
「昌福寺」は天台宗のお寺で、「釈迦如来」をご本尊としています。
山号は「紫雲山」、院号は「来迎院」です。

参道に面して四基の石仏が並んでいます。

左端の石仏は如意輪觀音です。
台座には「十九夜講」と刻まれていますので、十九夜待の「月待塔」です。
補修のため紀年銘がほとんど読めませんが、「享」「四」「子」の三文字が辛うじて読めます。
この三文字から推理すると、享のつく元号で四年以上あり、その四年の干支に子がある年号は、
永享四年(壬子・1432)と享和四年(甲子・1804)しかなく、月待講が広まったのが江戸時代
に入ってからであることを考えると、「享和四甲子年」と刻まれていると思われます。


真ん中の二基は「子安観音」です。
右側の観音像には「文化十三子」の紀年銘があります。
文化十三年は西暦1816年、200年前の石仏です。

右端の観音像には「普門品供羪塔」と刻まれています。
「普門品」とは、法華経の中の「観世音菩薩普門品(観音経)」という一章のことです。
観音経は、観世音菩薩の偉大な慈悲の力を信じその名前を唱えることで、あらゆる苦難から
救われる、と説いています。
「明治四未年」(1871)の紀年銘があります。

隣には昭和16年の「馬頭観音」の文字石版が建っています。

「成田の地名と歴史」には、「昌福寺」が次のように紹介されています。
「奈土に所在する天台宗寺院。 山号は紫雲山。 院号は来迎院。 本尊は釈迦如来。 古くは
奈土城跡に近い寺家山にあり、慶覚法印が開いたと伝えられる。 常陸小野の逢善寺(茨城
県稲敷市)に残る「檀那門跡相承資井恵心流相承次第」には、奈土に観実という学僧がいた
こと、逢善寺13世の良證法印が16世紀前半に当寺から入山にたことがみえ、関東の天台
宗の中心であった逢善寺と密接な関係を有していた。 1570(永禄13)年に徳星寺(香取市
小見)で行われた伝法灌頂(密教の最高位である伝法阿闍梨となる僧に秘法を授ける儀式)
では、当寺や奈土の僧侶たちが重要な役を勤めている。 戦国期に当寺で書写された聖教
(教学について記した典籍)からは、談義所として各地から集まった学僧が修学に励んでいた
ことがわかる。 このように当寺は大須賀保における天台宗の拠点であった。 近世の「寺院
本末帳」には「門徒寺八ヶ寺」と、末寺が18か寺あることが記されているので有力な寺院で
あったことがわかる。 檀家も地元の奈土だけでなく、柴田や原宿・毛成(以上神崎町)・結佐
(茨城県稲敷市)にもあった。 元禄期(1688~1704)に現在地現在地に遷座したという説
もある。」 (P276~277)
これにより「昌福寺」は、少なくとも16世紀前半には存在していたことが分かります。
450年以上の歴史あるお寺です。



本堂の屋根には、天台宗の宗紋である「三諦星(さんたいせい)」が掲げられています。

「天台宗。 奈土村字昌福寺に所在。 山号は紫雲山で院号は来迎院(大正十年『千葉県香取
郡誌』、以下『郡誌』)。 本尊は釈迦如来(明治十二年『千葉県寺院明細帳 下総国香取郡』、
以下『県寺明細』。 天明六年(一七八六)前後の「上総国下総国 天台宗寺院名前帳』に、上州
世良田長楽寺末の下総国小見村徳星寺の末寺として「紫雲山来迎院昌福寺」とある。 長楽寺
は群馬県新田郡尾島町、徳星寺は香取郡山田町に」所在する。 長楽寺ー徳星寺ー昌福寺と
いう上下関係であった。 同名前帳には「門徒九ヶ寺」とあり、昌福寺が配下の寺を九ヶ寺有して
いたと解釈されるが、同帳には個々の寺院の記載はない。」 (「大栄町史 P556~557)

本堂の前に「十三仏」と刻まれた石柱があります。
「奉造立 寶暦八戌■」と記されています。
寶曆八年は西暦1758年になります。
十三仏(じゅうさんぶつ)とは、平安時代の末期ごろから仏教に由来する末法思想や冥界思想
と共に広く浸透した十王(地獄で死者の審判を行う裁判官のような存在)という考え方をもとに、
死者の生前の行いを審判する十王と、浄土へと導く本地仏を置く思想です。
江戸時代に入ってから急速に広まり、三王・三仏を加えて十三王・十三仏となりました。
秦広王・不動明王(初七日)、初江王・釈迦如来(二十七日)、宋帝王・文殊菩薩(三十七日)、
五官王・普賢菩薩(四十七日)、閻魔王・地蔵菩薩(五十七日)、変成王・弥勒菩薩(六十七日)、
泰山王・薬師如来(七十七日)、平等王・観音菩薩(百か日)、都市王・勢至菩薩(一周忌)、
五道転輪王・阿弥陀如来(三回忌)、蓮華王・阿閃如来(七回忌)、祇園王・大日如来(十三回忌)、
法界王・虚空蔵菩薩(三十三回忌)
法要は、その都度、十王(十三王)に対して死者への減罪の嘆願を行うために行われます。


元禄、正徳、享保、延享、明和、寛政、文政などの元号が読める墓地の奥には、歴代の住職や
有力者の墓石が並んでいます。


墓地の中でとても珍しい、貴重な石仏を見つけました。
「愛染明王」像です。
紀年銘はほとんど読めませんが、「明■■庚寅」と読めるような気がします。
元号の頭が「明」で干支が「庚寅」の年は、明和七年と明治二十三年だけです。
「大栄町史」の「町域の寺院総覧」の項に、昌福寺に関する記述があり、その末尾に、
「なお境内墓地には、後述の廃寺東光寺にあった石塔類が移されている。特に江戸時代中期
の愛染明王像は、県内屈指の石仏である。」
とありますので、明和七年(1770)の造立であると思われます。
愛染明王は一面三目六臂の忿怒相で、頭には獅子の冠をかぶり、叡知を収めた宝瓶の上の
蓮華座上に結跏趺坐で座るという、特徴ある像容を持っています。
恋愛・縁結び・家庭円満などをつかさどる仏として信仰を集め、また「愛染」を「藍染」と解釈して、
染物や織物職人達の守護仏としても信仰されています。

左手には金剛鈴と弓を持ち、後の手は拳を握って突き上げていて、右手には五鈷杵と矢を持ち、
後の手は蓮華を持っています。
この明王像は廃寺となった「東光寺」にあったもので、移設前の東光寺跡での姿が、「大栄町史
民俗編」に掲載されています。(P196)

額には第三の目があり、牙をのぞかせる忿怒の相ですが、なぜか童顔に見えてしまいます。
成田では、成田山「光明堂」の「愛染明王」像と、吉岡の「大慈恩寺」の「絹本着色愛染明王」が
知られていますが、私の知る限り、成田市内に「愛染明王」の石像はこの一体だけです。
このブログで訪ねた150近い寺社でも、唯一、印西市の「松虫寺」に隣接する「松虫姫神社」
境内で見つけた石像が一体あるのみです。

(「松虫姫神社」境内の「愛染金剛」像 2014年11月撮影)
時の彼方の姫と牛、「摩尼珠山松虫寺」(2) ☜ ここをクリックしてください。

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境内には多くの本堂や庫裏の改修記念碑が建っています。

境内の右手に建つ年代不詳の二基の宝塔。
右の宝塔には「法蕐塔」と刻まれ、側面には「十方佛土中 唯有一乘法」と記されています。
これは法華経中の「方便品」にある一節で、仏の真の教えは唯一であって、それによって全て
の衆生が成仏できると説いています。

宝塔のそばにある年代不詳の「子安観音」像。

境内の一角には、千葉県指定の文化財である「山王社」があります。
「山王とは、滋賀県大津市坂本の日吉大社で祀られる神の別名であり、比叡山に鎮まる神を
指したものである。」
「山王信仰は、「山王神道」とも呼ばれる信仰をも派生させた。山王神道では山王神は釈迦の
垂迹であるとされ、「山」の字も「王」の字も、三本の線とそれを貫く一本の線からなっており、
これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。」 (ウィキペディア)
「享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等を建て柱材
其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり」
「域内山王社あり亦貞正の寄附建立する所にして其子孫奮族を以て稱せらる貞正通稱を
平兵衛と曰ふ」 (千葉縣香取郡誌)
この記述から、「山王社」は享保年代に奈土村の里正(村長的な存在)であった金岡貞正と
いう人物が建立・寄進したことが分かります。
説明板には次のように書かれています。
「寛保二年(一、七四二年)第二十世俊亮法師の建立。天台宗特有の社で、滋賀県比叡山の
日吉神社を勧請したもので、祭神は山咋命に大巳貴命、小祠であり、総けやき作りである。」
金岡貞正(平兵衛)の名前は出てきませんが、約280年前に建立されたことが分かります。

