本年もよろしくお願いいたします。
今回は成田ニュータウンの中にある「吾妻神社」を訪ねます。

「吾妻神社」は「吾妻塚」と呼ばれる古墳の上に建てられています。
「吾妻神社」の由来について、説明板を引用しますと、
「吾妻神社は、第十二代景行天皇の皇子である日本武尊と妃の弟橘姫の二神を祭神として
ています。日本武尊が東征の折り、ここ下総に至り、印波湖(印旛沼)を渡って北上し常陸に
軍団を進めるとき、かつて、相模の走水から対岸の上総へ渡る際に、波が荒れて船を進め
ることができませんでした。その時、妃の弟橘姫が、海神の怒りを鎮めようと自ら身を投じて
海難を救いました。その健気な姫の面影を偲び、尊は、この地にも塚を築いて遺品を納め、
祠を建てて姫を祀ったのがこの神社の創めと伝えられています。」
吾妻塚とは、弟橘姫の遺品を納めた古墳のようです。

日本武尊については諸説あり、中には雄略天皇をはじめとする何人かの英雄を統合した
架空の人物であるという説もあります。
私は、伝説には僅かであっても事実が含まれていると考えています(その方が夢があって
良いですよね)。
伝説に基づいて神社の由来にある創建の年代を推測すると、日本武尊の東征が景行天皇
四十年(290年)とされていますから、その頃、実に1700年以上も前になります。


約100年くらい前に建て直された小振りな本殿は、石柵に囲まれて保護されていますが、
残念ながら少々荒れた感じがします。
「時を経て、大正に初期に塚の周辺も荒れ、塚上にあった祠も損壊したため、氏子らの協力
を得て塚を築き、お宮を新たに建てて日本武尊を合祀しました。以来、夫婦和合、家運繁昌
の神さまとして崇敬をあつめ、近郷近在からの参詣客が年ごとに増えました。 古老の話に
よると、縁日の時には、南側に伸びていた約五十メートル程の参道に、数十軒の出店が立ち
並び大層賑わったといいます。」
(説明板より)
50メートルもあった参道は今はありません。
鳥居も無い社殿の前を細い道が横切り、立ちふさがるように住宅が立ち並んでいます。


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狛犬の表情もどこか愛嬌があります。

本殿の千木は水平切り、鰹木は4本で、女神(弟橘姫)が祭られていることを示しています。
「また、無事に上総の地に着いた尊は、姫が身を投げた海辺に立ち「君さらず袖しがらみ
に立つ浪の その面影を見るぞ悲しき」という歌を詠み、その歌が地名の由来になったという
木更津市にも、姫の故事に因んだ本宮とも言うべき吾妻神社があります。」
(説明板より)
日本武尊は木更津に上陸して房総半島を北上したのですね。
「日本武尊(ヤマトタケル)東国征伐の折、相模(現在の神奈川県の一部)から上総(現在の
千葉県の一部)に渡ろうとしたとき、海上で嵐に襲われ、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海に
身を投じることで嵐を鎮め、数日後に海岸に御袖が流れ付いたので、この御袖を納める社を
建立したのが創祀と伝えられています。また、吾妻という地名は、日本武尊(ヤマトタケル)が
弟橘姫(オトタチバナヒメ)をしのんで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされ
ており、吾妻神社には、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が祀られています。」
(木更津市ホームページより)
こちらの神社の所在地も、木更津市吾妻です。


本殿の裏側に合祀された「猿田彦神社」があります。
隣接する宅地の一部を切り取ったような狭い場所です(と言うより、宅地が神社用地に
食い込んだと言う方が当たっているいるようですが・・・)。
道を挟んだ西側に気になる丘があります。
吾妻神社の説明板にもこう書いてあります。
「日本武尊は、大和政権による国内統一に献身した古代日本における伝説上の勇者と
してよく知られており、数多くの、物語に登場します。神社の西側にある古墳は天王塚という
前方後円墳ですが、この地域一帯は、昔から公津が原とよばれ大小様々な古墳がたくさん
ありましたが現在は、四十基が千葉県指定史跡として保存されています。」

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登った先には「浅間大明神」の祠がありました。
どうやら裏から登ったようで、前方に「八坂神社」の祠と鳥居が見えました。

右は平成26年、左は大正7年の建立です。
ご祭神は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」(牛頭天王)です。

鳥居は浅間大明神の反対側にあり、こちらが正面のようです。
ここは公津原古墳群の21号(天王塚)です。

再び浅間大明神の横を通って吾妻神社に戻ります。
2つ並んだ常夜燈は大正5年に寄進されたもので、説明板にあった再建時のものです。

天王塚との間に、ポツンと置かれた道祖神。
大正5年と刻まれていますから、これも再建時に建てられたものです。


お年寄りが一人、丁寧に境内を掃き清めていました。
住宅街の中で、ともすれば邪魔者扱いされかねない存在を、こうした人が守っています。
「吾妻」の地名は、日本武尊が亡き妃の弟橘姫を偲んで、「吾妻はや」(我が妻よ)と呼び
かけたことに由来し、また東国を「東」(あずま)と言うようにもなったと言われています。
「神社の北方には、昭和三十七年、東日本で初めて発見された八代玉作遺跡があり、
成田ニュータウン内の発掘調査成果と併せて、この地域が吾妻神社の由来を裏付ける
ように大和政権による東国進出の道筋であったと言うことができます。」
(説明板より)

※ 「吾妻神社」 成田市吾妻3-41
北総線成田湯川駅から徒歩約30分
JR成田駅西口より千葉交通バス 成田湯川行き
吾妻神社下車徒歩3分
本年もよろしくお願いします
今年も成田の素敵な風景を
楽しませてもらいます。
新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
私もbonbonnoさんのブログを楽しみしています。
今年もブログ楽しみにしております。
よろしくお願いいたします。
成田山のブログをとても興味深く読ませていただきました。
私の今年の初詣は4日でした。
今年もよろしくお願いします。
古墳群と日本武尊、弟橘姫の伝承、かねてから訪ねたかった場所でした。偶然にも、その姿に接することが出来て、嬉しいです。
春先になったら、是非お訪ねしたいと思っております。
暖かくなったら是非おいでください。
昨年末に書いた六角堂も近くにあります。