したといわれる。
江戸時代には3つの坊に常時数十人の青年僧が修学・修行していたと伝えられる。
尚、境内には建武2年(1335)銘を最古とする十数基の板碑が点在し、当時の繁栄を
知ることができる。」

(浄土宗千葉教区Webより)

浄土宗の寺院になってからでも700年の歴史があり、寺伝によれば1250年もの
歴史を有するお寺です。
寺の名前の「檀林」とは僧侶の勉学所のことで、このお寺も小さいながら若い僧侶の
修行場であったようです。


檀林寺ー5
檀林寺ー6

派手さはありませんが、ダイナミックな龍の彫刻です。


檀林寺ー25

板碑の形をとった説明板。
山門への階段脇にあった木製の説明板と同じ内容です。


檀林寺ー7

本堂に向かって左手にあるお堂。
何の説明もありませんが、中に如意輪観音像が安置されているのが見えるので、
観音堂なのでしょう。


檀林寺ー8

観音堂の隣にある小さなお堂には、風化でお顔の判別もつかない仏様が祀られています。


檀林寺ー9
檀林寺ー27

小さな観音菩薩像。
風化と補修痕のため、刻まれた文字は爲の一文字のみしか判読できません。


檀林寺ー10
檀林寺ー11

この石碑には深くしっかりした彫りで南無阿弥陀仏の文字が刻まれています。
側面に江戸の宮三左衛門ほか、~六郎、~兵衛門の名前と仏様が彫られ、宝永二年
(1705年)の紀年銘があります。


檀林寺ー12
檀林寺ー13

歴史あるお寺だけに、墓地には古い墓石が目立ちます。
寛文、宝永、延享、安永、寛政、文政などの年号が記されています。


檀林寺ー15

本堂から少し離れた境内の地続きに建つ民家(ご住職のお宅でしょうか?)の庭先に
大小十基の板碑が並んでいます。
近づきたいのですが、残念ながら、通路に太い竹を渡して庭へ入ることを拒否する強い
意思が感じられて、離れた所から望遠で撮影するしかありません。


檀林寺ー16
檀林寺ー17
檀林寺ー26

資料によると、一番古いものは建武二年(1335年)の十三仏の板碑で、以下暦応二年の
五仏板碑、貞治四年(1365年)の二仏板碑、応安三年(1370年)の三尊双式板碑、
応安四年(1371年)の阿弥陀三尊板碑等です。


檀林寺ー24
檀林寺ー23

帰り道に山門の脇に3基の石仏が埋もれているのを見つけました。
文字は読み取れませんが、合掌しているように見えます。

檀林寺ー14

この地は成田市との合併前には香取郡下総町でした。
「下総町史 通史近世編」を拾い読みすると、
「『郡誌によれば「仏舎利は称徳天皇の御蔵に係り』、後江戸時代に『豊後木村(杵築)
城主松平重賢日向守の喜捨するところと為す舎利塔銘あり之を詳らかにす』とある。」
「明治二十八年(一八九五)の『神社寺院取調書』には、本尊阿弥陀如来は慈覚大師
の作、腹籠は一寸二分の釈迦如来で弘法大師の作、大永二年(一五二二)に下野国
芳賀郡七井村(益子町)正法寺から移した旨記されている。」

とあります。

いずれも伝承の域を出ないので、その真偽のほどは分かりません。
また、このお寺が浄土宗に改宗したのは「徳治元年(1306年)で、良安上人による」
との記述も見えます。


檀林寺ー18

長い歴史を有する「檀林寺」は、その名の通り若い僧を育てる「檀林」であっただけに、
もっと多くの歴史的な遺物があってもおかしくないと思われますが、たまたま居合わせた
古老の話では、修復もままならない状況の中、こっそり持ち去る不届き者がいるようで、
いつの間にか見えなくなってしまったそうです。
歴史が消されてしまった思いです。
板碑を庭先に集めてセメントで固めたのも、悲しい防衛策なのでしょう。


檀林寺ー22


              ※ 「檀林寺」 成田市大菅167
                 JR滑川駅より徒歩約30分 
                 コミュニティバスしもふさ循環 大菅下車徒歩1分(本数少)
                 駐車場はありませんが、駐車スペースはあります。  