虹梁や側面、脇障子、台座部分に至るまで、細かい彫刻が施されています。








さらに、「香取郡誌」には、
「明治の初大に荒敗に屬し銅像蓮臺の如きに至るまで之を失ふに至りしが後住長澤良心
杜澤亮朝等苦心經營し漸く保存の道を講せり」
と書かれた一節があります。
この一節の前半部分は、明治政府による「神仏分離令」に触発されて起こった「廃仏毀釈」の
嵐を指しているものと思われますが、「神仏習合」の一例である「山王社」は、「神道」の側に
あるものとして、難を逃れたのでしょうか。

山門には釣鐘が下がっている珍しい造りです。
撞木もありますので、鐘楼も兼ねた山門です。

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鐘は昭和37年の鋳造で、撞座の脇にはうっすらと釈迦如来像が浮き上がっています。


山門の手前左右に二基の六角柱があり、それぞれに六観音と六地蔵が刻まれています。

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「山門の前に六地蔵を刻んだ六角石幢と六観音を刻んだ六角石幢が建っている。 一対のように
見えるが六地蔵は1679(延宝7)年の造立、六観音は1765(明和2)年の造立である。」
(「成田の地名と歴史」 P276~277)




「紫雲山來迎院昌福寺
同村奈土字昌福寺に在り域内七百三十六坪天台宗にして釋迦牟尼佛を本尊とす創建
詳ならざるも慶覺法印の開基にして天正中古山城主秋山佐内本寺に歸依し金穀を寄附
せり往時は村の寺家山に在りしを元禄中今の地に移せしと改建の時奮構造に用ゐたる
欄間あり之を本堂全体壁間に保存しあるも其彫刻の古雅なるは確として奮刹なるを證す
るに足る享保中十八世俊存中興開山と爲り當時里正金岡貞正獨力を以て本堂山門等
を建て柱材其他頗る宏壯を極め又銅佛像十三体を鑄り之を寄附せり各高各四尺許」
(千葉縣香取郡誌 P431~432)
のどかな山道を登り切ったところに「昌福寺」はあります。
長い年月を刻んだ境内を、春の風が桜を散らしながら吹き抜けて行きます。

※ 「紫雲山 昌福寺」 成田市奈土608

「荒神社(こうじんじゃ)」と「正等院(しょうとういん)」は細道の行き止まりに並んでいます。


この「荒神社」については、「千葉縣香取郡誌」や「千葉県神社名鑑」、「全国神社名鑒」の
いずれにも記載がありません。
荒神社は「荒神信仰」の盛んだった西日本に多い神社で、中部地方から東ではあまり見か
けない神社のようです。


手水盤は弘化四年(1847)のもので、正面に「荒」の字が刻まれています。


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流造の社殿はしっかりとした造りで、随所に凝った彫刻が施されています。

社殿前の石段の脇に立つ小さな石柱には、正面に「此方 香取御宮 さはら 小見川」と刻み、
左側面に「此方 なり田 さくら きちおか」、右側面には「此方 さくみち」と刻まれています。
道標だったようですが、方角が合いませんので、どこからか移設されたもののようです。

本殿裏にある二基の祠。
左は天保十二年(1841)のもので、右は年代不詳です。

同じく裏手に並んでいる三基の祠。
右の祠は「石尊大権現」と刻まれた天明二年(1782)のもので、真ん中は年代不詳、左には
「安永四■未年六月吉日」「月山 湯殿山 羽黒山 奉眞願子孫長久之処」と刻まれています。
「石尊大権現」とは、神奈川県伊勢原市にある「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」
のことで、「石尊」の名は、大山(別名・雨降山〈あふりやま))山頂の岩に神々が降りると信じ
られていたため付けられたと言われています。
江戸時代には関東の全域から大山詣をする人々が集まり、各地の村に石尊宮を勧請する
ことが盛んに行われました。

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境内右手にある寛政九年(1797)の祠と、年代不詳の二基の祠。
いずれも社号は分かりません。


小粒ながら細かな表現の彫刻を多く配した、流造の社殿です。
「荒神社」の境内から隣の「正等院」は見えていますが、一旦鳥居まで引き返して「正等院」に
向かいます。

門柱の右には「眞言宗智山派」、左には「桜田山正等院」と刻まれています。
このお寺に関する資料は少なく、「千葉縣香取郡誌」の「寺院誌」中にその他寺院として一行、
「眞言宗 本尊大日如来」とのみ記されています。
また、「成田市の文化財 第42集 仏閣編」には、
「宝暦10年(1760)には、この地にあったことが知られていますが、その他は不詳です。」
とあり、神崎の妙楽寺の末寺であると書かれています。
なお、現・成田市立大須賀小学校についての史料中に、明治九年(1876)に桜田小学校が
この正等院を借用する形で設立され、男子のみ49名の児童と教員1名であったこと、借用料
が月41銭6厘であったことなどが記されています。


門柱の脇に、首をスパッと落された数体の石仏が並ぶ異様な風景が目に入ります。
廃仏毀釈の名残でしょうか・・・、多くの場合は何とかセメント等で補修を試みた跡があるもの
ですが、ここでは無言の抗議を示すように生々しい痕跡をそのままに見せています。

本堂は比較的新しく、一見公民館風の造りですが、中を覗くと仏壇や仏具が見えます。


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境内にある「観音堂」は昭和58年に改築されました。


本堂裏には多数の石造物が並んでいます。

真ん中から折れて修復してあるため、遍照金剛(大日如来)以外は推読できません。
左右の側面に寛延や宝暦の元号が入った戒名が刻まれていますので、約250年前のもの
と推測できます。

「奉建立 廿■夜成就」「天明■年丁未年」と刻まれた月待塔。
刻まれているのは「勢至菩薩」のようですのでこれは二十三夜塔。
天明年中で干支が丁未なのは天明七年(1787)です。


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この三基は「大乘妙典読誦塔」。

傷みが激しく風化も進んでいて、何の像かは分かりませんが、半跏倚座で金剛杖のような
ものを持っています。
普賢菩薩か文殊菩薩のような気もしますが、破壊されている部分に象や獅子があったように
は見えませんので、判断できません。
三度目の訪問で、側面に刻まれた文字を無理やり「■政十一■子四月」と読んでみました。
「政」が付く元号は、寛政・文政・安政のみで、「安政」は七年しかなく、しかも「子」が付く年は
ありませんので除外できます。
「寛政」は十三年まであって「子」の付く年は四年(壬子)になり、「文政」も十三年まであって、
「子」の付く年は十一年(戊子)になります。
ここは(自分の目を信じて)「文政十一戊子四月」と読みたいと思います。
文政十一年は西暦1828年です。
そしてうっすらと「十九夜講中」という文字も見つけました。
「十九夜待ち」の守り本尊は「如意輪観音」と「馬頭観音」ですから、これは「馬頭観音」の
可能性が出てきました。
調べてみると、如意輪観音のように右膝を立てる「輪王座」の「馬頭観音像」は、日光・輪王寺
や福井の馬居寺、京都舞鶴・松尾寺などの本尊にありますが、この石仏のように半跏倚座の
ものは見たことがありません。
また行き詰まってしまいましたが、ふと“千葉県、とりわけ東総地区には「馬乗り馬頭観音」が
多い”と言われていることを思い出しました。
これまで「馬乗り馬頭観音」を見たことはありませんが、この像は半跏倚座を組んでいるので
はなく、(左足が欠損しているが)馬に乗っているのでは?
破損が激しく確認はできませんが、もしこれが「馬乗り馬頭観音」だとしたら、楽しい発見です。
※ どんどん脱線しそうなので、この続きは巻末にもう一度。(結局、分かりませんでしたが…)

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月待塔や読誦塔、回国塔、庚申塔などが混在しています。

真ん中の石塔には「大日如来」「文化九壬申年霜月吉日」と刻まれています。
文化九年は西暦1812年になります。
左の庚申塔は万延元年(1860)のものです。
右は六臂の青面金剛で、合掌する手以外は線描されていて、邪鬼や三猿もかろうじて判別
することができます。
側面の文字は「延享■■子」と読めそうですが、延享年間の干支に子があるのは元年のみ
ですので(甲子)、延享元年(1744)のものだと思われます。


「奉建立 子安観音」と刻まれた寛延二年(1749)の石仏。
両手で支え持つ赤子には補修された痕跡があります。
「荒神社」と「正等院」は入り組んだ細道の奥にありますが、ここから国道51号線へ向かう道が
三叉路になる場所に、「高札場」があります。


『桜田の薬師堂の三叉路に昔風の高札場がある。地元の人も「コウサツバ」といっている。
高札場とは、法令や禁令などを板札に墨書して、往来など人目につきやすい場所に掲示
して民衆に周知させる方法で、制札ともいう。 古代から行われたが全盛期を迎えたのは
近世である。その高札を掲示する場所が高札場で、人通りの多い場所や関所・港など全国
いたる所に設けられた。だが1873(明治6)年に時勢に適さないなどの理由で高札は廃止
となった。高札がなくなったことから各地の高札場も撤去されたが桜田では現在でも回覧板
やポスターなどをはり出すのに使われている。』 (「成田の地名と歴史」 P265)

