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このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があっても、そのまま記載しています。また、大正以前の年号については、漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。 なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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成田は新しいものと旧いものが入り混じる魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊を、流れる風になって気の向くままに綴ります。

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堀之内の森に佇む「西福寺」の「不動堂」
今回は、堀之内の「西福寺」を訪ねます。

西福寺-10

「西福寺」は天台宗のお寺で、山号は「不動山」。
本尊は「阿弥陀如来」です。


西福寺-38
西福寺-32

本堂は民家風の建物で、周りには何もありません。
お寺の境内の雰囲気は、本堂の手前左側にある「不動堂」に残されています。


西福寺-36
西福寺-39
西福寺-40

参道の入口には小さな大師堂があります。


西福寺-1

門柱には「不動山西福寺」と刻まれ、裏面には「平成十三年」とあります。


西福寺-3
西福寺-2

門柱の左右に立つ、地蔵菩薩と観音菩薩。
地蔵菩薩には享保十一年(1726)の銘があります。
廃仏毀釈の痕でしょうか、地蔵菩薩の頭は仮のセメント造です。


西福寺-4
西福寺-5

「不動堂」の前にある小さな鐘楼。
鐘も小さく、橦木はありません。


西福寺-6

手水鉢の銘は読めませんが、それほど古いものではなさそうです。


西福寺-7
西福寺-8

大銀杏の樹齢は数百年はありそうです。


西福寺-9

宝珠と火袋が失われた灯籠には、「文化八辛未春」との銘が見えます。
文化八年は西暦1811年、11代将軍徳川家斉の時代です。


西福寺-11
西福寺-27

「不動堂」には掲額がなく、小さな木版が掛かっていますが、文字はすっかり消えています。
なんとか「不動」と読めるような気がしますが・・・。


西福寺-12

「不動堂」の脇にある小さな「大師堂」。
柱にはまだ謹賀新年のお札が・・・


西福寺-13

しっかりとした造りですが、飾り気はありません。


西福寺-14

失礼してお堂の中を覗かせていただきました。
正面の厨子は扉が閉まっていますが、右側に二体の仏像らしきものが見えます。
暗いうえに幕に遮られてよく見えませんが、二体の後にもう一体の仏像があるようです。


西福寺-37

目を凝らして見ると、仏像の背に火焔光が見えています。
腰のあたりまでしか見えませんが、これは「不動明王」像のようです。
足許の二体は八大童子の「制多迦(せいたか)童子」と「矜羯羅(こんから)童子」でしょうか。

「不動明王」は、『「動かない守護者」を意味する名の、明王の中で最も重要な存在。大日如来
の教令(命令)を受け、如来の教えに従わない者たちの前に忿怒の形相で現れ、教化します。』

(「仏像の事典」 熊田由美子 P56)

足跡ー7
(九十九里の尾垂ヶ浜に建つ不動明王像)
観照院-20
(富里の「観照院」境内の不動明王像)

不動明王は右手に剣、左手に羂索を持っています。
剣は、「魔を退け、人々の煩悩を断つため」、羂索は、「悪を縛り、煩悩から抜け出せない者を
救い出すため」のものです。


西福寺-16
西福寺-17
西福寺-18

不動堂の周りには石仏や墓石が並んでいます。
寛文、貞享、元禄、正徳、享保、延享、宝暦、文化、文政などの元号が読めます。


西福寺-19
西福寺-20
西福寺-21

「不動堂」の裏に鳥居があり、小さなお社があります。
鳥居の扁額には「子安様」と刻まれています。
ここはお寺の境内ですが、鳥居とお社の組み合わせはまさに「神社」そのものです。

お寺の中に神社があることは、さほど珍しいことではありません。
神仏習合や本地垂迹の産物として、各地で見られる風景です。
たとえば成田山の「額堂」の周りには「天満宮」や「金毘羅大権現」、「白山明神」、「今宮神社」
がありますし、匝瑳市の「飯岡檀林」にも「古能葉稲荷大明神」があります。

額堂-00
(成田山にある「天満宮」)
額堂-98
(成田山にある「三社」(中央「金毘羅大権現」、左「白山明神」、右「今宮神社」))
飯高檀林-79
(飯高檀林 「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」)

ただ、気になる記述が「千葉縣印旛郡誌」(大正二年)にあります。

「西福寺 堀内村字西之台にあり天台宗山門派にして圓融寺末あり阿彌陀如來を本尊とす
由緒不詳堂宇間口六間奥行五間境内四百八十三坪官有地第四種あり檀徒十八戸住職は鈴木
諄英にして管轄廳まで十里九町とす境内佛堂二宇あり即
一、不動堂  不動尊とす由緒不詳建物二間半四面なり
二、観音堂  本尊子安觀音にして由緒不詳建物二尺四面あり 寺院明細帳」


「観音堂」の大きさもほぼ一致していますので、これは「子安観音」を本尊とする「観音堂」で、
鳥居は神仏習合の名残だ、とも考えられます。


西福寺-22
***********西福寺-24
西福寺-25
***********西福寺-26

様々な石仏、墓石の中に、三基の月待塔が並んでいます。

西福寺-28

十九夜の月待塔。
「奉造立 十九夜待成就之所」「元禄七甲戌二月」の文字が読めます。
元禄七年は西暦1694年、忠臣蔵の逸話で有名な「高田馬場の決闘」があった年です。


西福寺-29

「享保十六辛亥」と記された「十九夜月待塔」。
享保十六年は西暦1731年、徳川吉宗の治世でした。


西福寺-30

「天明七丁未年」と記された「十七夜月待塔」。
天明七年は西暦1787年、この年には全国規模での打ち壊し(天明の打ち壊し)がありました。


西福寺-31

この石仏は頭部を砕かれています。
「十七」という文字だけが台座に残されています。
十七夜待の聖観音像かと思いましたが、像容は地蔵菩薩にも見えます。
可能性のある、十七年以上あった元号は、慶長・寛永・享保なので、慶長十七年(1612)か、
寛永十七年(1640)か、享保十七年(1732)のいずれかの地蔵菩薩かもしれません。