              ※ 檀林寺は以前訪ねた名古屋の小御門神社と滑川の龍正院
                 との中間地点にあります。3ヶ所回って4時間コースです。
                 小御門神社 ⇒
                 龍正院 ⇒



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滑河町の寺社 | 08:17:43 | トラックバック(0) | コメント(2)
山中にひっそり佇む~須崎神社
今回訪ねたのは「須崎神社」です。
昨年10月14日に掲載した「須賀神社と清龍寺、道を挟んだ神社とお寺」の時の
須賀神社と同じように、当てもなく移動していて偶然出会った神社です。

須崎神社ー1

細く、曲がりくねった山道の途中に「須崎神社」は突然現れました。


須崎神社ー2

神明鳥居が重なるように2つ建っています。
手前は石造りですが、後ろは木製で控柱が付いています。
木製の鳥居が傷んだので、新たに石造りの鳥居を建てたのでしょうか。


須崎神社ー3

訪れる人もいないようで、参道には落葉が積もっています。

拝殿脇の説明板にこの神社の由来が書かれていました。
「堀籠部落の鎮守様である この地を大伯天須崎と呼ぶ 須崎神社の名地名によるもの
元亀年間四百年前此の部落に 悪病流行して死者續出 住民が恐れ香取神宮に祈願
神宮の祭主経主の命を奉紀致したもので在る 其の后二回の火災に合う 現在の社
明和八年 二百年前に再建したもので在る 創建に当り当時村の有志三仁門さんが
特別の御奉仕された事が明記されております」
(文章はそのまま)

元亀年間(1570~73)に創建されて、明和八年(1771年)に再建されたという
歴史ある神社でした。
ご祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。

この神社の歴史をもう少し詳しく調べると、元亀三年(1572年)に創建され、翌天正元年
(1573年)に社殿が完成しましたが、文禄四年(1595年)に兵火で焼失し、慶長八年
(1603年)に再建されましたが、正徳二年(1712年)野火で再び焼失。
享保二十年(1735年)に再建され、明和八年(1771年)改築して明治時代に至ります。

「大栄町史・民俗編」(大栄町史編さん委員会編 大栄町発行)によれば、須崎神社は
堀籠地区の産土様(ウブズナサマ―村の神様)で社格は8級とあります。(P154)
毎年神社庁に納める負担金は社格によって決まっていて、8級は最下級の兼務社です。


須崎神社ー4

拝殿は開け放たれて、吹きさらし状態です。


須崎神社ー7
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須崎神社ー8
風雨に晒されて大分傷んだ古いお神輿が無造作に置かれています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須崎神社ー5
須崎神社ー6
「願主 當村善男女」と記された、天明元年(1781年)の宝塔。 


須崎神社ー9

神額には「赫日流輝」(かくじつきをながす)と書かれています。
これは夏の暑い日が強く光を放っている様を表す言葉で、中国の魏晋南北朝時代の
文学者・陶淵明の詠んだ漢詩です。
漢魏六朝と言われる漢詩の詩体の一種で、韻律や文字数に制約のない、自由な形式です。

どうしてこの漢詩がここに掲げられているのかは分かりませんが、明治の戦役記念という
文字が見えますので、地元出身の兵士を顕彰して掲げられたようです。


須崎神社ー10
須崎神社ー11
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須崎神社ー12
本殿は部分的に補修が行われています。
再建されてからも240年以上経っていますから、傷みも激しかったのでしょう。

本殿の周りを囲むように、沢山の祠が並んでいます。
明治41年に浅間神社(ご祭神・木花咲姫命)、鳳凰・吾妻神社(ご祭神不明)、八幡神社
(ご祭神・誉田別命)、天満神社(ご祭神・菅原道真)を合祀したという記録があります。
(大栄町史)


須崎神社ー13

「天満宮」です。
大正11年と記されています。

須崎神社ー14

「駒形神社」です。
大正9年と記されています。

須崎神社ー15
須崎神社ー16

崩れて判別できないものもあります。

須崎神社ー17

「八幡大神」です。

須崎神社ー18

千木は垂直切り、鰹木は3本です。


須崎神社ー19
須崎神社-20

境内の脇に荒れ果てた名も無い祠がありました。
中には小さなキツネの置物が・・・。
稲荷神社だったのでしょうか?