さすがに最近は掲示板としても使われていないようで、だいぶ傷みが激しくなっています。
時代劇では高札の前に人々が集まって、ああだこうだと語り合うシーンが良く出てきますが、
昔はこの道が村のメインストリートだったのでしょうか。


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高札場の向かいには「薬師堂」があり、大きな「薬師如来像」が立っています。
如来像の首には補修痕が残っています。
周辺は小高い丘になっていて、新旧の墓石が並ぶ小さな墓地になっています。



「荒神社」に「正等院」、そして「高札場」。
車がすれ違えないような細道の奥には、静かに歴史が息づいていました。

※ 「荒神社」・「正等院」 成田市桜田586
※ 正体不明の石仏(続き)
「馬乗り馬頭観音」の可能性を探るため、この観音像が多く見られる小見川町(現・香取市)
でいくつかの「馬乗り馬頭観音」を見てみました。

旧山田町・馬頭観音堂


「房総の馬乗り馬頭観音」(町田 茂著 2004年 たけしま出版)によれば、「馬乗り馬頭観音」
は房総地方に特有の石像で、他の地方にはほとんど見られないものです。
しかも、上総地方は三面六臂、下総地方は一面二臂とはっきり区分され、下総地方でも東総
地区に限られている、非常に興味深いものです。(成田では発見されていません。)
今回見た像は全て馬口印を結んでいて、手に何かを持っているものはありませんでした。
あらためて正等院に戻り、問題の石仏を見ましたが、これが「馬乗り馬頭観音」である確信は
持てませんでした。
さて、十九夜待ちの守り本尊の中には「慈母観音」もありますので一応調べてみると、松戸の
「徳蔵院」のご本尊が、半跏像で左手に赤子を抱き、右手に未開の蓮華を持っていることが
分かりました。
顔と左半身が大きく削られていますので想像するしかありませんが、左手は赤子を抱いていて
右手は修復されたものの、蓮華が錫杖に見えるのかもしれません。
「馬乗り馬頭観音」であって欲しいのですが、「慈母観音」である可能性が大きくなりました。
馬頭観音と思ったのは勇み足だったようですが、いずれにしろ珍しい像容の石仏です。
今後、何かのきっかけで正体が判る時が来ることを期待しています。

この「熊野大神」は「桜田大権現」とも呼ばれ、創建年代は不詳ですが、千年以上前である
と伝えられています。
熊野三山の「速玉男命」(ハヤタマオノミコト)、「伊弉冉尊」(イザナミノミコト)、「事解男命」
(コトワケオノミコト)を勧請してご祭神としています。
「誉田別命」(ホンダワケノミコト)と「瀬織津姫命」(セオリツヒメノミコト)も合祀されています。
「治承年間(1177~81)に石橋山の戦いで敗れた源頼朝がこの地に来たとき、同社に
武運繁栄を祈願し源家の守護神である誉田別命を合祀したと伝える。また瀬織津姫命は
大須賀川の守護神である。」 (「成田の地名と歴史 P247)


鳥居は国道51号線の歩道ギリギリに建っています。
正面から見るには道の反対側に廻らなければなりません。

この手水盤には正徳二年(1712年)と刻まれています。

「大須賀村大字櫻田字權現脇に在り域内二百九坪速玉男命伊弉册尊事解男命を祀り瀬織津
姫命譽田別命を相殿とす社傳に曰ふ創建詳かならず治承中源頼朝武運繁榮を本社に祈願し
神楽を神前に奏す此時を以て譽田別命を勸請すと瀬織津姫は本社の大須賀川水源に屬する
を以て守護神と為せしものなり域内に圍丈餘の巨松樹あり社記に頼朝馬鞍を掛けし古事を傳
ふも明治三十五年大風の為めに折損せり社前耕圃中に一塚あり神樂塚と稱す」
「千葉縣香取郡誌」にはこう記述されています。
相殿の「譽田別命」とは応神天皇のことで、「瀬織津姫」は祓戸四神の一柱で災厄抜除の神です。

境内を区切るフェンスの外にポツンと立つ、延享二年(1745)の祠。
うっすらと「疱瘡神」の文字が見えます。
今は公園の一角になっていますが、もともとは神社の境内であった場所です。

境内の左手、国道の脇に崩れかけた祠が三基。
右の祠には「寛政」の元号が見えます。



拝殿は開放的な造りです。
この拝殿では、晩秋になるとこんな風景が見られます。



拝殿の床一面に枯葉が積み上げられています。
これは毎年12月の2回目の「卯」の日の前日に行われる夜祭りの準備のためです。
境内に左右二つの枯葉の山を作り、火をつけた焚き火の間を子供たちが駆け抜けます。
この祭りは「桜田の大火(おおび)」と呼ばれ、二つの焚き火の間をくぐった子供は一年間風邪
をひかないと言われています。
以前は神社の拝殿前に大きな山を二つ、神社前の道の九十九か所に小山を作って火を焚き
ましたが、危険だと言うことで近年は境内の二つの大山のみとなっています。
「大栄町史 史料編Ⅶ」に収録の「桜田村熊野大神由来書」には、この祭礼について、
「且ハ毒蛇河童之災害ヲ除キ候趣之祭事」 との記述しています。
この神社の近くに栗山川の源流がありますが、昔そこに河童が棲んでいて子供にいろいろ
悪さをするため、火を焚いて河童除けをしたのが始まりだとされ、桜田地区では祭りの間は
魚を口にしない風習が残っています。

「写真提供:ぐるり房総」
ぐるり房総ホームページ ☜ ここをクリック
「大栄町史 民俗編」に「権現様と河童」という話が載っています。
少々長くなりますが、この行事のいわれが良く分かりますので引用します。
「昔、桜田にある農夫がいて、農業のかたわらに栗山川などで魚を捕っていた。栗山川は
桜田の熊野神社付近を水源として、現在の栗源町・多古町を通って九十九里浜に注ぐ川
で、下流部は下総国と上総国の国境をなしていた。ある日、男はいつものように小舟に乗
って川を下り、岩部(現栗源町)の近くで網を仕掛け帰ろうとしたとき、急に辺りが暗くなり
大粒の雨が降り出した。家に戻った男は仕掛けた網のことが心配となり、夜の明けないうち
に家を出て小舟で川を下り岩部まで行ってみると、やはり網は流されていたのである。その
まま網を探しながら九十九里浜近くまで下ると、杭に引っかかっているのを見つけた。そこで
網を揚げようとしたのだが、どうしたことか重くて揚がらないのである。さらに男が力を込めて
引き揚げると、網を食いちぎっている河童がいっしょに顔を出したのであった。男があわてて
持っていた棹で河童の頭をなぐると、河童がかみついてきたので、今度は頭の皿を目がけて
けとばしたのであった。すると河童は目を回して、川の中に沈んでいった。」
「 その年の夏、栗山川で泳いだり釣りをしていた桜田の子どもが、河童に川へ引き込まれ
水死する事件が多発した。村は大騒ぎとなり、村人は熊野権現(神社)に集まって権現様に
子どもを守る願いを掛けた。すると権現様は「あの河童は頭の皿が乾くと死んでしまうので、
火が大嫌いだ。だから『子どもを川に引き込むと一〇〇か所に火を焚き川原を焼きはらうぞ』
と言って九九か所に火をたき、『もうひとつたくぞ』と言えば河童も悪さをしなくなろう」と告げた
のである。それから桜田では毎年一二月の卯の日に、オオビといって熊野権現の境内で子
どもが九十九か所にたき火をするようになったという。」 (P360)
いつまでも伝えて欲しい、素朴で楽しいお祭りです。

千葉県神社名鑑には「熊野大神」について以下にように記しています。
「祭神 速玉之男神(はやたまのおのかみ)
伊弉册尊(いざなみのみこと)
事解男神(ことさかのおのかみ)
本殿・亜鉛板葺神明造四坪、拝殿・亜鉛板葺入母屋造四坪
境内坪数二一〇坪 氏子四四戸
由緒沿革 地区の有志が相計り社殿を建立、元禄元年御祭神を勧請奉斎」
元禄元年(1688)に御祭神を勧請したとすると、頼朝伝説との整合がとれません。
伝説は所詮伝説だとしても、頼朝が平家討伐の前に香取神宮に詣でて、戦勝祈願をした帰路
にこの神社に立ち寄ったという話には捨て難い魅力があります。
「大栄町史 通史編中巻」には、“頼朝が当社に祈願したとあるのは伝承の世界のこと”と断じ
ていますが、個人的には、頼朝伝説を採り、元禄元年の勧請とは、何らかの事情で荒廃した
神社を再建したことだと考えたい気がします。


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本殿は極彩色の彫刻で飾られています。
それぞれには何らかの意味のある物語があるのでしょうが、知識の無い私にはただ見事な
彫刻としか言えません。



本殿の裏の少し離れた所に小高い塚があり、頂上部に「三峯山神社」と記した祠があります。
明治十六年(1883)の紀年銘があります。
この塚が前述の「香取郡誌」中の「源頼朝武運繁榮を本社に祈願し神楽を神前に奏す」とある
「神楽塚」なのでしょうか?

