
室町時代の宝徳年間(1449~52)の創建で、真言宗豊山派のお寺です。
現在は本堂は無く、この観音堂だけが残っています。
説明板には次のように書かれています。
「この周辺は平安時代の和名抄に「埴生郡玉作郷」とある歴史上古い土地である。
当山も宝徳年間創建と伝えられこのお堂も宝徳寺伽藍の一棟で貞享元年(一、六八四)
住持照栄和尚の発願により近江国坂田郡柏原吉田又左衛門家次設計によるもので
成田山光明堂も同人の設計である。 堂宇は六角四面造りで珍しい六柱造りであるため
一名六角堂と呼ばれ県内でも数例しかなく建築史上注目に値する建造物である。
御本尊は銅造聖如意輪観音像で三百余年の今日も安産子育、の観音様と言われて
諸人の崇敬を集めております。」

この2つの祠には万人講と書かれています。

細い参道の入り口に立つお地蔵様には「奉造立念佛供養」と刻まれています。
他にも文字が刻まれていますが、判別できません。
凛とした立ち姿です。
『観音堂の前に地蔵菩薩を刻んだ石仏が立っている。寛文九年(一六六九)十月の造立で、
「奉造立念仏供養」の銘がある。造立者は八代村の念仏講であるが、石仏としては成田市内
最古のものと思われる。』
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博著 P140)

ヤツデの葉に覆われた手水盤には元文五年(1740年)と刻まれています。
参道の左手に3基の板碑が並んでいます。

「三十三年目供養 聖如意輪観音菩薩」の板碑には明治37年と記されています。

明治18年の「普門品供養塔」。

上部に種字を刻んだ「先祖代々供養塔」は明治23年のものです。

3基の板碑の後ろには沢山の石仏が並んでいます。

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享保、寛保、宝暦、安永、天明などの年号が読めます。
どれもとても味わいのあるお姿です。


不思議な言い伝えがある「木隠れ観音」の大木です。
説明板にはこうあります。
「この古木に包まれた石佛は「木隠れ観音」と呼ばれ「この観音様が見えなくなる時この
土地は発展する」と言い伝えられて来ましたが当時は山林と畑に囲まれた淋しい処で
誰も夢想だにしませんでした。 然し今この言い伝えが現実のものとなり周辺が市街化
するを見るにつけ先人の残された言い伝えの中に子孫への期待感と未来への願望を
見る思いがします。 刻々と移り行く人生の中で正しい信仰を持ち先人・古老の教えを
大切にしこの伝承を子孫に伝えて行き度いと念じております。 宝徳寺 照文 敬白 」
もう観音像は見えません。
古木の幹に包み込まれてしまったのでしょうか。
昭和40年ごろまでは幹に空いた小さな穴から台座のような石が見えたそうです。

石灯篭の形も六角の観音堂。
ピカピカで出来たてのようです。
実はもともとあった観音堂は平成23年8月に不審火により焼失してしまったのです。
茅葺の美しい姿はもう見ることができません。
つい最近再建されたのがこの観音堂。
以前のものとは形も少々違っていますが、これはこれで見事な建造物です。
しかし、歴史の重みが感じられない分、ちょっと趣が足りません。
木隠れ観音の古木は焼け残り、説明板も火災以前のものです。
古木の中に隠れた観音様が、火事で再び現れなくて良かったですね。



観音堂の火災に関する多くの記事を読みましたが、ご本尊の行方が分かりません。
焼失してしまったのでしょうか?
火災に遭う前の記事に「立派な厨子の中に安置され~」とありましたが・・・

失礼して中を覗かせていただきましたが、厨子らしきものも見えません。
ご本尊が失われてしまったので、説明板も書き直さないままになっているのでしょうか?

お堂の左手奥に、いずれも「権大僧都~」と読める墓石らしきものがあります。
左手は享保七年(1722年)と読めました。
右手は正徳六年(1716年)と読みましたが、ちょっと自信がありません。
風化で読みにくく、正徳六年は年の途中で享保に年号が代わっているからです。


住宅地の中にこんな空間があるのはとても良いことですね。
昔の写真を見ると、お堂は鬱蒼とした木々に囲まれていましたが、防災上の配慮
からか、現在は周りから見渡せるようになっています。
真新しいこのお堂が、年月を重ねて趣のある姿になるのを見るのは、
何世代後の人たちなのでしょうか?

※ 「宝徳寺観音堂(六角堂)」 成田市玉造3-9
JR成田駅西口より千葉交通バス中央通り線成田湯川行き
玉造中学下車 徒歩3分