西福寺-33

裏の藪の中に山羊がいました。
怪訝そうにこちらを見ています。


西福寺-34
西福寺-35
西福寺-41

境内に人影はありません。
参道も分かりにくい場所にあり、周囲の人家もまばらです。

「成田の地名と歴史」に、堀之内村は、「元禄期(1688~1703)は南町奉行所与力給地で、
その後北町奉行所与力給地に移る。」
(P180)とあります。

「与力は加勢するという意味で、諸役職の奉行や頭に付属した役人の称である。将軍への
拝謁を許されない御家人であるが、中には俸禄として知行地を集団で与えられた与力がいた。
その知行地が与力給地で、市域には江戸の南北両町奉行与力の給地が存在した。」

(同 P338)

見かけた石仏の銘の一番古い元号は「寛文」(1661~1672)なので、このお寺の歴史は
少なくとも350年以上はあると思われます。
ここを給地とした江戸の奉行所与力が、このお寺に参詣したこともあったことでしょう。


西福寺-0

                           ※ 「西福寺」  成田市堀之内148



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遠山村の寺社 | 11:51:40 | トラックバック(0) | コメント(0)
千二百年前に建立された古社~小菅の「側鷹神社」

今回は二年前に「三里塚街道を往く その壱」でちょっと立ち寄った、小菅の「側鷹神社」です。

小菅側鷹-1

「千葉縣印旛郡誌」には、「側鷹神社について次のように記述しています。

「村社 側鷹神社 小菅村字中小菅にあり彦火々出見尊を祭る大同三年九月廿八日建立
社殿間口三尺奥行三尺拜殿間口三間奥行二間境内二百三十三坪官有地第一種あり神官は
宮崎廣重にして氏子六十戸を有し管轄廳まで九里二十五町一間一尺あり境内一社あり即
一天神々社 菅原道眞公を祭る嘉永元年戊申八月勸請建物間口三尺奥行一間あり神社明細帳」 


「彦火々出見尊」(ヒコホホデミノミコト)は、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)と木花開耶姫(コノハナノ
サクヤヒメ)との子で、山幸彦(ヤマサチヒコ)の名で知られています。
また、神武天皇の祖父にあたるとされています。

大同三年は西暦808年ですから、実に1200年以上前に建立された古社です。


小菅側鷹-2

「成田市史 近代編史料集一」に収録されている、昭和8年の「遠山読本稿 巻七」には、
村社側鷹神社は小菅区にあり、神饌幣帛供進指定神社たり。」 とあります。

また、「成田市史 中世・近世編」には、
小菅村の側鷹神社は大同三年の創建と伝えられ、古くは杣鷹大明神と称していたが、
明和八年(一七七一)に側鷹と改称している。」
とあります。

「神饌幣帛供進指定神社」とは、郷社・村社を対象に、明治から終戦に至るまでの間、勅令
により県知事から祈年祭・新嘗祭・例祭に神饌幣帛料を供進された神社を指します。
神饌幣帛(しんせんへいはく)とは、神社や神棚に供える供物のことで、米や酒、山海の幸、
布帛、衣服、武具などです。

「側鷹神社」は実は珍しい社名で、下総地方に多くある「ソバタカ神社」は「側高神社」が多く、
他に「脇鷹神社」(成田市小泉・香取市・旭市)、「祖波鷹神社」(香取市岩部)、「相馬高神社」
(芝山町)、「素羽鷹神社」(栄町)などがあります。
いずれも香取市大倉にある香取神宮の第一摂社である「側高神社」の分社です。


小菅側鷹-4
小菅側鷹-3

手水盤は天保六年(1835)のものです。


小菅側鷹-5
小菅側鷹-33
********** 小菅側鷹-7

「側鷹神社遷座紀念碑」には、次のように記されています。

「本側鷹神社(祭神彦火火出見尊)は、大同三年九月二十八日(西暦八百八年)現成田市
小菅七八三番地に創祀され、以来、古くは東国の守護神であることから、神饌幣帛供進
指定神社と
して崇められ、過のアジア、太平洋戦争時には、旧遠山村の総社として位置付
けされた。また、地域の産土神として多くの住民が崇拝した。今般、本神社の遷座は、国家
的施策である新東京国際空港の建設に協力する美事なるも、小菅地区開村以来の大事業
であることから、氏子一同の総意をもって協恭一心敬神の誠を奉げ、平成十九年十月この
地に遷座祭を斉行した。仍って、ここに碑を建て、愈々国運の隆昌と氏子崇敬者の御加護
を祈念し、御稜成の光被を仰がんとする次第である。」


産土神(うぶずながみ)とは、人が生まれた土地の守護神を指します。
人を一生を通じて守護してくれ、生まれた土地を離れても守ってくれると信じられています。


小菅側鷹-8
小菅側鷹-42
小菅側鷹-9
小菅側鷹-41

狛犬は平成19年の寄進です。
阿形の狛犬は左足で鞠を押さえ、吽形の狛犬の足許には子犬(?)がうずくまっています。


小菅側鷹-6

二基の灯籠も平成19年の寄進です。


小菅側鷹-39

境内の左手には、小さなお社や祠が並んでいます。

手前から見て行きましょう。

小菅側鷹-10

左の石柱には、「奉納 御寶■■ 天保八丁酉二月吉日」と刻まれています。
天保八年は西暦1873年、この年には大坂(現大阪)で「大塩平八郎の乱」がありました。
右の祠は風化によって文字らしきものは何も見えません。


小菅側鷹-11

「子安社」。
本社は、妊婦の安産と、お子様が健やかに育つことを願い、創祀されました。また、疱瘡神様
とも言われ疫病から身体を守る神様として崇められています。創祀年は不詳です。」

(説明板)


小菅側鷹-12

左の流造の小祠は、風化で何も読めません。
右の祠には大正六年(1917)と記されています。


小菅側鷹-13

「天神社」。
本社の祭神は、菅原道真公であります。嘉永元年(一、八四五年)に学問の神様である
同公が勧請され、以降崇められています。」
 (説明板)