本殿裏にはもう一つ小さな塚がありますが、ここには祠も何もありません。


本殿の真裏には、樹周りが6~7メートルもあろうかという杉の大木が聳えています。
何の説明もありませんが、樹齢は数百年にはなると思われます。


鳥居の前の国道は、車の往来が途切れることがありません。


この神社の周辺は昔から香取神宮への奉幣使街道の宿場として栄えました。
「成田村と佐原村(香取市)を結ぶ往還道が村内を通り、宿駅が置かれた。このため近世後期
には村内に居酒屋・草履売り・質物商い・菓子屋などの農間商いがいた。1843(天保14)年
の家数は42軒、人数208人。」 (「成田の地名と歴史」P108)
宿場として賑わっていた街道筋に鎮座する「熊野大神」。
頼朝伝説を信じたい佇まいです。

※ 「熊野大神」(桜田大権現) 成田市桜田946

「星光院」は真言宗のお寺で、山号は「窓除山」。
前回の「長泉寺」と同じ、香取市との境に位置する大字「所」にあります。

一直線に伸びる石段の先が「星光院」です。

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石段の登り口に小さな祠が数基、あるものは倒れ、あるものは砕けていますが、その中の
いくつかは「正月吉日」「寅年」などの文字が読めます。

「大栄町史 通史編中巻」(平成14年)には、「星光院」について次のように書かれています。
「新義真言宗。所村字長津に所在。本尊は薬師如来(「県寺明細」)。香取郡香取村追野
(佐原市)にあった惣持院(戦後佐原市仁井宿へ移転)の末寺。惣持院は醍醐光台院(京都
市)の末寺であったから、光台院ー惣持院ー星光院という上下関係であった。」
『「県寺明細」には寛文四年(一六六四)に小貫保重が開基し、元禄十三年(一七〇〇)に
星光院に改称したとあるが、それを裏付ける史料は未詳である。同明細には境内の薬師堂
は宝永二年(一七〇五)小貫重益が建立し、寛政四年の再建とあるが、これも史料は未詳
である。』 (P557~558)
一方、「成田市の文化財 第42集」(平成22年)には、「星光院」が真言宗智山派のお寺で、
総持院(香取市)の末寺であると書かれています(P28)。
また、「香取市内宗教法人名簿」にある「惣持院」は真言宗智山派となっています。
さらに、「醍醐寺」とは、「古義真言宗」の真言宗醍醐派の総本山なのです。(「光台院」は
「醍醐寺」の塔頭)
「新義真言宗」と「真言宗智山派」、「惣持院」と「総持院」、そして、「古義真言宗」・・・。
大した問題ではないかも知れませんが、気になります。
「新義真言宗(しんぎしんごんしゅう)は、空海(弘法大師)を始祖とする真言宗の宗派の
一つで、真言宗中興の祖覚鑁(興教大師)の教学を元に覚鑁派の僧正頼瑜に連なる。
高野山内で新たな教義を打ち立てたため「新義」と呼ばれた。広義では、根来寺を本山
とする新義真言宗、智積院を本山とする真言宗智山派、長谷寺を本山とする真言宗
豊山派、室生寺を本山とする真言宗室生寺派などを含むが、狭義では真言宗十八本山
の一つで、根来寺を総本山とする【新義真言宗】を指す。」 (ウィキペディア)
一方「古義真言宗(こぎしんごんしゅう)」は、「高野山真言宗」「東寺真言宗」のほか、
「大覚寺派」、「善通寺派」等があり、「醍醐派」もその一つです。
難しい教義を素人が説明するのは無謀ですが、
「古義真言宗」では、最高仏である「大日如来」が自ら説法をする(ひたすら念仏を唱えて
いると、自ずから「大日如来」が現われる=本地身説法)としていますが、「新義真言宗」は、
「大日如来」が説法のために加持身となって教えを説く(加持身説法)としています。
明治・大正期の史料には「新義真言宗」となっている寺院がいくつかありますが、最近の
宗教法人名簿ではほとんど見かけなくなりました。
それでも、市川市の「雙輪寺」や、船橋市の「明王院」、「常楽寺」のように「新義真言宗」と
して宗教法人登録をしているお寺もありますので、「惣持院」や「星光院」は、「改宗」という
ほどではないのかも知れませんが、昭和以降に真言宗智山派となったようです。
なお、平成22年12月31日現在の「文部科学大臣所轄包括宗教法人」では、新義真言宗
は203寺院、1教会となっています。
ごちゃごちゃと書きましたが、要は、現在の「星光院」は真言宗智山派のお寺で、
香取市の「惣持院」(智山派)の末寺ということです。


境内は大部分が畑になっていて、いろいろな野菜が植えられています。
こんな境内の使い方も良いかも知れません。



窓越しに見えるご本尊の「銅造薬師如来座像」です。
静かに何かを考えておられるようなお顔です。
「薬師如来」は人々を現世において救済するとされていて、この「現世利益」から多くの
信仰を集めてきました。

「小貫大輔翁百壽碑」。
慶應元年に大須賀村に生まれ、昭和39年に没した、小貫大輔氏の家族が昭和41年に
建立したものです。
今では百歳を超える長寿の方は多くなりましたが、当時は珍しいことでした。

境内の一角にある墓地には、古い墓石が並んでいます。
天和、元禄、宝暦、安政などの年号が読めます。

右の石碑は、宝暦八年(1758)のもので、風化がしていますが、なんとか「四国八十八ヶ■
五十九番 所村」と読めます。
四国霊場五十九番は伊予の「国分寺」で、真言律宗のお寺であり、ご本尊は「星光院」と
同じ「薬師如来」です。
真ん中の地蔵像は、頭が欠損してセメントの頭が乗っています。
宝暦十年(1760)のもので、「権大僧都法印■傳」と記されています。
左端に変わった石仏があります。

頭の部分が欠けていていますが、「慈母観音」のようです。
赤子に乳を含ませているポーズは珍しく、秩父の第四番札所「金昌寺」の「子育観音」
によく似た姿です。
安政四年(1857)と記されています。

これもまた「慈母観音」で、「寛政五年」「當邑善女講中」と刻まれています。
両手で優しく赤子を抱く姿です。
寛政五年は西暦1793年になります。

あちらこちらに壊れた墓石のようなものが積まれています。

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境内の一角に立つカヤの大木の根元に、小さな小屋のようなものがあります。
近づいて中を覗くと、ここにも「慈母観音」がありました。
赤子が「でんでん太鼓」を持っているように見えます。
明治廿年(1887)と記されています。


本堂の裏側も、石段の横の斜面も畑になっています。
荒れて草ボウボウになるより、このほうがずっと良いですね。

「星光院」は山の中腹にありますが、前方には田んぼが広がっています。


田んぼ道をほんのちょっと歩くと、地蔵菩薩を上部に刻んだ道標が立っています。
「南 さくみち」「北 とつは さハら道」と記されています。
いずれも“変体カナ”ですので、読み方が合っているかは分かりませんが、「さくみち」とは
“作業用の道”のことで、農道であることを示しています。
「さハら」は「佐原」で間違いないとおもいますが、「とつは」は多分現在の「香取市鳥羽」の
ことではないかと推測しました。
「鳥羽」と書いて「とっぱ」と読む字(あざ)で、所村の北方、佐原へ向かう途中にあります。
「さくみち」については、7月初旬に紹介した押畑の「真福寺」の項にある道標にも、同じ
文字がありました。


「大栄町史 史料編Ⅳ」に収録されている、享保九年(1724)の「所村御請所内検地帳」
に、「星光院」の名前がちょっと出ています。
「四十二間ニ四十四間 六反歩 薬師免 星光院」
同「史料編Ⅱ」に収録の天保三年(1832)の「町奉行与力給知新知七ヶ村高書上帳」には、
「寺壱ヶ寺
一 建立年暦相分不申候 新義真言宗 窓除山星光院」
とありました。


