今回は麻賀多神社訪問の時から気になっていた、この「超林寺」に向かいました。


麻賀多神社の先を下って行くと、山に包み込まれるように「超林寺」があり、その前には
田んぼが広がっています。


「超林寺」は「麻賀多山信竜院超林寺」と号する曹洞宗のお寺です。
ご本尊は「釋迦牟尼佛(釈迦如来)」で、文明十三年(1481年)の建立です。
「成田市史近代編資料集1旧町村誌」の中に、超林寺に関する記述がありました。
「當寺開基千葉家始祖輔胤公 臺方龍谷ニ隠棲ノ際 超林道場ヲ建立シテ、
常州大雄院五世貴田周裔和尚ヲ 開山ニ請シタリ。 時ニ元享元年ナリ。
故ニ公没後ノ法名 超林寺殿一置シアリ。 尚境内ニ千葉家墓碑現有セリ。
當寺ハ曹洞宗小本寺格ニシテ、現ニ二ヶ末寺ヲ有スルノミナラズ、古来
臺方一円下方ノ大部分ハ當寺帰依檀徒タリ。」 (P200 公津村史)
輔胤公(すけたねこう)とは、室町時代中期から戦国時代初期の武将で、印旛郡印東庄
岩橋村を所領としていたことから、岩橋輔胤と名乗っていました。
(なお、この輔胤が千葉家の当主であったかどうかについては諸説があるようです。)
また、臺方(だいかた)、下方(しもかた)は超林寺周辺の地名です。

・・・ 本堂横の「妙覚院」


本堂の手前に2基の板碑があります。

下総式板碑で、元享二年(1322年)の紀年銘があるとされています(今は判読できません)。
刻まれている種字は「阿弥陀如来」を表しています。

成田市指定有形文化財の「平貞胤供養碑」。
案内柱には「今は判読できないが観応二年(1351年)の記年銘がある」と書かれています。
平貞胤(千葉貞胤 1292~1351)は千葉氏第11代当主で、南北朝時代に鎌倉幕府側に
ついて楠木正成と戦い、後に新田義貞が挙兵するとこれに与し、さらに北朝方に寝返るなど、
激動の時代を生き抜いた武将です。

2基の板碑に並んで宝篋印塔が建っています。
宝篋印塔は通常、供養塔や墓碑塔として建てられます。
辛うじて「第十四世~」とだけ読めますので、御住職の墓碑塔なのでしょう。

この多層塔は台座部分が平成13年に新しくされました。

「御開山貴田周裔大和尚」像。


屋根を見上げると、見慣れない瓦組みです。
大棟瓦と言うのでしょうか、棟込瓦と言うのでしょうか、良く分かりませんが、薄く細長い瓦が
何層にも並んでいます。
見えている紋は梅のようです。
曹洞宗のお寺は竜胆と桐の紋のはずですが・・・

境内の左側に大小4基の石碑が建っています。
左端の一番大きな碑は昭和63年に建立の「客殿庫裡建立記念碑」です。
そこにはこう記されています。
「当山は本寺常陸国日立市宮田町杉室天童山大雄院より千葉輔胤公が文明十年
(一四七八年)室町時代に開基し、大雄院五世貴田周裔大和尚により開山される。
御本尊は釋迦牟尼佛であります。現在に至る迄檀信徒の厚き護持により禅寺として
幾多の天災地変もありましたが法灯を守り続けてきました。~」
隣は大正4年の「報恩」と刻まれた石碑で、「菊地全應老師報恩碑」と記されています。
三番目の小さめの碑は明治33年の「功徳碑」、一番右には「永代燈明料」とあります。



このお堂の名前は私には読めません。
漢和辞典で懸命に探しましたが、この文字は見つかりませんでした。
雨の下に弓が3つ並んでいます。
一番近いと思われるのが「靈」か「霛」なのですが・・・。
2体の仏様はいずれも左手に数珠を、右手に経典のようなものを持っています。
※ このブログをお読みいただいている方から、以下のようなご指摘をいただきました。
「読みは”Ling(りん)”、中国古語のようです。 意味は精神とか魂を示す古代釈尊由来
のようで、現在の中国語の主体を成す、当時より簡便なモノとは違い、より原仏教に近い
文字のようです。」
ありがとうございました。 すっきりしました。

昭和59年に建立された「慈母観音」。
慈母観音にはいろいろな形がありますが、この観音様は子供を軽々と抱き上げて
すっくと立った像です。


斜面に古い墓地があります。
延宝、延享、享保、天明などの年号が見えます。
斜面に向かって立ち、通路には背を向けた石仏には「如意輪観音」が多く見られます。

お寺の前、田んぼに向かっては新しい墓地が広がっていますが、その一角に古い石仏が
集められています。
貞享、文化、文政などの年号が読めます。


ふと視線を感じて振り返ると、ネコが道端に座っていました。
じっとこちらを見つめて、何か言いたそうです。

その傍にこんな看板が・・・。
なるほど、おっしゃる通りです、良く分かりました!
ネコの腕に「自然保護」の腕章が見えたような、見えないような・・・。


「超林寺」は近くの「麻賀多神社」や「宗吾霊堂」に隠れてあまり知られてはいないお寺です。
きれいに手入れされた境内には530年を超える歴史とともに、檀徒に守られている雰囲気
が感じられます。
「麻賀多神社」 ⇒
「宗吾霊堂」 ⇒

※ 「超林寺」 成田市台方10-2
京成宗吾参道駅から徒歩約30分
京成公津の杜駅からコミュニティバス 北須賀ルート
麻賀多神社下車 徒歩5分
ご参考までに「成田市史」に掲載されている「超林寺鋳銅雲板」についての解説を、以下に記しておきます。
「応永十五年(一四〇八)の紀年銘がある雲板で、縦四四.八センチメートル、横四〇.八センチメートル。頭頂部はやや高く中央に吊手孔があって、孔のまわりには矢車草様の花を配した飾座がある。腰のくびれは上方に位置し小さく深く巻き上がっており、裾は尖り裾でその上部に八葉蓮華文に飾られた薄肉鋳出しの撞座がある。縁はかまぼこ縁で、その内側に一条の子縁をめぐらしている(裏も同様)。板面には「小見永徳寺打板也(中略)応永十五戊子三月廿二日」という銘文が陰刻されている。銘文中に見える打板は雲板の別称で、ほかに長板、火板、板鐘ともいう。もともと雲板は身の外縁部が雲形していることから名付けられたもので、中国から禅宗とともに伝来したものでありその後他宗にも拡大し、僧房や茶室、ときには軍陣にも使用された。昭和五十二年三月八日に市の指定文化財になった。」
文中にある「小見永徳寺」に関しては、その所在等に関しては不明となっています{小見川(現・香取市)あたりにあった廃寺でしょうか?)。また、台方周辺で、文化財に指定されている文字銅板等は他に無いようです。
以上、ご参考になれば幸いです。