小菅側鷹-14

「日天子社」。
本社の祭神は、大日孁尊(お日様)であります。正保二年(西暦一、六四七年)に妙福寺
住職日延上人により、五穀豊穣を祈願し、創祀されました。なお、昭和四五年(西暦一、九
七〇年)までは、その年の豊作を願い、例祭を毎年八月一日に行っていました。」

(説明板)

「大日孁尊(オオヒルメノミコト)」とは、「天照大神」の別称です。
「日天子」はインドの太陽神が仏教に取り入れられたもので、観音菩薩の化身とされ、仏法
守護の十二天に数えられています。
「天照大神」を祭神とするこのお社を「日天子社」と呼んでいるのは、「両部習合神道」と呼ば
れる神仏習合思想によるものと思われます。

この「両部習合神道」については、ウィキペディアに次のように解説されています。
「両部神道(りょうぶしんとう)とは、仏教の真言宗(密教)の立場からなされた神道解釈に基
づく神仏習合思想である。 両部習合神道(りょうぶしゅうごうしんとう)ともいう。」
「両部神道では、伊勢内宮の祭神、天照大神は胎蔵界の大日如来であり、光明大梵天王で
あり、日天子であるとし、一方、伊勢外宮の豊受大神は、金剛界の大日如来であり、尸棄
大梵天王であり、月天子であるとする。そして伊勢神宮の内宮と外宮は胎蔵界と金剛界の
両部で、この両部が一体となって大日如来の顕現たる伊勢神宮を形成しているとした(二宮
一光説)。 両部神道とは、これによって神と仏の究極的一致を説明しようとしたところに注目
した命名である。」



小菅側鷹-17
小菅側鷹-18

境内の左奥には鳥居のある「熊野神社」があります。
「熊野神社(村社) 本社の祭神は、伊弉諾尊、伊弉冉尊であります。地域住民の夫婦神と
して、」信仰も厚く、多くの人々に崇拝されています。創祀年は不詳です。」
 (説明板)

「熊野神社」と「日天子社」、「天神社」、「子安社」の各社は、もともとは小菅地区に分散して
いましたが、昭和45年に小菅783番地の「側鷹神社」の境内に合祀され、その後平成19年
の「側鷹神社」遷座に伴い、現在地に遷座したものです。
合祀前の「熊野神社」については、「千葉縣香取郡誌」中の「遠山村誌」に一行、
小菅村字中臺 由緒不詳 氏子六〇戸」 と書かれていました。

「側鷹神社」が以前に鎮座していた“小菅783番地”を地図で探しましたが、見つかりません。
平成7年まで時間を遡って、ようやく見つけた「側鷹神社」は、現在地より約2キロほど北の
新空港自動車道を超え、ヒルトンホテルの裏側から取香川に向かったあたりにありました。
現在の地図にも、平成7年の地図にも、その一帯には地番は付けられていません。
(参考までに、巻末に地図を載せてあります。)


小菅側鷹-19
小菅側鷹-23

鰹木は三本、千木は垂直切りです。


小菅側鷹-22
小菅側鷹-25
小菅側鷹-28

装飾の少ない本殿と拝殿は、バランスの良い、とても美しい姿です。


小菅側鷹-21

境内の隅に、忘れられたように置かれている手水盤には、「安政二卯」 と刻まれています。
安政二年は西暦1855年になります。
160年前のものですが、遷座前の境内で遣われていたものなのでしょう。


小菅側鷹-32
小菅側鷹-29
********** 小菅側鷹-24

上空を旅客機が飛んで行きます。
遷座前の「側鷹神社」は、飛んで行く飛行機の下あたりにあったのでしょうか。


小菅側鷹-26
小菅側鷹-27
********** 小菅側鷹-30
小菅側鷹-31

境内を囲むフェンスの向こうは、遠くに見える「成田ビューホテル」のゴルフ場です。


小菅側鷹-45
小菅側鷹-34
********** 小菅側鷹-35

鳥居の前の狭い道路の向こうは、切り通しになっていて、京成電車が走っています。


小菅側鷹-36

隣接地には以前は無かったソーラーパネル群が・・・。
最近はどこへ行ってもこうしたソーラーパネル群が目立ちます。
自然を破壊してまでエコだ、クリーンだと言えるのか、私には納得できない光景です。


小菅側鷹-37

小菅側鷹-38

ソーラーパネル群とコルフ場、切り通しには線路が走り、この神社の周りには人の生活の
気配が全く感じられません。
空港事業のためとはいえ、遷座したこの場所は寂しすぎる感じがします。

2年前のブログに、この神社に立寄った時の印象が書かれていますが、この景色から感じる
ところは2年後の今も変わりません。
(その時の文章  )
「境内にも、神社の周辺にも人影がありません。
数台が停まれる駐車場も立ち入り禁止のロープが張られています。
狛犬もどことなく寂しそうです。
空港事業のためとは言え、何世代にもわたって親しんできた住民との絆が
細くなってしまったのでしょう。
道は行き止まりになり、右に曲がって京成電車の跨線橋を渡り
細い道を下ると思わぬ場所に出ました。
空港建設のために使われた、通称「資材道路」が県道44号線と交わる
急坂の途中です。
44号を左に行けば、直ぐに「さくらの山」になります。」



小菅側鷹-40

遷座した平成19年に植えられた記念樹も、まだこんな頼りなさです。

昔はどこにでも見られた「鎮守の森」は、そう簡単には得られない貴重な遺産であることを
痛感させられる景色です。



側鷹神社-98

                         ※ 「側鷹神社」 成田市小菅1389-9

側鷹神社-100
(参考:  が現在の「側鷹神社」  がかつて「側鷹神社」があった場所です)



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遠山村の寺社 | 08:18:12 | トラックバック(0) | コメント(0)
東和田の「長光寺」と無数の錐を刺す道祖神
小雨がパラついたり、薄日が差したりの曇天の中、東和田の「長光寺」を訪ねました。