柿の色が濃くなってきました。
もう、すっかり秋の風です。
境内の畑も収穫が終わりそうです。


※ 「窓除山星光院」 成田市所504

「長泉寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「大鹿山」。
ご本尊は「聖観音菩薩」です。


道路からお寺は見えませんが、急坂を登ると左手の茂みの中に「大鹿山長泉寺」の看板
がチラリと見えます。

「大栄町史通史編中巻」(平成14年)には、「長泉寺」について次にように書かれています。
『臨済宗妙心寺派。所村字寺脇に所在。山号は後記のように大鹿山。本尊は正(聖)
観音(「県寺明細」)。寛政元年の「禅宗済家妙心寺派下寺院帳」に、香取郡与倉村
(佐原市)大龍寺の末寺として載せられている。』
『「県寺明細」によれば、開山は方外宏延禅師、貞享三年(一六八六)に野火で焼失し、
中興開山中通和尚が正徳五年(一七一五)に再建したとある。ただ、境内の元禄四年
の石灯籠には「大鹿山」と刻まれており、再建はその時の可能性もある。』 (P559)
方外宏延禅師によって開山した年月が不詳ですが、野火で焼失した貞享三年より前の
開山であることは間違いないので、少なくとも330年以上の歴史を有しているお寺です。
この他「長泉寺」に関しては、「大栄町史史料編」の収録史料の中に、
「建立年暦相分リ不申候 臨齊禅宗 大鹿山長泉寺」
(天保三年 「町奉行与力給知新知七ヶ村高書上帳)
「四十弐間・四十四間 六反歩 観音免 長泉寺」
(享保九年 「所村御請所内検地帳」)
等の記載が見つかります。
また、「長泉寺」の本寺である「大龍寺」については、「香取郡誌」(大正十年)に、
「寶雲山大龍寺 香西村大字與倉字吐月峰に在り域内千八十坪臨濟宗妙心寺派にして
千手観音を本尊とす寺傳に曰ふ至徳中矢作城主國分壽歡入道大悦之を創し建仁寺大航
慈船和尚を開基とす・・・」 と書かれています。
至徳年間は西暦1384~87年ですから、約630年の歴史あるお寺です。

「圓通殿」と書かれた掲額。
山号、寺号、院号などを掲げる寺額とは異なるようですが、「圓通」とは、真理があまねく
行き渡っていることを指す仏教用語で、圓通大士(観音菩薩の別称)を指す場合もあります。
この言葉を採ってこの本堂を「圓通殿」と称したのではないでしょうか。
因みに、京都の左京区岩倉にある名園で知られる「圓通寺」は、臨済宗妙心寺派のお寺で、
ご本尊は「聖観音」です。

失礼して覗かせていただいた本堂の内部。
朱色のお堂の中にご本尊の「聖観音」が安置されているのでしょうか。


本堂前の石灯篭には「■■善女人■■三夜待供養」と刻まれています。
元禄と読めるような文字がありますので、この石灯篭が「大栄町史」にある、元禄四年
(1691)のものなのでしょうか?
残念ながら「大鹿山」の文字は見つけられませんでした。


境内の一角に建つお堂には「菩提閣」と書かれた掲額が架かっています。

「菩提閣」の隣に並ぶ3基の石仏。

真ん中は月待塔で、「十九夜待塔善女人■ 享保十■一月十九日 五十人■」と
読めます。
290年近く前のもので、十九夜講の信仰対象である「如意輪観音」を刻んでいます。
左は風化と苔で良く見えませんが、十五夜講の月待塔のようです。
「所村善女人■ 明和■■」と読めますので、240年以上前のもののようです。


「如意輪観音」の月待塔は真ん中から真っ二つに割れています。
補修はされていますが、自然に割れたものではないようですし、右端は見る影もないほど
に破壊されています。
ここにも廃仏毀釈の爪跡が残っているのでしょうか?


「菩提閣」の奥には2基の板碑と数基の崩れた宝塔が並んでいます。
板碑の年代は分かりませんが、右側の板碑には「奉讀誦普門品万巻」と刻まれ、左右に
「国家安全」「天下泰平」の文字が刻まれています。

地元の名家と思われる「小貫平右衛門歴代之碑」。
昭和32年の建立で、裏面には小貫家代々の戒名がビッシリと記されています。

本堂の裏側の山肌が崩れかけているのが気になります。

本堂の反対側の端にも数基の石塔が並んでいます。

「馬頭観世音菩薩」と文字が刻まれ、「文久二壬戌」と読めます。
文久二年は西暦1862年で、この年には武蔵国橘樹郡生麦村で、島津久光(薩摩藩主
島津茂久の父)の行列に乱入した騎馬の英国人を藩士が殺傷し、薩英戦争の引き金
となった「生麦事件」が起こりました。

こちらは「馬頭観音像」が刻まれて、「文化十癸酉十一月吉日 所村中世話人長左ェ門」
と記されています。
文化十年は西暦1813年になります。

上部が欠けて、「・・観世音」とのみ読めます。
多分、欠けた部分には「馬頭」とあったと思われます。

「馬頭」の文字だけが残っています。
「六地蔵」と同じように、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)に配される
「六観音」の内、畜生道を化益するのが「馬頭観音」であるとされています。
観音像といえば、皆優しいお顔を思い浮かべますが、「馬頭観音」のみは一部の例外を
除いて憤怒の表情をしています。
その憤怒の表情から、「馬頭観音」を「観音」ではなく、「明王」として「馬頭明王」と呼ぶこと
もあるようです。
また、「馬頭」という名前から、民間信仰では馬の守護仏として祀られています。
ここにあるような、観音像を刻まずに「馬頭観音」という文字だけを刻んだ石碑の場合は、
だいたい愛馬への供養のために造られたもののようです。
境内に入ってすぐ右手には「成田市消防団第10分団第4部」の倉庫があり、左手奥には
「所公民館」が建っています。

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公民館の裏の台地には墓地が広がっています。


見事な板碑が2基並んでいます。
大きい方の板碑には慶長七年(1602)の紀年銘が記されています。

立派な墓石が多く、元禄、宝永、元文、明和、天明、天保等の年号が見えます。

この宝篋印塔は寛保元年(1741)のもので、四面に一文字ずつ「宝」「篋」「印」「塔」の
文字(旧字体よりさらに複雑な字です)が記されています。

一番奥には歴代住職の卵塔が並んでいます。

この石仏の顔はスパッと削られています。
境内にあった如意輪観音像と同じ運命に逢ったのでしょうか?


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初秋が訪れた「所」の山里には、曼珠沙華が首を伸ばし、赤トンボが舞っています。
貞享三年(一六八六)に野火によって焼失したものの、中興開山中通和尚によって再建され
た正徳五年(一七一五)から数えて300年。
禅の大衆化に尽力し、臨済宗の中興の祖とされる「白隠慧鶴」が生まれたのは、「長泉寺」が
野火で焼失した貞享三年ですから、中道和尚は「白隠慧鶴」の影響を受けて、この寺の再建
を期したのかも知れません。


※ 「長泉寺」 成田市所595


村田の細い山道を登ると、二本の石柱が目に入ります。
「耕田寺」の門柱で、大正八年(1919)建立です。


山道からお寺への道の片側は崖になっていて、地層がむき出しになっています。



石段の脇に湧水があるようで、コンクリートで囲われた小さな池があり、中に数匹の金魚
が泳いでいました。

石段は急勾配で、上の様子は見えません。

石段を登り切ると正面に集会所のような建物が見えます。
周りには建物がありませんから、どうやらこれが「耕田寺」の本堂のようです。
ごく最近建てられたもののようで、寺額は架かっていません。
境内も整地されたばかりのようで、立木も無く殺風景な感じです。
この「耕田寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「若宮山」。
佐原の「大龍寺」の末寺で、ご本尊は「十一面観音菩薩」です。
史料にはそれぞれ下記のように記されています。
「臨済宗妙心寺派。村田村字寺下に所在。山号は若宮山(「郡誌」)で、若宮八幡の
別当寺であることからの名称。本尊は観世音(「県寺明細」)。長泉寺と同じく大龍寺
の末寺。」 (「大栄町史通史編中巻」P559)
「若宮山耕田寺 大須賀村大字寺下に在り域内二百五十坪臨済宗にし觀音を本尊とす
開創詳らかならず寺傳に曰く本寺には弘安年中北條時宗國難を全國の神社に祈願し
討平の後ち香取神宮に収めし時の十一面觀世音菩薩を安置せしものなりと」
(「香取郡誌」大正十年 P431 アンダーライン部分は脱字?)
村田村は明治二十二年(1889)の町村制施行に伴い、大須賀村になっています。
臨済宗は建仁寺派・東福寺派・建長寺派を始め十数派に分かれていますが、妙心寺派
は3500寺近くを有する最大の派で、成田市内の5つの臨済宗寺院は全て妙心寺派に
属しています。
「耕田寺」の本寺である「大龍寺」は、佐原にある大同年間(806~810)に創建された
1200年以上の歴史を有する古刹です。
寺伝の通りだとすると、ご本尊の「十一面観世音菩薩」が香取神宮から移されて安置され
たのが弘安年間(1278~1287)であることから、この「耕田寺」の創建は730年以上も
前ということになります。