須崎神社ー22
須崎神社ー21

裏山の中に何やら祠のようなものが見えます。
近づいてみるとやはり小さな祠でした。
辛うじて「石宮」の二文字が読めました。
石宮神社という名の神社は松江や磐田、新潟などにあるようですが、あまり関連が
あるとは考えられません。
大木の根元で半分土に埋まり、幹にものみ込まれそうな姿は、玉造の六角堂にある
「木隠れ観音」を思い出させます。
宝徳寺観音堂 ⇒


須崎神社ー26
須崎神社ー27

鳥居の下に種字が彫られた欠けた板碑が2基。
一つは割れて倒れています。
きちんと調べれば、興味深い歴史が浮き出てくるかもしれません。


須崎神社ー28

参道の手前に二つの道祖神が並んでいます。
文化四年(1807年)と読めました。


須崎神社ー23
須崎神社ー25

堀籠は成田市の外れ、すぐ先は香取市と神崎町との境です。
江戸時代には「大白天」と称していましたが、明治6年に「須崎神社」と改称しました。
山中の鬱蒼とした森に包まれ、日陰で湿気の多い須崎神社ですが、調べれば
まだ何かが出てきそうな興味深い神社でした。


須崎神社ー29


              ※ 「須崎神社」 成田市堀籠840
                京成成田駅中央口より千葉交通バス 佐原行き 
                桜田権現下車徒歩約30分



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大須賀村の寺社 | 07:01:41 | トラックバック(0) | コメント(2)
台方の超林寺
以前に紹介した「麻賀多神社」の傍に「超林寺入口」の小さな看板があります。
今回は麻賀多神社訪問の時から気になっていた、この「超林寺」に向かいました。

超林寺ー1
超林寺ー2

麻賀多神社の先を下って行くと、山に包み込まれるように「超林寺」があり、その前には
田んぼが広がっています。


超林寺ー3
超林寺ー5

「超林寺」は「麻賀多山信竜院超林寺」と号する曹洞宗のお寺です。
ご本尊は「釋迦牟尼佛(釈迦如来)」で、文明十三年(1481年)の建立です。

「成田市史近代編資料集1旧町村誌」の中に、超林寺に関する記述がありました。
「當寺開基千葉家始祖輔胤公 臺方龍谷ニ隠棲ノ際 超林道場ヲ建立シテ、
常州大雄院五世貴田周裔和尚ヲ 開山ニ請シタリ。 時ニ元享元年ナリ。
故ニ公没後ノ法名 超林寺殿一置シアリ。 尚境内ニ千葉家墓碑現有セリ。
當寺ハ曹洞宗小本寺格ニシテ、現ニ二ヶ末寺ヲ有スルノミナラズ、古来
臺方一円下方ノ大部分ハ當寺帰依檀徒タリ。」 
(P200 公津村史)

輔胤公(すけたねこう)とは、室町時代中期から戦国時代初期の武将で、印旛郡印東庄
岩橋村を所領としていたことから、岩橋輔胤と名乗っていました。
(なお、この輔胤が千葉家の当主であったかどうかについては諸説があるようです。)
また、臺方(だいかた)、下方(しもかた)は超林寺周辺の地名です。


超林寺ー6
・・・ 本堂横の「妙覚院」 超林寺ー7


超林寺ー10

本堂の手前に2基の板碑があります。


超林寺ー8

下総式板碑で、元享二年(1322年)の紀年銘があるとされています(今は判読できません)。
刻まれている種字は「阿弥陀如来」を表しています。


超林寺ー9

成田市指定有形文化財の「平貞胤供養碑」。
案内柱には「今は判読できないが観応二年(1351年)の記年銘がある」と書かれています。
平貞胤(千葉貞胤 1292~1351)は千葉氏第11代当主で、南北朝時代に鎌倉幕府側に
ついて楠木正成と戦い、後に新田義貞が挙兵するとこれに与し、さらに北朝方に寝返るなど、
激動の時代を生き抜いた武将です。


