
津冨浦、一坪田、臼作など、成田市内に「皇産霊神社」はいくつかありますが、
そのいずれも資料が少なく、ここ江弁須の皇産霊神社に関する資料も、わずかに
「成田市史 近代編資料集一」中の明治17年頃の公津村史に、
「無格社皇産霊神社 臺方字井戸花ニ坐ス。創祀不詳
祭事ハ井戸花中ニテ行フ。」
の二行しか見つけられませんでした。
臺方は現在の台方で、当時はこの一帯は臺方に属していたのでしょう。


「平安時代の西暦800年にさかのぼり、坂上田村麻呂が東方出征の折に
兵糧を確保するため、この地に陣を構え「江弁須」と名付けた。
高御産霊巣日之大神が祭神。
1987年に大規模な改修が行われた。」
(「拝殿建設記念碑」より
「たかむすびのかみ」は、古事記では「高御産霊巣日神」、日本書紀では「高皇産霊尊」と
書かれている「創造」の神様です。
江弁須と名付けた時にこの神社も創建されたということのようです。





流造の本殿はどっしりとバランスの良い佇まいです。

本殿の裏には三つの祠と一つの石柱が並んでいます。
中央の大小二つの祠は「熊野神社」で大きい方には大正7年と記されています。
小さな熊野神社の紀年銘は読めません。
また一番右側の祠は風化が進んでいて、何の神様か分かりません。
五角形の石柱は「地神塔」で、各面に「天照皇太神宮(てんしょうこうたいじんぐう)」
「大己貴命(おおあなむちのみこと)」「少彦名命(すくなびこなのみこと)」「埴安姫命
(はにやすひめのみこと)」「倉稲魂之命(うかのみたまのみこと)」と刻まれています。
「形状が五角形の石柱であることから、地神塔は一つの石仏のように思われがちだが、
旧公津地区ではそれぞれ五社神という神社として崇拝したのである。」
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博著 P91)

左の格子の中には「天満宮」「子安神」「疱瘡神」が並んでいます。
右側は神輿蔵です。

古い神輿です。
今は使われていないようです。

天保二年(1831年)の紀年銘がある手水盤。

皇産霊神社の参道に添うように二つの神社の参道が並んでいます。
「稲荷神社」と「浅間神社」です。


「稲荷神社」の参道です。
左側に見えているのは「皇産霊神社」の参道、右側は「浅間神社」の参道です。

安政六年(1859年)と記された稲荷神社の手水盤。

近年に補修されたようです。

「浅間神社」の参道。

明治39年と刻まれています。

昭和7年の建立です。

「皇産霊神社」と「稲荷神社」の参道の間に建つ石碑には、
「公津村江辧須字珎重鎮座 村社皇産靈神社」と刻まれています。


掘り込まれた参道に石垣を裂いて根を張り、あるいは二本の木の間にあった石を挟んで
持ち上げてしまったり、参道の木々はいずれも大木です。



住宅街の中にありながら、深い森に囲まれた「皇産霊神社」。
深く沈んだ空気が境内を支配しています。

※ 「皇産霊神社」 成田市江弁須304
京成公津の杜駅から徒歩約15分