補修された手水盤には、■■四十二年一月と記されています。
風化の状態から明治四十二年(1909)に寄進されたものと思われます。


本堂の右手に建つ宝塔には、「天明三癸卯八月」と記されています。
天明三年は西暦1783年で、この年は浅間山の大噴火によって天明の大飢饉がさらに
深刻化した年です。
正面には「㳒界萬靈」と刻まれ、裏面に「奉讀誦大乘妙典千部」「権大僧都法印觀海」と
刻んでいます。
宝塔の隣に立つ説明柱には、ご本尊について下記のように書かれています。
「成田市指定有形文化財 銅造十一面観世音菩薩坐像 鎌倉時代
佐原市観福寺所蔵の重要文化財である銅造十一面観世音菩薩座像と同じものと思わ
ています。もとは、香取神宮本地仏であったと伝えられていますが、この作風からみて
地方では僅少の金銅仏で貴重なものであります。」
「成田の地名と歴史」には、この「銅造十一面観世音菩薩座像」について次のように
詳述しています。
「村田の耕田寺の本尊で、像高21.9cmを計る銅像である。髻頂に仏面、髻中に
頭上面十面をあらわし、正面には化仏を配する。頭部・体部・脚部を一鋳し、両腕
は別鋳して、肩でアリ枘挿しする。鍍金の痕跡が認められる。背面は平らにし、上下
2か所に接合用の枘(小孔を持つ)を鋳出しているので、もとは懸仏であったものと
考えられる。本像はよく引き締まった丸顔に明るく生気ある表情を見せ、胸、腹など
の肉付けにも生彩がある。これらの作風から、本像は鎌倉時代も13世紀後半ごろ
の作とみられる。」 (P256)



失礼して、ガラス越しに内部の写真を撮らせていただきました。
ご本尊の「十一面観世音菩薩坐像」の写真が飾られ、「観世音」の掲額も見えます。
色鮮やかな厨子の中にご本尊が安置されているのでしょうか。

本堂の軒下に小さな鐘が吊るされています。
宝暦十年(1760)と記されていますが、気になる文字を見つけました。
「下總國香取郡村田村若宮山光傳禪寺小鐘銘」 とありました。
「耕田寺」ではなく、「光傳寺」となっています。
これについては、「大栄町史 通史編中巻」に次のような記述がありました。
『「禅宗済家妙心寺派下寺院帳」や、天明四年の内寄水帳では「光伝寺」とある。』
(P559)
以前は「光傳寺」であったものが、何らかの理由で「耕田寺」に変わった訳です。
意味のある改称であったはずですが、史料は見つかっていません。

ポツンと立つ灯篭は昭和58年に奉納されました。

「奉讀普門品壱萬巻供羪塔」。
大正十参年(1924)と記されています。

この板碑には梵字の下に「平」という文字が刻んであります。

この小さな石仏は摩耗が激しく、はっきりとは分かりませんが、立膝をした如意輪観音の
ようにも見え、赤子を抱いているようにも見えるので慈母観音かも・・・。
ずんぐりした、見慣れないスタイルの石仏です。
「明治四十三年女人中」と記されています。

多分「地蔵菩薩」だと思いますが、苔がたくさん付いていて、よく分かりません。

境内横の山腹に墓地が見えます。

道が消えて雑草が生い茂る中を、何とか墓地まで登ると、石仏と祠が並んでいます。

「奉建立子安観世音」と刻まれたこの子安観音像には、「寛政十■午十一月吉日」と
記されています。
寛政十年代で干支に午があるのは十年だけですから、この子安観音像は寛政十年
(1798)のものです。
とても優しいお顔をしておられます。

「子安観音」の隣は元禄二年(1689)と元禄十三年(1700)年と記された二つの戒名
が刻まれています。
真ん中の石仏は享保四年(1719)のものです。


右端にある祠は珍しいものです。
正面には、「待拾九夜同志満願■女二十七人施主」と刻まれています。
この文字からは「月待塔」ということになりますが、側面と裏面にそれぞれ二体ずつの
地蔵像が彫られています。
月待塔に六地蔵の組み合わせは初めて見ました。


元禄、享保、延享、宝暦、寛政、文化、天保等の年号が見えます。

突き当たりにも数基の板碑が・・・。
その形状から、下総型板碑と武蔵型板碑が混在しているようです。



さらに上の山腹には歴代住職のものと思われる卵塔が並んでいます。
板碑も2基ありました。

卵塔の並ぶ墓地から見下ろす村田の景色。
右下に見えている屋根は「耕田寺」の本堂です。

墓地の一角に「青面金剛王」と刻まれた庚申塔がありました。
寛政十■とだけ読めました。
「寛政」は十三年までで、たまたま十二年(1800)が「庚申」にあたります。
寛政十二年に建立されたと考えても良いのではないでしょうか。

庚申塔の隣の「月待塔」。
「奉造立十九夜月天子」と刻まれています。
月天子はインドの月の神で、仏教では勢至菩薩の化身とされています。
明和九年(1772)の建立です。
この年は江戸三大火の一つ、「目黒行人坂の大火」があった年で、この他にも度々災害
が起こったので、人々は“迷惑年=明和九年”などと言い合ったそうです。

「奉造立十三夜」、「天明七丁未十一月吉日」と記された「月待塔」。
天明七年は西暦1787年になります。
宝冠をかぶり、右手に剣、左手に宝珠を持つ、「虚空蔵菩薩」が刻まれていますが、
これは十三夜講が「虚空蔵菩薩」を信仰対象としているからです。


小さなバッタがいました。
夏も終わり、動きも鈍ってきたのでしょうか、カメラを近付けてもジッとしています。


本堂を建て直し、境内を整地して間もないからでしょうが、何となく物足りない風景です。
でも、ここは(寺伝によれば)730年以上の歴史ある「耕田寺」なのです。
再び木々が茂り、鳥や虫が集い、長い歴史を浸み込ませた石仏や板碑が似合う境内が、
五十年、百年先のいつの日か、戻ると信じたいと思います。
そして、その蘇った境内を決して見ることのない私は、と言えば、“光を伝える”寺(光伝寺)
が、如何なる理由から“田を耕す”寺(耕田寺)となったのかを教えてくれる史料が、いつか
眼前に現れることを信じています。

※ 「若宮山耕田寺」 成田市村田333

「高徳寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「池谷山(ちさくさん)」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。

堀籠の山道を登ると、ポツンとお堂が建っています。


左右には一体ずつ石仏が置かれ、お堂の中には紐で結ばれた細長い厨子が。

左側の石仏は頭や印を組む手が欠けていて、何の仏様か分かりません。(頭はセメントで
一応着け直されています。)
年代も分かりませんが、立膝の見慣れないポーズをとっています。
「興福寺」の国宝の中にある法相六祖の「伝・行賀像」や「伝・神叡像」がこれに似たような
ポーズですが、石仏としては見たことがありません。

右側の石仏は「釈迦如来」とも見えますが、親指と人差し指で輪を作り、右手を上に、
左手を下に置く「上品下生印」を組んでいるので、「阿弥陀如来」です。
天明二年(1782)と記されていますが、この年は近世における最大の飢饉と言われる
「天明の大飢饉」(天明二~八)が始まった年です。
お堂の先に左に下る急坂があり、お寺の本堂がチラリと見えています。
下り口に消えかかった文字で高徳寺と書かれた掲示板(?)がありました。



「高徳寺」については、「千葉縣香取郡誌」の寺院の項に“その他の寺院”としてだだ一行、
「大栄堀籠 宗派・曹洞宗 本尊・阿彌陀如来」とのみ記されているだけですが、実はその
前身の「興徳院」から数えると700年近い歴史を秘めた古刹なのです。
「この地には、鎌倉時代から室町時代にかけて、成田市吉岡に所在する大慈恩寺の
末寺で、真言律宗の興徳寺があったとされています。しかし、いつの時期に興徳寺から
高徳寺となり、曹洞宗に転じたかは不明です。」
(「成田市の文化財 第42集 P28)
「曹洞宗。堀籠村字池ノ谷に所在。山号は池谷(ちさく)山。本尊は阿弥陀如来。伊能村
宝応寺の末寺。禅宗でも他宗と同様龍門寺ー長国寺ー宝応寺ー高徳寺という多層の
上下関係が成立していた訳である。高徳寺の地には鎌倉時代末期から室町時代前期
にかけて、大慈恩寺末で真言律宗の「興徳院」があった。」
「興徳院から高徳寺となり、曹洞宗に転じた年月については現時点では未詳である。」
(大栄町史 通史編中巻 P560)
現在の「高徳寺」は曹洞宗で「宝応寺」の末寺ですが、その昔は真言律宗で「大智恩寺」
の末寺の「興徳院」であったようです。
この「興徳院」については、「成田の地名と歴史」に次のように書かれています。
「堀籠字池ノ谷にあった律宗寺院で、大慈恩寺の末寺であった。現在同地にある曹洞宗の
池谷山高徳寺の前身。国分氏の祖胤通の子である村田宥通は、大戸庄村田郷を名字の
地としたが、その子孫に当たる胤朝・胤頼らは1325(正中2)年、当寺の本寺を大慈恩寺と
定め、村田郷堀籠村の内で寺領を寄進し、寺領における公事(税)免除の特権を与えた。」
「1336(建武3)年には国分朝胤が、堀籠村の内の寺領を、大慈恩寺の末寺であることを
条件に安堵している。1363(貞治2)年には、国分一族の胤村・貞義も堀籠村の内で寺領
を寄進している。国分氏の一族は、大慈恩寺の末寺である当寺を外護することを通じて
律宗を信仰していたのである。」 (P256)