長光寺ー23

「長光寺」は天台宗のお寺で、ご本尊は阿彌陀如来です。


長光寺ー2

「東和田村字要害にてり天台宗山門派にして圓融寺末なり阿陀彌如来を本尊とす堂宇
間口八間奥行七間境内七百六十坪官有地第四種あり由緒不詳住職は根元堯海にして信徒
二百六十一人管轄廰まで八里二十二町四十五間一尺なり境内佛堂二宇あり即
一、地蔵堂 地蔵菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口二間半奥行二間
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺
三、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺寺院明細帳

(アンダーライン部分(「にてり」「阿陀彌如来」「大師堂のダブり」)は誤記と思われます。)

「千葉縣印旛郡誌」には「長光寺」についてこのように記述しています。
この「郡誌」には「長光寺」を「長老寺」と記していますが、「長光寺」の誤記と思われます。
同じ字(要害)には他に寺は無く、今は無くなった「観音堂」についての記述が、
「東和田村字要害にあり長光寺境外佛堂にして薬師如来を本尊とす」
とあるからです。


長光寺ー63
長光寺ー57
********** 長光寺ー58
長光寺ー59

本堂は全ての壁面が塞がれています。
近づいて良く見ると、もともとの古い本堂の周囲にトタンを打ちつけただけのようです。
所々に古い木材が見えています。


長光寺ー8

本堂の左手に数基の石塔が並んでいます。
右端の石塔には「佛乘心院權僧正堯海大和尚位」と刻まれています。
裏面に昭和30年に亡くなったと記されていますが、この和尚の名は大正二年(1913)に
編さんされた「千葉縣印旛郡誌」に名前がありますので、40年以上にわたってこの寺の
住職をされていたようです。
真ん中は「中心院恵暁墓」と刻まれています。
側面にびっしりと文字が書かれていますが、風化で良く読めません。
どうやら文政元年(1818)に亡くなったお坊さんのようです。


長光寺ー9

左端にあるこの石碑の文字が、読めそうで読めません。
「尊暢塔」と読めるような気がするのですが、いま一つ意味が・・・。
裏には「安政三丙辰七月八日 回向料金五両 村役人預」とあります。


長光寺ー10
長光寺ー12

内部が二つに仕切られた、真新しい大師堂があります。
前述の「印旛郡誌」に大師堂の記述がダブっていると書きましたが、もしかすると昔は二つ
あったものを近年になって一つにまとめたのかも知れません。


長光寺ー47
長光寺ー11

右の大師像の台座には「文久三年癸亥二月」「奉納新四國八十八ヶ所」と刻まれています。
大師像は頭が落とされ、側面の文字も大きく削られています。
間に合わせのセメントの頭が載っていますが、ここでも明治時代初期の廃仏毀釈の嵐が
吹き荒れたのかも知れません。
わざわざ削られた個所にはどんな文字が刻まれていたのでしょうか?

文久三年は西暦1863年で、長州による外国艦隊への砲撃や薩英戦争、天誅組の変や
生野の変など、世情は攘夷に沸いて騒然としていたころです。


*********** 長光寺ー60
長光寺ー61
*********** 長光寺ー62
長光寺ー15

境内の一角にある墓地は古い墓石ばかりが並んでいます。
明暦、寛文、元禄、正徳、元文、寛保、寛延、宝暦、天明、文化などの年号が読めます。
年号が読める中で一番古い「明暦年間」は、1655~57年ですから、この墓地がずっと
ここにあったとすれば、「長光寺」の歴史は少なくとも360年以上あることになります。


長光寺ー5
長光寺ー3

数年前までは鬱蒼とした森だった境内の裏手は、最近になってすっかり伐採されました。
山の上にある「長光寺」は遮るものが無くなって、風が強く吹き抜けています。


長光寺ー4
長光寺ー7
長光寺ー20

成田駅から成田山までが一望できます。


長光寺ー22
長光寺ー69

お寺の足許にまで宅地化の波が押し寄せています。
本堂はトタンで塞がれ、木は切り倒され、「長光寺」は風前の灯のように見えます。
裏の木の伐採が、境内の整備のために行われているのであって、整理のためではないことを
祈りたいと思います。


長光寺ー28

「長光寺」の山を下りた信号の無い交差点に「東和田の道祖神」があります。


長光寺ー35
長光寺ー36

多くの場合、道祖神は道端にポツンと置かれた小さな祠なのですが、この「道祖神」は鳥居
を持った立派なもので、祠の周りには道祖神と刻んだ小さな祠がたくさん奉納されています。


長光寺ー39
長光寺ー44

柱に数えきれないほどの錐が刺さっています。
柄の木が腐った古いものから、比較的新しいものまで・・・、ちょっと異様な光景です。
耳の悪い人がここに錐を奉納すると、耳の通りが良くなるという言い伝えがあるそうです。


長光寺ー26
長光寺ー32

観音像が線描されています。
横の上部が欠けた石仏は如意輪観音でしょうか?


長光寺ー33

崩れかけた手水盤は元治元年(1864)のものです。
前年の文久三年から世情不安は続き、池田屋事件や禁門の変などが起こった年です。


長光寺ー42 明治十六年(1883)
長光寺ー43 明治十八年(1885)


長光寺ー27

鳥居の後ろに大きな杉の切り株があります。
昔はこの杉の木に錐を刺したそうです。

道路が整備され住宅が迫って、ここにも開発の波が押し寄せています。
「道祖神」は子孫繁栄や交通安全の神様として信仰されていますが、古くは村とあの世を
別ける結界でもありました。
時代と共に信仰の形が変わり、あるいは薄れて行くのは仕方ないことかも知れませんが、
せめて先人の生きてきた時代にほんのちょっと思いをはせるきっかけになるような景色は
残したいものですね、この道祖神のように・・・。


長光寺ー71

                       ※ 「長光寺」 成田市東和田303



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遠山村の寺社 | 08:14:34 | トラックバック(0) | コメント(2)
「じえもんさま」と多門院、稲荷神社に薬師堂、そして「てらだいみち」
今回は吉倉の山道で道を尋ねた時に、老人から聞いた「じえもんさま」の話から始めます。