超林寺ー11

2基の板碑に並んで宝篋印塔が建っています。
宝篋印塔は通常、供養塔や墓碑塔として建てられます。
辛うじて「第十四世~」とだけ読めますので、御住職の墓碑塔なのでしょう。


超林寺ー12

この多層塔は台座部分が平成13年に新しくされました。


超林寺ー13

「御開山貴田周裔大和尚」像。


超林寺ー14
超林寺ー15

屋根を見上げると、見慣れない瓦組みです。
大棟瓦と言うのでしょうか、棟込瓦と言うのでしょうか、良く分かりませんが、薄く細長い瓦が
何層にも並んでいます。
見えている紋は梅のようです。
曹洞宗のお寺は竜胆と桐の紋のはずですが・・・


超林寺ー16

境内の左側に大小4基の石碑が建っています。
左端の一番大きな碑は昭和63年に建立の「客殿庫裡建立記念碑」です。
そこにはこう記されています。
「当山は本寺常陸国日立市宮田町杉室天童山大雄院より千葉輔胤公が文明十年
(一四七八年)室町時代に開基し、大雄院五世貴田周裔大和尚により開山される。
御本尊は釋迦牟尼佛であります。現在に至る迄檀信徒の厚き護持により禅寺として
幾多の天災地変もありましたが法灯を守り続けてきました。~」


隣は大正4年の「報恩」と刻まれた石碑で、「菊地全應老師報恩碑」と記されています。
三番目の小さめの碑は明治33年の「功徳碑」、一番右には「永代燈明料」とあります。


超林寺ー18
超林寺ー19超林寺ー20・・・・・

このお堂の名前は私には読めません。
漢和辞典で懸命に探しましたが、この文字は見つかりませんでした。
雨の下に弓が3つ並んでいます。
一番近いと思われるのが「靈」か「霛」なのですが・・・。
2体の仏様はいずれも左手に数珠を、右手に経典のようなものを持っています。

※ このブログをお読みいただいている方から、以下のようなご指摘をいただきました。
「読みは”Ling(りん)”、中国古語のようです。 意味は精神とか魂を示す古代釈尊由来
のようで、現在の中国語の主体を成す、当時より簡便なモノとは違い、より原仏教に近い
文字のようです。」
ありがとうございました。 すっきりしました。



超林寺ー21

昭和59年に建立された「慈母観音」。
慈母観音にはいろいろな形がありますが、この観音様は子供を軽々と抱き上げて
すっくと立った像です。


超林寺ー22
超林寺ー31

斜面に古い墓地があります。
延宝、延享、享保、天明などの年号が見えます。
斜面に向かって立ち、通路には背を向けた石仏には「如意輪観音」が多く見られます。


超林寺ー24

お寺の前、田んぼに向かっては新しい墓地が広がっていますが、その一角に古い石仏が
集められています。
貞享、文化、文政などの年号が読めます。


超林寺ー25
超林寺ー26

ふと視線を感じて振り返ると、ネコが道端に座っていました。
じっとこちらを見つめて、何か言いたそうです。


超林寺ー27

その傍にこんな看板が・・・。
なるほど、おっしゃる通りです、良く分かりました!
ネコの腕に「自然保護」の腕章が見えたような、見えないような・・・。


超林寺ー17
超林寺ー23

「超林寺」は近くの「麻賀多神社」や「宗吾霊堂」に隠れてあまり知られてはいないお寺です。
きれいに手入れされた境内には530年を超える歴史とともに、檀徒に守られている雰囲気
が感じられます。
「麻賀多神社」 ⇒
「宗吾霊堂」 ⇒


超林寺ー33


                 ※ 「超林寺」 成田市台方10-2
                   京成宗吾参道駅から徒歩約30分
                   京成公津の杜駅からコミュニティバス 北須賀ルート
                   麻賀多神社下車 徒歩5分



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公津村の寺社 | 07:00:43 | トラックバック(0) | コメント(3)
成田で一番新しい駅、成田湯川駅
成田湯川駅は平成22年7月開業の、成田市内で一番新しい駅です。

