県道44号線(成田小見川鹿島港線)の赤池入口バス停(多古循環バス)のある交差点に、
興味深い石塔が立っています。

(多古町十余三355)
この道標は多古町十余三と成田市前林との境界(多古町側)に立っています。
電柱やコンビニの看板に隠れて、注意して見ないとその存在に気付くことはありません。

車の往来の多い交差点に立っていますが、説明板もなく、注意を引くものが何もありません。
天保三年(1832)の造立で、何の保全もされていない野ざらし状態で黒ずんでいるものの、
約190年間の風雪に耐えてきたわりには風化は少なく、文字もその大半が読める状態です。

篆額に「花山院」、その下に「西國三十三所供羪」の文字が太く深く刻まれています。
これは、西国三十三ヵ所の霊場を巡拝した記念に建てられた巡拝供養塔です。
西国三十三所は、現在の京都府、大阪府、奈良県、和歌山県、兵庫県、滋賀県、岐阜県に点在
する33ヶ所の観音霊場の総称です。
観音菩薩が衆生を救うために33の姿に変化すると言われ、33ヶ所の観音菩薩に参拝すること
によって現世での罪が許され極楽に往生できるという信仰から生まれた巡礼の道です。
江戸時代にはこの観音巡礼が庶民にも広まり、「巡礼講」を組んでの巡礼が盛んに行われました。
右には「とつかう」、左には「なりた」と刻まれ、一番下には「前林村」と刻まれています。

前林村は明治二十二年に町村制施行で本大須賀村に、昭和17年に昭栄村、昭和30年には
昭和の大合併で大栄町となり、平成18年に平成の大合併によって成田市前林となりました。
でも、いまこの巡拝供養塔が立っているところは成田市と多古町の境界線ですが、多古町側です。

この巡拝塔は当初立っていた場所から移動されたのでしょうか?
まず、現在立っている多古町の町史を調べてみました。
【もう一つの道標(高さ一三九センチ)は、成田、小見川県道から国道五十一号線の桜田
へ向い、県道が交差する十字路に立っている。
その刻字は、「(表)花山院西国三十三所供□□とつ□なり□(伏字部分埋没)。(左)此方
すこしゆき右さくらかとり左いのふかうさき。(右)此方ひしたかもしばやまいゝささ。(裏)
みくら山くらまつさきたこ中むら八日市場。旹天保三龍集壬辰(一八三二)霜月詰旦。】
(「多古町史 上巻」昭和60年 P785から786)
と、「多古町の道標」として記述されています。
成田市側からこの巡拝塔の記述があるか、を調べました。
成田市史の編纂は平成の大合併前ですから当然記述はありませんが、「成田市史研究第33号」
(平成21年3月)の「大栄地区の石造物」(島田七夫氏の寄稿)にも見当たりません。
合併前の大栄町史に記述がないか見ましたが、「大栄町史 民俗編」(平成10年)の423ページ
から438ページにある大栄町内の石造物リスト(全595件)に当該石造物の名前はありません。
さらに「大栄町史」中の「大栄町の旧街道を往く」等の記述を追ってみましたが、それらしき記述に
出会うことはありませんでした。
唯一大栄町としての記述は、「大栄町の歴史散歩」(久保木良著 平成6年)にありました。
【県道、成田・小見川・鹿島港線を多古町にむかう。バス停の道祖神をすぎますと右手に
高さ一七五センチの立派な道標が建てられています。
この道標の左側面に「此方 すこしゆき 右 さはら かとり 左 いのふ かうさき」とあり
ます。「此方 すこしゆき右・左」ということばを刻んだ道標なんぞは聞いたことも見たことも
なかったものです。他に例があるだろうか、珍品中の珍品といえるでしょう。 (中略) この
三十三所供養と刻まれた文字の下、左右に「とっこう」「なりた」とあります。さらにその下
には「前林村」と刻んでありますから、村として建立したことがわかります。】 (P11~12)
ここでは前林村が造立したと明記されています。
「前林村」と刻まれていることからこう記述されたのでしょうが、立っている場所が記述当時の
旧大栄町前林なのか、多古町なのかについての考察はなく、大栄町の石造物であることに
疑問を持たずに記述されているようです。

調べた限りでは、少なくとも近年においては、この巡拝塔が多古町に立っていること、また立って
いたことに疑問はないようです。
ただ、昔の「村」の境界線がどうであったか、今の場所はかつては前林村だったのではないか?
あるいは、この巡拝塔が別の場所(前林村)に立っていたのではないか?
などの疑問は少なからず残っています。
篆額にある「花山院」とは何でしょう?

前述の「大栄町の歴史散歩」に次のような記述があります。
【 正面の上部に「花山院」と横に陽刻してあります。花山院は下総町に鎮座する
小御門神社の御祭神の称号ですが、小御門神社は明治の創建ですから、神社も建立
されていない祠の時代なのですが、悲しい歴史を秘めた藤原文貞公の徳をたたえたもの
なのでしょうか。】(P11~12)
小御門神社に祀られている藤原師賢は、和歌や管弦に長じていて、花山院師賢と号していた
ことを指しているようですが、この巡拝供養碑との関連は見つかりません。
造立当時の庶民が、藤原師賢のことや彼が花山院を号していたことなどを知っていたでしょうか?
「花山院」は現在の京都御苑内にあった邸宅のことですが、これもまた庶民の知るところではない
ような気がします。
元弘二年(1332)に流刑の地の名古屋(現成田市)で没した師賢は、翌元弘三年に後醍醐天皇
からその功績を称えられて「文貞公」の諡を賜りましたが、これらのことを五百年後の村民の中で
知っていた「文人」のような人がいたのでしょうか?
それとも西国三十三ヵ所巡りの途中で花山院を訪れ、感銘を受けたのでしょうか?
「小御門神社」は明治15年に創建された、比較的新しい神社です。
そして、ご祭神を実在の人物である藤原師賢(ふじわらのもろかた)とする珍しい神社です。
師賢は正安三年(1301年)生れで、大納言として後醍醐天皇に仕えていましたが、元弘元年
(1331年)に天皇と時の執権・北条高時とが対立して起った「元弘の乱」で敗れ、元弘二年五月
に遠くこの地に配流されて、十月に亡くなることになります。
元弘三年、楠木正成らの挙兵により鎌倉幕府が滅びると、天皇は師賢に太政大臣の官位と
「文貞公」の謚号(しごう-贈り名)を贈り、その忠義を称えました。
後に明治天皇がこの忠臣を称えて、国の守り神として「小御門神社」を創建し、「別格官弊社」に
列しました。