昔、この一帯は「牧(まき)」と呼ばれる幕府直轄の野馬の放牧地がありました。
毎年のように「牧」を囲む土手が崩れて野馬が畑に入り込み、作物に大きな被害が出る
ため、村人達が年貢の減免と土手の補修を何度も役人に願い出ましたが、聞き入れられ
ませんでした。
名主であった「治右衛門」が死を賭して藩主に直訴し、検分となりましたが、「牧」の役人が
自分たちの手落ちを隠すために検分前に土手を修復し、畑を荒れ地に変えてしまいました。
“土手は崩れておらず、周りは畑など無い土地ではないか”と、ありもしないことで直訴をし
た不届き者として、治右衛門は捕えられて死罪となり、家族もろとも処刑されてしまいます。
しかし、処刑後に真実が明らかとなり、年貢は減免され、村人は大いに助かりました。
明治の半ばになって、道路工事中に刑場跡と思われる場所から人骨が出て、治右衛門
一家のものだということになり、村人が多門院の境内に手厚く改葬したということです。

“これは行かねばなりますまい・・・”と、多門院(たもんいん)を訪ねました。

多門院ー27

「多門院」は天台宗のお寺で、山号は「説法山」、山之作の円融寺の末寺です。


多門院ー38
多門院ー26
多門院ー39

曲がりくねった急坂を登ったところに「多門院」はあります。

「西吉倉村の多院も円融寺の末寺で、境内は南北二八間・東西三五間である。
阿弥陀如来が本尊であるが、その台座裏に「奉再興阿弥陀如来尊像 正徳五乙未天八月日
下総国埴生郡西吉倉村 多聞院伝誉 大仏師江戸浅草三間町七兵衛」の墨書銘があり、
正徳五年の再建であるのがわかる。境内に観音堂をもち、稲荷神社・熊野権現・薬師堂など
を支配している。」
 (「成田市史 中世・近世編 P781)

ここでは寺名を「多聞院」としています。
現在の成田市の地図や千葉県の宗教法人名簿、さらに大正二年の「千葉縣印旛郡誌」にも
「多門院」とあって、この成田市史のみが「多聞院」としています。
墨書銘に「多聞院」とあるので、間違いではないのでしょうが、近世になって「多門院」と書か
れるようになったということでしょうか。

正徳五年は西暦1715年ですから、再興してから300年ということになりますので、このお寺
の歴史は相当古いものであることが分かります。


多門院ー28

「大師堂」(左)と「観音堂」(右)。


多門院ー29
多門院ー30

大師像は文政十一年(1828)のものです。


多門院ー35

「薬師堂」の隣に、老人から聞いた名主の「治右衛門」の墓がありました。
中央の大きな石碑は慰霊碑で、右側の小さい石碑が墓石です。
治右衛門とともに処刑された妻と娘の戒名が記されていて、遺骨が発見されてここに改葬
された明治三十一年の紀年銘が入っています。


多門院ー31

「治右衛門」についての資料はほとんど残っていないようです。
探してみると、「成田ゆかりの人々」(小川国彦 著 2002年 平原社)と、「成田 寺と町まち
の歴史」(小倉博 著 1988年 聚海書林)に、治右衛門についての話が出ていました。
治右衛門とは「甲田治右衛門」であり、万治二年(1659)に処刑されたことが分かりました。

郷土史家の滝口昭二氏によれば、「佐倉宗吾」を世に出したのは歌舞伎役者の市川小団次
で、成田山を訪れた時に地元の有力者から借りた「地蔵堂通夜物語」をもとに「東山桜荘子」
を上演して大当たりをとり、木内惣五郎(佐倉宗吾)は一躍義民として有名になりました。
同じように村人の窮状を救おうと直訴して処刑された名主なのですが、地元の人々には尊敬
されているものの、「治右衛門」は世間には知られざる義民のままです。
惣五郎の処刑から6年後に治右衛門の処刑がありました。
かたや将軍に直訴、こなた藩主に直訴との違いはあるものの、もし、小団次が治右衛門の話
を聞いていたら・・・、世間の耳目はこちらに集まり、この吉倉に「治右衛門霊堂」ができていた
かも知れませんね。


多門院ー33
多門院ー40

治右衛門一家の墓石の隣に立つ、二基の墓石と月待塔。
月待塔には十三夜待と十七夜待の文字が見えます。
十三夜待の本尊は虚空蔵菩薩、十七夜待の本尊は千手観音になります。
風化と苔ではっきりとは分かりませんが、刻まれているのは虚空蔵菩薩でしょうか?
右手が与願印(よがんいん)で左手に如意宝珠を持っているように見えます。
墓石は弘化四年(1847)と文久元年(1861)のものです。


多門院ー34

薬師堂の裏には十数基の古い墓石が並んでいます。
寛永、元文、寛延、宝暦、文化などの年号が読めます。


多門院ー42
多門院ー44

境内の周りには南天の木が目立ちます。
”災いを転じて福となす”の難転に通じることから、縁起木として植えられたのでしょうか。


多門院ー45

山を下る途中から、微かに成田山の「平和大塔」が見えます。
望遠で撮りましたので大分近く見えますが、実際は直線で2キロ以上はあります。


多門院ー43
多門院ー36

「吉倉字臺下口にあり天台宗山門派にして圓融寺末なり阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳
堂宇間口六間半奥行五間半境内四百七十八坪官有地第四種あり住職は林豪海にして信徒
百五十六人を有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり境内佛堂二宇あり即
一、観音堂 觀世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行二間
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺寺院明細帳」

「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、「多門院」についてこのように記述されています。


多門院の山を下りて、裾をぐるっと回ると、向かいの山の上に稲荷神社があります。

吉倉稲荷ー3

「稲荷神社 村社 吉倉村字台下口 祭神 倉稲魂命 由緒不詳 間口五尺奥行五尺
境内坪数 一四四 氏子 一三戸」


この稲荷神社については、「印旛郡誌」にこう簡単に記載されています。

「倉稲魂命(ウカノミタマニミコト)」は穀物の神様で、古くから女神であるとされています。


吉倉稲荷ー1  シンプルな明神鳥居  
石段は100段近くあります 吉倉稲荷ー12
吉倉稲荷ー2  


吉倉稲荷ー5
吉倉稲荷ー6

小さいながらも流造りの立派な社殿です。
鰹木が3本で千木が垂直に切られているのは、男神を表していますが、例外もあるようです。
鬼瓦の部分には、金色の宝珠が見えます。