湯川駅ー1


この駅の周辺路線の運営は非常に複雑で、成田湯川駅と両隣の印旛日本医大駅と
空港第2ビル駅との間は第3セクターの成田高速鉄道アクセス株式会社のもので、
運用は京成電鉄が行っています。
成田高速鉄道株式会社の大株主は成田空港株式会社で54.5%の株を保有しています。

京成高砂駅から成田空港に至る路線は、一般にスカイアクセス線とか北総線とか呼ばれ
ていますが、正式には次のようになっています。
京成高砂駅~小室駅間は、第1種鉄道事業者の北総鉄道株式会社が、小室駅~印旛
日本医大駅間は、第3種鉄道事業者の千葉ニュータウン鉄道株式会社が、そして、印旛
日本医大駅~成田空港高速鉄道線接続点(土屋のイオンモール付近)間は、第3種鉄道
事業者の成田高速鉄道アクセス株式会社が、さらに成田高速鉄道アクセス線接続点~
成田空港駅間は、第3種鉄道事業者の成田空港高速鉄道株式会社(アクセス(株)とは
別会社)が保有するという複雑さです。
成田高速鉄道の路線は京成成田駅から成田空港までですが、イオンモール付近で成田
高速アクセス線と合流しています。
この路線の運賃の高さは、この辺が影響しているのでしょう。


湯川駅ー4
湯川駅ー3

少し離れた山の上からこの駅を見ると、電車が3階部分に止まっているのが見えます。


湯川駅ー28
湯川駅ー26

改札口に人影はありません。


湯川駅ー25

1階のコンコースには淡い色彩の大きなステンドグラス。
駅舎としては珍しい演出です。


湯川駅ー27

2階へはエスカレータとエレベーターで。
階段で登るにはいささか・・・。


湯川駅ー5

2階もとても広いコンコースです。
ちょっとしたイベントが開けそうです。


湯川駅ー7
湯川駅ー8
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湯川駅ー6
湯川駅ー23
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・湯川駅ー24
ホーム階へのエスカレーターもこの長さです。
ここはエレベーターで上りました。


湯川駅ー9

空港行きのホームです。
乗客は1人もいません。
この先は空港第2ターミナルと成田空港駅の2駅のみです。


   ホームの待合室   湯川駅ー11
湯川駅ー12   電光掲示板

湯川駅ー14
湯川駅ー15

ふと外を見ると100メートルほど先で何やら工事が行われています。
トンネルを掘っているように見えますが、良く見ると踏切がありました。
仮設の踏切のようで、下の細い道から木組みの階段が設けられています。
工事の上は線路のようです。
と、すると、この工事はトンネルではなく、線路をくぐるガード工事ですね。
線路はJR成田線でしょうか?


湯川駅ー19
湯川駅ー20

いったん2階のコンコースに降りて、高砂、上野方面のホームに出ました。
ちょうど電車が入ってきました。
乗車した人が10名程度、降車した人はいません。
この駅の2013年度の1日あたりの乗降者数は1284人でした。

この電車は羽田空港行きでした。
成田空港高速鉄道線~成田空港高速アクセス線~千葉ニュータウン鉄道線~北総鉄道線
~京成電鉄本線~京成押上線~都営地下鉄浅草線~京浜急行本線~京浜急行羽田線と
串刺しにして走って行くわけです。


湯川駅ー16
湯川駅ー17

ホームから見える景色は成田ニュータウンの北の外れで、まだ開発は進んでいません。
遠くにニュータウンのランドマーク、NTTの鉄塔が見えます。


湯川駅ー21

いきなり背中をスカイライナーが通過して行きました。
この駅は線路が4本あって、高速で通過するスカイライナーのためにホームの間に上下2本
の通過線が設置されています。
高砂方向からは複線ですが、この駅から空港へ向かっては単線になります。
複線から単線へ、しかも高速の電車が通過するポイントは、大変な負荷がかかります。
ここに使われている分岐器は、日本最大級の38番分岐器です。
(本線と分岐線が1メートル離れるまでに必要なレールの長さを番数で表します。 例えば、
20メートル進んで1メートル離れるのなら、20番となります。 つまり、この駅の先では
38メートル進んで1メートル離れるわけです。)
この駅を通過するスカイライナーは時速160キロ程度ですから、相当長い距離を使う必要
があるのですね。