境内の左手奥に建つ「慈母地蔵尊」。
右手に錫杖を持ち、左手に子供を抱え、足許にも袈裟にすがる子供が刻まれています。
親に孝行の徳を積む間もなく幼くして世を去った子供は、賽の河原で鬼にいじめられながら
石塔婆作りを続けさせられるとされていますが、地蔵菩薩は賽の河原を訪れては子供達を
守りながら、仏法やお経を聞かせることで徳を与え、成仏への道を開いてあげると言い伝え
られています。
この像は、その地蔵菩薩の姿を現しています。


「慈母地蔵尊」の後方の山腹には、小さな墓地があります。


慶安、元禄、宝永、享保、元文、延享、宝暦、明和などの年号が読め、300年以上前の
古い墓石も多く並んでいます。



本堂の鬼瓦には、千葉氏の流れを組む国分氏の家紋である「九曜紋」が光っています。


「慈母地蔵尊」の奥に建っている「一石一字塔」。
「奉書寫大乘妙典一石一字」と「讀誦千手陀羅尼百万遍」と記されています。
明和二年(1765)の紀年銘があります。
「大乗妙典」とは、人々を悟りの世界に導いてくれる経典のことで、法華経(妙法蓮華経)
のことです。
「千手陀羅尼(せんじゅだらに)」は、千手経のことで、千手観音の功徳を説いたお経です。
「一石一字塔」は経文の文字を一文字ずつ石に書いて埋めたもので、土屋の「薬王寺」や
東和泉の「城固寺」にもありました。



本堂の裏にある墓地は、山腹の墓地より新しい墓石が多いようです。
周りの竹やぶの中で、曼珠沙華が深紅の花を咲かせています。


本堂の新築記念碑には、空港関連事業や東関東自動車道の大栄インターのために、寺山
の大部分が買収の対象となってしまった経緯と、この本堂が平成15年11月に落成したこと
等が記されています。


境内の脇からもう一つの坂が下っています。
どうやらこちらが正門だったようです。
門柱は大正四年(1915)に建立されました。


門柱の陰に「不許葷酒入山門」と刻まれた「結界石」が立っています。
“酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は修業の妨げとなるので、入山すること
を許さない”という、曹洞宗のお寺の入口には必ずと言って良いくらい立っているものです。





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南天の葉に小さなアマガエルがいました。(あわてて撮ったのでピンボケです)


「成田市の文化財第42集」や「大栄町史」では、「高徳寺」がいつ「興徳院」から改宗し、
改称したのかは不明としていましたが、「成田の地名と歴史」中の「興徳院」の項に、
「近世に入ると伊能の宝応寺七世の懃南嶺慇(1661没)が曹洞宗に改宗して宝応寺の
末寺として高徳寺と改め、当寺に隠居した。」 (P256)
と改宗・改称について書かれていました。
宝応寺七世の懃南嶺慇が1661年(万治四年)に没したとすれば、改宗・改称の時期は、
明暦年間または万治年間と考えて良いと思われます。
堀籠の「高徳寺」は、正中二年(1325)に真言律宗の「興徳院」として開かれ、明暦・
万治年間に曹洞宗に改宗して、寺名も「高徳寺」と改めたということで、「興徳院」から
数えて690年、「高徳寺」となってからも約350年の歴史を持つ古刹です。


※ 「池谷山高徳寺」 成田市堀籠614
昨年10月14日に掲載した「須賀神社と清龍寺、道を挟んだ神社とお寺」の時の
須賀神社と同じように、当てもなく移動していて偶然出会った神社です。

細く、曲がりくねった山道の途中に「須崎神社」は突然現れました。

神明鳥居が重なるように2つ建っています。
手前は石造りですが、後ろは木製で控柱が付いています。
木製の鳥居が傷んだので、新たに石造りの鳥居を建てたのでしょうか。

訪れる人もいないようで、参道には落葉が積もっています。
拝殿脇の説明板にこの神社の由来が書かれていました。
「堀籠部落の鎮守様である この地を大伯天須崎と呼ぶ 須崎神社の名わ地名によるもの
元亀年間四百年前此の部落に 悪病流行して死者續出 住民が恐れ香取神宮に祈願
神宮の祭主経主の命を奉紀致したもので在る 其の后二回の火災に合う 現在の社わ
明和八年 二百年前に再建したもので在る 創建に当り当時村の有志三仁門さんが
特別の御奉仕された事が明記されております」(文章はそのまま)
元亀年間(1570~73)に創建されて、明和八年(1771年)に再建されたという
歴史ある神社でした。
ご祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。
この神社の歴史をもう少し詳しく調べると、元亀三年(1572年)に創建され、翌天正元年
(1573年)に社殿が完成しましたが、文禄四年(1595年)に兵火で焼失し、慶長八年
(1603年)に再建されましたが、正徳二年(1712年)野火で再び焼失。
享保二十年(1735年)に再建され、明和八年(1771年)改築して明治時代に至ります。
「大栄町史・民俗編」(大栄町史編さん委員会編 大栄町発行)によれば、須崎神社は
堀籠地区の産土様(ウブズナサマ―村の神様)で社格は8級とあります。(P154)
毎年神社庁に納める負担金は社格によって決まっていて、8級は最下級の兼務社です。

拝殿は開け放たれて、吹きさらし状態です。

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風雨に晒されて大分傷んだ古いお神輿が無造作に置かれています。
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「願主 當村善男女」と記された、天明元年(1781年)の宝塔。

神額には「赫日流輝」(かくじつきをながす)と書かれています。
これは夏の暑い日が強く光を放っている様を表す言葉で、中国の魏晋南北朝時代の
文学者・陶淵明の詠んだ漢詩です。
漢魏六朝と言われる漢詩の詩体の一種で、韻律や文字数に制約のない、自由な形式です。
どうしてこの漢詩がここに掲げられているのかは分かりませんが、明治の戦役記念という
文字が見えますので、地元出身の兵士を顕彰して掲げられたようです。


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本殿は部分的に補修が行われています。
再建されてからも240年以上経っていますから、傷みも激しかったのでしょう。
本殿の周りを囲むように、沢山の祠が並んでいます。
明治41年に浅間神社(ご祭神・木花咲姫命)、鳳凰・吾妻神社(ご祭神不明)、八幡神社
(ご祭神・誉田別命)、天満神社(ご祭神・菅原道真)を合祀したという記録があります。
(大栄町史)

「天満宮」です。
大正11年と記されています。

「駒形神社」です。
大正9年と記されています。


崩れて判別できないものもあります。

「八幡大神」です。

千木は垂直切り、鰹木は3本です。


境内の脇に荒れ果てた名も無い祠がありました。
中には小さなキツネの置物が・・・。
稲荷神社だったのでしょうか?


裏山の中に何やら祠のようなものが見えます。
近づいてみるとやはり小さな祠でした。
辛うじて「石宮」の二文字が読めました。
石宮神社という名の神社は松江や磐田、新潟などにあるようですが、あまり関連が
あるとは考えられません。
大木の根元で半分土に埋まり、幹にものみ込まれそうな姿は、玉造の六角堂にある
「木隠れ観音」を思い出させます。
宝徳寺観音堂 ⇒


鳥居の下に種字が彫られた欠けた板碑が2基。
一つは割れて倒れています。
きちんと調べれば、興味深い歴史が浮き出てくるかもしれません。

参道の手前に二つの道祖神が並んでいます。
文化四年(1807年)と読めました。


堀籠は成田市の外れ、すぐ先は香取市と神崎町との境です。
江戸時代には「大白天」と称していましたが、明治6年に「須崎神社」と改称しました。
山中の鬱蒼とした森に包まれ、日陰で湿気の多い須崎神社ですが、調べれば
まだ何かが出てきそうな興味深い神社でした。

※ 「須崎神社」 成田市堀籠840
京成成田駅中央口より千葉交通バス 佐原行き
桜田権現下車徒歩約30分

「大須賀大神」は弘仁元年(810年)の勧請と伝えられています。
1200年の歴史を持っているこの神社は、当初は近くの別の場所(神代)にありましたが、
火災にあってこの場所に移転してきました。

手水盤には享保十四年(1729年)と刻まれていました。

ご祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
春日権現と呼ばれることもある祝詞の神様で、出世の神様とされています。
天照大神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(くつぬしのみこと)を合祀していて、
郷社の格を持つ近隣村社の総鎮守です。
「境内はかつて祭礼ともなると1万を超える人が訪れたという広さで、いたるところに
合祀された祠がある。」(「大栄町史・民俗編」 大栄町史編さん委員会編 P155)

鳥居の下に昭和12年の「拝殿鳥居間参道敷石」と記された寄進の碑が建っています。

足元に子犬(?)がいます

参道の左手にはずらりと石碑が並んでいます。

「護国碑」は昭和27年に建てられ、徳富蘇峰の書になります。
「蘇峰九十叟」と記されていますが、昭和27年には蘇峰はちょうど90歳になっていました。
叟とは翁という意味でしょう。
蘇峰は高名な思想家ですが、自由民権から富国強兵までの振幅の激しい思想家でした。
「不如帰」で知られる徳富蘆花は実弟になります。