吉倉稲荷ー8
吉倉稲荷ー9

境内には二つの手水鉢があります。
昭和18年に奉納されたものと、一部が崩れて「宝暦(?)」と読めるものです。
宝暦年間は、西暦1751~1764年ですから、約260年前のものになります。


吉倉稲荷ー10

この祠の側面の文字は、安永八年(1779)と読めます。


吉倉稲荷ー4

何も無い境内ですが、常に手が入っている感じで、山中にあっても荒れた感じはありません。


「多門院」には、前回訪ねた「観音堂」のほかに、「薬師堂」という境外佛堂があります。

多門院ー1

多門院から400メートルほど観音堂方向に戻った道端に「薬師堂」はあります。

「吉倉村字台下口にあり多門院境外佛堂にして藥師如来を本尊とす由緒不詳堂宇間口
三間奥行二間境内五十一坪官有地第三種あり住職は上野晃海にして信徒百五十六人を
有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり佛堂明細帳」


「千葉縣印旛郡誌」にはこの薬師堂について、こう記述しています。(信徒数・管轄廰までの
距離が前回の「観音堂」と同じであることが気になりますが・・・。)


多門院ー2   大師堂と大師像
多門院ー3


多門院ー47

境内の端に十基余りの石仏が並んでいます。

多門院ー48
*********** 多門院ー9
多門院ー10
*********** 多門院ー8

屋根の下に並ぶ三基の石仏は、左が慈母観音、中が如意輪観音、右が慈母観音です。
右の像は如意輪観音のように見えますが、良く見ると膝に赤子を乗せています。
安永六年(1777)と記されています。


多門院ー12

年代不詳の「薬師如来」と「読誦塔」。
薬師如来は左手に持った薬壺が欠落しています。
読誦塔には「奉誦普門品一千部供養塔」と刻まれています。


多門院ー15
多門院ー13
多門院ー14

訪ねたのは12月10日。
小さな境内ですが、燃えるような紅葉が印象的でした。

多門院ー49

一週間後に再訪した時には、すっかり色褪せて、冬が駆け足でやってきた感がします。


多門院ー17

多門院から薬師堂へ向かう途中に三叉路があり、道標が立っていました。
「奉誦講」と読め、寛政の文字が見えます。
200年以上前のもので、側面に「右ハてらだいみち」「左ハなりた道」と読めます。

ここから寺台へはどうやって抜けて行くのでしょうか?
ちょっと先へ進んでみます。

多門院ー18
多門院ー19

なだらかな登り坂が続きます。
周りには人家も何も無い、寂しい道です。


多門院ー20

突然視界が開けて、墓地が現れました。
手前には六地蔵が並んでいます。
元文、宝暦、文化などの墓石の中に、意外に新しい墓石も見受けられます。


多門院ー23

「奉納 西國三拾三ケ所供養塔」と記された、文化七年(1810)の石塔。


多門院ー24

側面にも文字が彫られていて、「此方 なり田 道」とだけ読めました。
道標になっているということは、この道が昔は結構往来があったということなのでしょう。


多門院ー21

しばらく先に進んでみましたが、だんだん道は細くなり、荒れた感じになってきました。
今ではこの道はほとんど使われていないようです。
ゼンリン地図で「てらだいみち」をなぞってみましたが、途中で切れていました。
歩く人が無くなって、雑木や竹に覆われて消えてしまったのでしょう。
切れた道の先は「資材道路」の「ガーデンホテル」の辺りに向かっていました。


多門院ー37

全く人気のない、心細い道を歩きましたが、見事な紅葉に慰められる山道でした。


多門院ー50


              ※ 「説法山多門院」  成田市吉倉414
                 「稲荷神社」     成田市吉倉444
                 「薬師堂」       成田市吉倉467-2

    

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遠山村の寺社 | 08:19:21 | トラックバック(0) | コメント(2)
信仰の三叉路~吉倉・古内の摩利支天宮、観音堂、熊野神社
「古内」は吉倉村時代の字(あざ)です。

摩利支天ー19

昔の軽便鉄道の三里塚・多古線が走っていた通称「資材道路」を、空港方面から成田市街
へ向かうと、東関道をくぐるトンネルの入口が二つあり、左側のトンネルを出た先が旧古内
地区になります。
トンネルから山道を150メートルほど進むと、右側の一段高いところに「観音堂」があります。


摩利支天ー4

斜面の小道を登る人を迎えるかのような「如意輪観音」。


摩利支天ー5
摩利支天ー6

風化が進んでいますが、享保五年(1720)の文字が見えます。
300年の風雪に耐えてきた観音像も、廃仏毀釈の嵐にお顔を削られたのでしょうか?


摩利支天ー20
摩利支天ー7

「吉倉村字古内にあり多門院境外佛堂にして歡世音菩薩を本尊とす由緒不詳堂宇間口
三間半奥行二間境内三十九坪官有地第三種あり住職は上野晃海にして信徒百五十六人を
有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり境内一宇あり即
一、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺なり佛堂明細帳」


大正二年(1913)編さんの「千葉縣印旛郡誌」にある「遠山村誌」には、「観音堂」について
このように記されています。
お堂は近年に改築されたようです。


摩利支天ー9
摩利支天ー10

大師堂には石造の大師像が安置されています。


摩利支天ー11
摩利支天ー12
摩利支天ー28

大師堂の裏には享保、宝暦、文化、天保などの二十数基の墓石や石仏が並んでいます。
刻まれた石仏には慈母観音が多く、■■童子のような文字が見えます。
幼くして逝った我が子を想う親の心情が伝わってきます。