湯川駅ー22

ホームから下を覗くと線路が見えます。
この駅の下を潜っています。
間違いなくJR成田線で、先ほどのガード工事の場所に続いているのです。


湯川駅ー30
湯川駅ー31

改札を出て駅前のロータリーに出ました。
駐輪場の上を成田線の電車が通過して行きます。
こんな近くで交差しているのなら、JRもここに駅を作れば便利になるのに・・・と、誰もが
思うのですが、JRにしてみれば、我孫子方面から空港に向かう乗客を取られる心配が
あり、また現在のような利用客数では魅力がないのでしょう。


湯川駅ー32
湯川駅ー33
湯川駅ー34

駅前のロータリーを出たところに「千波が池(千把ヶ池)跡」の碑があります。
このお地蔵様の前にはかつて千把ヶ池という幅90メートル深さが1メートルの池があり、
辺り一面萱原だったそうです。
ここには、「地主が子守に娘を背負わせたまま、萱を千把刈り取るように命じたところ、
千把目を刈り取った時に背負った娘の首が落ちてしまった」という、何ともやるせない
物語が残っています。
中央のお地蔵さまはその供養のため建てられたのでしょうか。
文化十一年(1814年)と記されています。
左の「廿三夜供養塔」には明和七年(1770年)、右の「奉讀普門品一萬巻供養塔」には
文政十三年(1830年)と記されています。


湯川駅ー2

開業前の仮駅名は「成田ニュータウン北」でした。
ここから出るバスはニュータウンを横断してJR成田駅へ向かいます。
ニュータウンの拡大とともに、ホームに乗客が溢れる日は来るのでしょうか?


                ※ 「成田湯川駅」 成田市松崎1620-1
                   隣の駅は空港第2ビルと印旛日本医大駅





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鉄道・駅 | 07:32:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
日本武尊と弟橘姫~吾妻神社
新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


今回は成田ニュータウンの中にある「吾妻神社」を訪ねます。

吾妻神社ー8

「吾妻神社」は「吾妻塚」と呼ばれる古墳の上に建てられています。
「吾妻神社」の由来について、説明板を引用しますと、
「吾妻神社は、第十二代景行天皇の皇子である日本武尊と妃の弟橘姫の二神を祭神として
ています。日本武尊が東征の折り、ここ下総に至り、印波湖(印旛沼)を渡って北上し常陸に
軍団を進めるとき、かつて、相模の走水から対岸の上総へ渡る際に、波が荒れて船を進め
ることができませんでした。その時、妃の弟橘姫が、海神の怒りを鎮めようと自ら身を投じて
海難を救いました。その健気な姫の面影を偲び、尊は、この地にも塚を築いて遺品を納め、
祠を建てて姫を祀ったのがこの神社の創めと伝えられています。」

吾妻塚とは、弟橘姫の遺品を納めた古墳のようです。


吾妻神社ー9

日本武尊については諸説あり、中には雄略天皇をはじめとする何人かの英雄を統合した
架空の人物であるという説もあります。
私は、伝説には僅かであっても事実が含まれていると考えています(その方が夢があって
良いですよね)。
伝説に基づいて神社の由来にある創建の年代を推測すると、日本武尊の東征が景行天皇
四十年(290年)とされていますから、その頃、実に1700年以上も前になります。


吾妻神社ー10
吾妻神社ー13

約100年くらい前に建て直された小振りな本殿は、石柵に囲まれて保護されていますが、
残念ながら少々荒れた感じがします。

「時を経て、大正に初期に塚の周辺も荒れ、塚上にあった祠も損壊したため、氏子らの協力
を得て塚を築き、お宮を新たに建てて日本武尊を合祀しました。以来、夫婦和合、家運繁昌
の神さまとして崇敬をあつめ、近郷近在からの参詣客が年ごとに増えました。 古老の話に
よると、縁日の時には、南側に伸びていた約五十メートル程の参道に、数十軒の出店が立ち
並び大層賑わったといいます。」