「忠魂碑」は海軍大将・東郷平八郎の書です。
日清・日露両役戦没者の慰霊のために、明治39年に建てられました。
東郷平八郎(1848~1934)は日露戦争での日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を
撃破したことで世界中の海軍から尊敬を集めた軍人で、陸軍の乃木希典大将とともに
軍神として崇められました。
東京・渋谷、福岡・福津、埼玉・飯能に「東郷神社」があります。

「凱旋記念碑」も東郷平八郎の書で、明治39年に建てられました。

「戦役記念碑」は陸軍大将・田中義一の書で、大正11年の建立です。
田中義一(1864~1929)は軍を退役後、政界に進み、第26代内閣総理大臣を務めた
人物で、政治家としての評価は分かれますが、気さくな人柄で知られています。
戦後の内閣総理大臣・吉田茂は、この田中義一を師と仰いでいました。

「招魂碑」は昭和28年の建立で、宇垣一成謹書と記されています。
裏面に日露戦役、日支事変、太平洋戦争の戦没者を慰霊するためと書いています。
宇垣一成(1868~1956)は陸軍大将で、陸軍大臣、朝鮮総督などを歴任しました。
軍部出身ながら当時の軍部の独走に批判的で、何度も軍部に対する抑止力を期待されて
首相に推されましたが、いずれも軍部強硬派に阻まれ、ついに首相にはなれませんでした。


本殿の千木は垂直切り、鰹木は5本で、ご祭神が男神であることを表しています。

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拝殿の装飾はさほど多くはありませんが、見事な彩色に彩られています。


本殿裏の天満宮と三峯神社。

拝殿の右手にある疱瘡神、八坂神社、金毘羅宮。

比較的新しい祠が三つ並んだ裏側に、古い祠が置かれています。
金毘羅宮は寛政5年(1793年)と読めます。



裏山は鬱蒼とした林です。
その中にポツンと白山神社が建っています。

境内の一角に能舞台があります。
ここで民俗芸能の「伊能歌舞伎」が上演されます。
「伊能歌舞伎」は、元禄十年(1697年)に始まったと言われています。
昭和40年を最後に上演されなくなっていましたが、平成に入って復活の気運が高まり、
「伊能歌舞伎保存会」が設立されて平成11年に復活し、今では近隣の各地で公演を行う
までになっています。

地芝居ポータル提供「伊能歌舞伎」⇒

FEEL成田 伊能歌舞伎 2013.4.2 ⇒
昭和40年以降上演が途絶えたのは、火災によって衣装が焼失したり、役者は若衆
(16~25歳までの男子)のみがなれるという決まりが、少子化の影響もあって役者
不足を招き、また時代と共に娯楽が多様化するなかで、上演が難しくなったためです。
一度途絶えた民俗芸能を復活させるには、大変な苦労があったことでしょう。
現在は市の指定無形文化財となっています。


1200年の歴史がある「大須賀大神」。
その歴史を記すものはほとんど残っていません。
しかし、社殿をはじめ裏山の深い森や、境内の静かな佇まいは、時の重みを
感じさせるに十分な雰囲気です。

※ 「大須賀大神」 成田市伊能345
京成成田駅中央口より千葉交通バス 吉岡経由佐原行き
大栄郵便局下車 徒歩5分

珍しい名前の神社ですが、創建年代やご祭神の記述がなかなか見つかりません。(※)
同じ名前の神社が栃木の日光にあり、ご祭神は磐裂命と根裂命の二柱とありますし、
同じく栃木県の下都賀郡壬生町にある「磐裂根裂神社」のご祭神も同様なので、
多分ここの「磐裂神社」のご祭神も「磐裂命」「根裂命」の二柱だと思われます。
「イワサク(イハサク)・ネサクは、日本神話に登場する神である。
『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記される。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった
火神カグツチの首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について化生した神で、
その次に石筒之男神(磐筒男神)が化生している。」
(ウィキペディア「イワサク・ネサク」の項より)
(※「成田の地名と歴史」にはご祭神を磐裂神とし、松子城主の大須賀氏が城の
鬼門除けのために、伊勢国の朝熊山から勧請した、という記述がありました。)

道端のちょっと引っ込んだところに急階段があり、その上に鳥居が建っています。
坂道の途中なので、下を向いて歩いていると見落としてしまいそうです。

階段の上の鳥居の脇に「大願成就」と記した昭和20年1月の石碑が建っています。
右上の部分が欠けていて、何の大願成就なのかは分かりませんが、敗色濃い戦争
末期のころに、どんな「大願」があったのか、想像もできません。


質素な拝殿ですが、2月に行われる神事の「奈土のおびしゃ」(後述)が行われる場所です。
神額は陸軍大将林銑十郎の筆になるものです。
林銑十郎は石川県金沢の出身で陸軍大学校長、近衛師団長等を歴任し、昭和12年に
内閣総理大臣となった人物。
林と奈土というこの土地、この神社とのつながりはどんなものだったのでしょう?
林が陸軍大将になったのは昭和7年、12年2月初めには総理大臣になっていますから、
昭和7年~11年の間に書かれたことになります。



本殿は小振りながらなかなか質感のある造りで、千木は垂直切り、鰹木は3本で、
ご祭神が男神であることを示しています。


風化で良く読めませんが、皇太子・・・と記されていますので、今上天皇の誕生(昭和8年
12月23日)を祝賀して寄進されたのでしょう。

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拝殿右手の天王社と手水舎。
天王社は牛頭天王・素戔男尊をご祭神としています。

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狛犬の台座は昭和48年に寄進されていますが、狛犬はもっと古い年代のもののようです。
この神社には境内のあちこちに合祀された神社の小さな祠があります。

拝殿の左側にある「阿夫利神社」

本殿左手にある奥から天満宮、淡島神社、月山神社
天満宮は文政十二年(1829年)と記されています。

疱瘡神社
文化五年(1808年)と記されています。

金毘羅大権現

稲荷大明神
さて、聞き慣れない「おびしゃ」について説明しましょう。
歩射、奉社、備社などとも書かれ、昔から村人が集まって五穀豊穣や家内安全、子孫繁栄、
悪疫退散などを祈願する、正月行事が起源です。
「奈土のおびしゃ(御武射)」は、「磐裂神社」で約150年前から行われてきた祭礼で、
毎年2月13日に行われてきましたが、近年はその前後の日曜日に行われるようです。
珍しい行事ですので、進行について大栄町史編纂委員会編の「大栄町史・民俗編」から要約
して説明してみます。(大栄町は平成の大合併により現在は成田市になっています)
まず、「おびしゃ」の2日前に当番(官主と言います)とハタラキと呼ばれる女性が、各戸から
儀式に使うもち米を5合ずつ集めてまわります。
前日には官主の使いが「明日、御神酒あげとうございますので、おこしください」と各戸を
ふれてまわります。
当日は午前中に磐裂神社の神殿にて、地域の各班持ち回りの新旧官主、区長、組長など
の役員が集まって神事を行い、その後現官主の家で祭礼が行われます。
酒がふるまわれ、庭先では獅子舞が奉納されます。


奈土のおびしゃ(成田市観光プロモーション課提供) ⇒
最後に旧官主が新官主の衿に「御幣の依り代(ごへいのよりしろ)」を差し込みます。
「御幣」とは神事に用いられる2本の紙垂れを竹や木の幣串に挟んだもので、「依り代」とは
神様が依り付くものという意味です。
これ以降は新官主は自宅に戻るまで一切しゃべってはいけない決まりがあります。
その後近くの三叉路の路上で新官主と旧官主が盃を交わして、神様が新官主の班に移り、
儀式が終わります。
「おびしゃ」と呼ばれる行事は北総の各地に見られますが、古くからの形式を守っている
「奈土のおびしゃ」は珍しく、県の無形民俗文化財に指定されています。

境内からやや離れた道端に道祖神と思われる小さな石碑が立っています。
かろうじて「南 いのう たこ」と読めます。
道祖神が向かっている方角が違いますから、どこからか移設されたのでしょう。


普段は訪れる人も無い磐裂神社。
近隣では「虚空蔵様(こくうぞうさま)」とも呼ばれていて、奈土の人々は「虚空蔵様の使い」
とされるウナギを決して食べないそうです。
成田山はウナギが名物の一つですが、奈土の皆さんはどう思っているのでしょう?
奈土を離れれば食べても良いのでしょうか?
でも、信心とはそういうものではありませんよね。
(南房総の大多喜町のある地区でも、同じ理由からウナギを食べない風習があるようです)
昔ながらの様式を守って行われる「おびしゃ」、そして、「ウナギを食べない」風習など、
奈土の地は、成田でも珍しい伝統の集落です。

※ 磐裂神社 成田市奈土738
京成成田駅前よりコミュニティバス津冨浦ルート 奈土下車徒歩10分