摩利支天ー16
摩利支天ー29

お堂の中は薄暗く、微かに扉が開いた厨子の中に観音菩薩のお顔が見えています。
目を閉じて、わずかに首を傾けているようです。


摩利支天ー24
摩利支天ー27

道を挟んで「摩利支天宮」があります。


摩利支天ー1
摩利支天ー26
摩利支天ー3

「サンスクリット語のマリーチーの音写で、末利支天とも書く。陽炎の神格化といわれ、インド
では除災増益の神として古くから民間で信仰されている。」
「日本では鎌倉時代ごろから武士の護り本尊として信仰された。像容については二種類あり、
天女形で二臂、うちわ(天扇)を持つものと、三面六臂で猪の上の三日月上に立つものなど
がある。」
 (「仏像鑑賞入門」 瓜生 中 著 P185)

毛利元就や前田利家、山本勘助などがこの「摩利支天」の信仰者として知られています。

平成5年と記された石の鳥居と木の鳥居が2基、計3基の鳥居が並んでいます。


摩利支天ー25

脇にはたくさんの絵馬を奉納するような感じで白襷が掛っています。
どのような意味があるものなのかは分かりませんが、近隣では、失しものがある時に
ここにお参りすると、良く見つかると言い伝えられているようです。


摩利支天ー22

「摩利支天宮」から20メートルくらい戻ると三叉路になっています。
民家への道のように見える急坂があり、ここを登って行くと「熊野神社」に辿りつきます。


摩利支天ー30

道はすぐに舗装が途切れ、林道のような感じになってきます。


摩利支天ー33
摩利支天ー32

行き止まりに控柱が付き、立派な額束の鳥居が建っています。


摩利支天ー31

鳥居の下に立つと、石段の先に社殿がみえます。


摩利支天ー34
摩利支天ー36
摩利支天ー35

「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、この神社が簡単に記されています。
「熊野神社  村社  吉倉村字古内  伊弉冉命  由緒不詳
 間口五尺奥行五尺  境内坪数四一八  氏子一六戸」


また、「千葉県神社名鑑」には、
「熊野神社  伊弉冉尊  本殿・流造一坪  境内坪数五〇〇坪  氏子三〇戸」
と書かれています。

大正二年(1913)の「郡誌」と昭和62年(1987)の「名鑑」との70年あまりの間に、氏子が
倍増していますが、その理由は何なのでしょうか?
詳しいデータが手許にありませんが、古内地区が属する旧遠山村の大正9年(1920)時点
の人口は5360人、成田市に合併前の昭和25年(1950)には9336人と着実に増加傾向
を示しています。
市の中心部は人口が急増する一方、周辺部の過疎化が進んでいますが、この氏子の増加
は地区の人口増が理由なのでしょう。


摩利支天ー37

小さな手水盤は昭和2年の寄進です。


摩利支天ー38 ← 文政2年(1819)
     天満宮 →    摩利支天ー39   
摩利支天ー40  ← 年代不詳
摩利支天ー42

初冬の境内には物音一つ聞こえません。


摩利支天ー41
*********** 摩利支天ー2
摩利支天ー17
摩利支天ー22

深い山あいの小さな集落に、観音堂と摩利支天宮、そして熊野神社。
昔の人々の神仏に寄せる信仰が、今も残る古内の三叉路です。


摩利支天ー44


                    ※ 「観音堂」    成田市吉倉544
                       「摩利支天宮」 成田市吉倉561
                       「熊野神社」   成田市吉倉537



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遠山村の寺社 | 07:40:58 | トラックバック(0) | コメント(0)
何の因果か塀の中、「東峰神社」
東峯神社ー31

側高神社のある空港の第2ゲートを出て、一般道を佐原方面に向かう県道44号線に入る
抜け道の途中に「東峰神社」はあります。
取香の側高神社 ⇒

この抜け道に面して空港反対派の土地が残っており、一時は空港反対闘争の象徴的な
場所となっていたこともあって、常に機動隊の監視下にあります。
利用するのは地元住民や空港関係者に限られているので、あまり交通量はありません。
この道は第2滑走路への誘導路の真下をくぐるので、警備上の問題から道の両脇には
高い塀が続いています。


東峯神社ー30

この塀に囲まれた一角に「東峰神社」と書かれた小さな標識が立っています。
「この先行止まり」とも書かれていて、入って行く狭い道にも高い塀が・・・
興味はあるものの、いつも素通りしていました。


東峯神社ー1

今回は思い切って「東峰神社」を訪ねます。

神社への道は曲がっていて先が見えません。
見えるのは威圧感のある塀のみで、奥には機動隊が待っているかも知れません。
入って行くにはちょっと勇気が要ります。


東峯神社ー2

圧迫感のある塀の道を100メートルほど進むと、「東峰神社」はありました。


東峯神社ー3

「東峰神社(とうほうじんじゃ)」のご祭神はちょっと珍しい「二宮尊徳」。
以前、津田沼町(現習志野市)にあった「航空神社」を昭和28年に遷座したもので、この
「航空神社」は民間航空のパイオニア、伊藤音次郎氏が昭和12年に伊藤飛行機研究所内
に空難者を祀るために建立した神社です。
戦後伊藤氏は成田市の東峰地区に入植、航空神社も移設されて「東峰神社」となりました。
戦後になってから入植が行なわれた東峰地区には神社がなかったため、ここが住民たちの
祈りの場所となってきました。


東峯神社ー4

手水盤に水はありません。


東峯神社ー5

「皇紀二千六百年記念」と記された板碑。
「皇紀」とは神武天皇の即位紀元で、2600年は昭和15年でした。
社友會とも記されていますから、多分伊藤飛行機時代に建立されたものを移設
したのでしょう。


東峯神社ー22

いつのころに載せられたのか、10枚ばかりの1円玉が頭上で錆びついている狛犬は
困ったような、怒っているような表情です。

東峯神社ー6
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー7
左の狛犬はこんな場所に嫌気がさして逃げ出したのでしょうか・・・。