(説明板より)

50メートルもあった参道は今はありません。
鳥居も無い社殿の前を細い道が横切り、立ちふさがるように住宅が立ち並んでいます。


吾妻神社ー11
吾妻神社ー19
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾妻神社ー18
狛犬の表情もどこか愛嬌があります。


吾妻神社ー12

本殿の千木は水平切り、鰹木は4本で、女神(弟橘姫)が祭られていることを示しています。

「また、無事に上総の地に着いた尊は、姫が身を投げた海辺に立ち「君さらず袖しがらみ
に立つ浪の その面影を見るぞ悲しき」という歌を詠み、その歌が地名の由来になったという
木更津市にも、姫の故事に因んだ本宮とも言うべき吾妻神社があります。」
 
(説明板より)

日本武尊は木更津に上陸して房総半島を北上したのですね。

「日本武尊(ヤマトタケル)東国征伐の折、相模(現在の神奈川県の一部)から上総(現在の
千葉県の一部)に渡ろうとしたとき、海上で嵐に襲われ、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海に
身を投じることで嵐を鎮め、数日後に海岸に御袖が流れ付いたので、この御袖を納める社を
建立したのが創祀と伝えられています。また、吾妻という地名は、日本武尊(ヤマトタケル)が
弟橘姫(オトタチバナヒメ)をしのんで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされ
ており、吾妻神社には、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が祀られています。」

(木更津市ホームページより)
こちらの神社の所在地も、木更津市吾妻です。


吾妻神社ー14
吾妻神社ー15

本殿の裏側に合祀された「猿田彦神社」があります。
隣接する宅地の一部を切り取ったような狭い場所です(と言うより、宅地が神社用地に
食い込んだと言う方が当たっているいるようですが・・・)。


道を挟んだ西側に気になる丘があります。
吾妻神社の説明板にもこう書いてあります。
「日本武尊は、大和政権による国内統一に献身した古代日本における伝説上の勇者と
してよく知られており、数多くの、物語に登場します。神社の西側にある古墳は天王塚という
前方後円墳ですが、この地域一帯は、昔から公津が原とよばれ大小様々な古墳がたくさん
ありましたが現在は、四十基が千葉県指定史跡として保存されています。」


吾妻神社ー1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾妻神社ー3
吾妻神社ー2

登った先には「浅間大明神」の祠がありました。


どうやら裏から登ったようで、前方に「八坂神社」の祠と鳥居が見えました。

吾妻神社ー4

右は平成26年、左は大正7年の建立です。
ご祭神は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」(牛頭天王)です。


吾妻神社ー5

鳥居は浅間大明神の反対側にあり、こちらが正面のようです。
ここは公津原古墳群の21号(天王塚)です。


吾妻神社ー16

再び浅間大明神の横を通って吾妻神社に戻ります。

2つ並んだ常夜燈は大正5年に寄進されたもので、説明板にあった再建時のものです。


吾妻神社ー20

天王塚との間に、ポツンと置かれた道祖神。
大正5年と刻まれていますから、これも再建時に建てられたものです。


吾妻神社ー17
吾妻神社ー21

お年寄りが一人、丁寧に境内を掃き清めていました。
住宅街の中で、ともすれば邪魔者扱いされかねない存在を、こうした人が守っています。

「吾妻」の地名は、日本武尊が亡き妃の弟橘姫を偲んで、「吾妻はや」(我が妻よ)と呼び
かけたことに由来し、また東国を「東」(あずま)と言うようにもなったと言われています。

「神社の北方には、昭和三十七年、東日本で初めて発見された八代玉作遺跡があり、
成田ニュータウン内の発掘調査成果と併せて、この地域が吾妻神社の由来を裏付ける
ように大和政権による東国進出の道筋であったと言うことができます。」

(説明板より)


吾妻神社ー22


            ※ 「吾妻神社」 成田市吾妻3-41
              北総線成田湯川駅から徒歩約30分
              JR成田駅西口より千葉交通バス 成田湯川行き 
              吾妻神社下車徒歩3分
                            
                             

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