(小御門神社 平成26年8月 http://narita-kaze.jp/blog-entry-66.html ☜ ここをクリック
「西国三十三所」の由来には諸説ありますが、次のような説がもっとも知られているものです。
養老二年(718)に大和長谷寺の開基・徳道上人が病を得て亡くなった時、冥土の入口で閻魔
大王から「生前の罪業により地獄へ送られる者があまりにも多いが、三十三ヶ所の観音霊場を
巡ることによって罪滅ぼしが叶うので、巡礼によって人々を救うように」との託宣を受けて現世に
戻されました。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説きましたが世間の人々には受け
入れられずにやがて忘れ去られてしまいます。
それから約270年後、出家した花山天皇が紀州那智山での参籠中に、熊野権現が現われて
かつて徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するようにとの託宣を授けました。
その後徐々に三十三所霊場の巡礼は人々に広まっていきました。
花山天皇の追号は「花山院」で、徳道上人を三十三所巡礼の始祖とし、花山院を中興とする
説がもっとも知られた説となっています(これにも諸説あります)。
この篆額にある「花山院」とは、このような説に基づいて巡拝碑に刻まれたのでしょう。
藤原師賢(花山院)は花山天皇の生きた時代より330年以上後の人物であり、篆額に刻まれた
人物ではないようです。

「とつかう」は取香のことで、現在の成田空港周辺の地域です。
「なりた」は取香から右に下った方向です。
向って右の側面を見てみます。



「此方 ひした かも」と刻まれ、その下の右に「いゝさゝ」、左に「志ばやま」と刻まれています。
「ひした」は菱田(現・成田市)、「かも」は加茂(現・芝山町)、「いゝさゝ」は飯笹(現・多古町)、
「志ばやま」は芝山(現・芝山町)のことで、勿論、当時はそれぞれが村でした。
※ 菱田(現・成田市)とあるのは、菱田(現・芝山町)の誤りでした。 「ひょうたんぶらぶら日記」
というブログ( https://hy08.seesaa.net/ )の「瓢ろく」様からご指摘をいただきました。
4月20日 「瓢ろく」様、ありがとうございました。
次に背面を見てみます。


中央に「旹天保三龍集壬辰霜月詰日」、その右に「みくら 山くら まつさき」、左に「たこ 中むら
八日市場」と刻まれています。
旹(とき)と龍集(りゅうしゅう)は年号などを表すときによく使われる言葉です。
天保三年は西暦1832年、第十一代将軍德川家斉の治世です
「みくら」は三倉村(現在の多古町三倉地区)、「山くら」は現在の香取市山倉(旧山田町)、
「まつさき」は現在の多古町松崎のことです。

下部には造立に関わった人々の名前が刻まれています。.
右から、「 飯笹 武兵衛 同 茂右ェ門 同 長兵衛 同 利左ェ門 小堀 宗兵衛 取香 太兵衛
大木 太右ェ門 同 藤四郎 同 重兵衛 」とあり、その下段にも人名がありますが、こちらは風化
から読み取ることができません。



前林村の造立なのに前林村の名前が見えないのが不思議です。
風化で読めない下段に、前林村の面々の名前があるのでしょうか。
次に左側面を見てみます。

「此方 すこしゆき 右 さくら かとり 左 いのふ かうさき」 と刻まれています。
「此方 すこしゆき」とはおもしろい表現ですね。




二度目の確認のための訪問で、疑問が湧いてきました。
多古町史では「此方 すこしゆき 右 さくら かとり ・・・」と紹介されていて、私も何の疑問もなく
「さくら かとり」と読んでいたのですが、佐倉と香取では方角的に全く逆なのです。
仮に、「すこしゆき」分岐点があったとして、佐倉への道が続いていたなら、ここは「左 いのふ
かうさき さくら」でなければ不自然です。
もしかして、と目を凝らして見ると、「く」と読める字は「わ」の崩し字に見えてきました。
「さくら」ではなく、「さわら」なら矛盾はありません。
ここは「さわら(佐原)」が正解でしょう。 久保木良著の「大栄町の歴史散歩」が正解です。
「いのふ」は現在の成田市伊能、「かうさき」は成田市神崎のことです。

左側面から多古町方面を見ています」。

県道を香取市側から成田市取香方面を見ています。

多古方面から大栄方向を見ています。


電柱とコンビニの看板柱に囲まれ、くすんだ何の特徴もない石柱ですが、近づいて刻まれた文字
を読むと、そこには昔の人々の往来が見えてきます。
とっかう、いゝさゝ、ひした、かも、志ばやま、たこ、みくら、山くら、中むら、八日市場、かうさき、
いのふ、さわら、かとり・・・近隣の村々の名前がたくさん刻まれています。
今はなんの変哲も無い交差点ですが、昔は賑やかな交通の要衝だったようです。
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