東峯神社ー9
東峯神社ー21

「東神社」と記された石柱の裏側には、セメントが埋め込まれた
「航空神社」の文字が・・・
津田沼町から持ってきて、裏側に新しく「東神社」と彫ったのでしょうか?
それにしては石柱が新しいような気がします。
ここに遷座した時は「航空神社」のままで、しばらくしてから入植者たちの拠りどころと
なるよう、地名をとって「東峯神社」に変えたのかもしれません。

東峯神社ー14

「東神社」か「東神社」か・・・
「峯」とあるのはこの石柱のみで、この辺りの地名は「東峰」、鳥居の額束も「東峰」です。


航空博物館ー21

ちなみに、こちらは航空科学博物館の敷地内にある「航空神社」です。
航空科学博物館 ⇒


東峯神社ー10
東峯神社ー11

質素な社殿には神額もありません。
千木は水平に切られ、堅魚木は三本です。
二宮尊徳は男性ですが、千木は水平に切られて女性神を表しています。
例外もあるようですし、堅魚木は男性神の奇数なので、まあ、堅いことは言わない、言わない。


東峯神社ー13
東峯神社ー17

2基の常夜燈の間はコンクリートで舗装してあります。
2004.4.15と棒で落書きしたような日付が残っています。


東峯神社ー24

ぐるりと神社を囲む塀のあちこちに、金網を張った覗き窓のような場所があります。
狭い神社への道に入らずに、空港の敷地側から監視できるような工夫です。


東峯神社ー18
東峯神社ー15
東峯神社ー25

神社の屋根をかすめるように第2滑走路に着陸する旅客機が飛んでいます。
轟音が小さな社殿を襲います。

東峯神社ー27
・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー28
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー29
明け方に神社の入り口に立つと、九十九里浜側から飛んでくる旅客機が、この角度で
数分おきに侵入してきます。


東峯神社ー26
東峯神社ー23
東峯神社ー19

本来ならば空の安全を祈願する象徴的な神社として、人々の信仰を集めたであろうに、
何の因果か、空港敷地内にポツンと取り残され、訪ねる人もいない「東峰神社」。
境内に咲く山茶花の花が健気に咲いています。


東峯神社ー32


             ※ 東峰神社 成田市東峰
                空港第2ビルから千葉交バス 栗源行き 新田下車徒歩2分
                空港第2ビルから徒歩約45分
                バスは本数が少なく、徒歩では歩道が整備されていないので、
                車で行かれることをお勧めします。  特に駐車スペースは
                ありませんが、何とか2台程度は止まれます。



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遠山村の寺社 | 08:51:06 | トラックバック(0) | コメント(4)
国道脇に千年の歴史が眠る、円融寺
円融寺ー1

「円融寺」は寺台インターのすぐそば、交通量の多い国道51号線沿いにあります。
天台宗のお寺で、山号は長栄山。
ご本尊は「釈迦如来」です。


円融寺ー4

『「千葉県印旛郡誌」では永禄十一年(1568)の開祖としているが、「佐倉風土記」には
「永観中、顗栄法印開基」とあり、このことから、平安時代中期の永観年間(九八三~八五)
に、顗栄なる僧によって開基されたが、一時衰微し、永禄十一年に中興開山となったものと
考えられる。』

(「成田 寺と町まちの歴史」 聚海書林 小倉 博 著 P267)

古いお寺はたくさんありますが、千年の歴史があるお寺となるとなかなかありません。
江戸時代には近隣に多くの末寺を有していたようで、土屋の薬王寺もこの寺の末寺です。
 薬王寺 ⇒


円融寺ー2

門前に並ぶ墓石や石仏群。


円融寺ー3

この如意輪観音様はお顔がありません。
削られたのか、風化で欠落したのか・・・。
元禄十一年(1698年)と記されています。


円融寺ー5

境内に入ってすぐ左に建っている宝塔。
相当古いもののようですが、残念ながら文字は読めません。


円融寺ー6

この手水盤も古そうですが、年代は分かりません。


円融寺ー7

この「讀誦普門品供養塔」には一萬巻とか六十六巻とかの巻数がありません。


円融寺ー10
円融寺ー9

小さな板碑が並んでいます。
私には読めませんが、種字が刻まれていて、何やら由緒ありそうなので帰宅後調べました。

『本堂の手前左側に、元徳三年(1331)銘と暦応四年(1341)銘の下総板碑が建っている。
元徳三年のものは、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の弥陀三尊(「阿」を入れないで読む
ことが多い)の種字を刻んでいることから、弥陀三尊種字板碑と呼ばれる。一方、暦応四年
のものは阿弥陀如来の種字だけなので、弥陀種字板碑となる。』

(「成田の史跡散歩」 崙書房出版 小倉 博 著 P267)


円融寺ー11

2基の板碑の奥には「奉讀誦普門品一萬巻」の石碑が建っています。


円融寺ー17

板碑に並んで立っているこの仏様は宝永年間(1704~10)に造られたものです。


円融寺ー8

板碑の裏側の木陰にはひっそりと立つ菩薩像がありました。


円融寺ー12

板碑の向かい側にある小さな池。


円融寺ー14
円融寺ー24

本堂には目立った装飾はありません。
この本堂に納められているご本尊の「地蔵菩薩像」に関して、興味ある記述を見つけました。
『「年代日記」という古書に、同寺の地蔵菩薩像は江戸の真田采女の守り本尊で、
宝永年間(一七〇四~一一)に采女逝去のとき、円融寺住職定順が有縁の衆なるに
より同寺に収まったもの、といった記載がある。』
『この真田采女とは、一〇〇〇石の旗本真田信音で、真田幸村の兄で関ヶ原の合戦
の折に徳川方についた真田信之の、曾孫にあたる人物である。』

(成田の史跡散歩 小倉 博 著 倫書房出版 P266)

歴史は意外な人物や事件を結び付けてくれます。


円融寺ー15

墓地の一角に「竪者~」と刻まれた墓石群がありました。
この「竪者」(りっしゃ)という呼称は土屋の薬王寺にもありました。


円融寺ー18

右の仏様の制作年代は分かりません。
左の「馬頭観世音菩薩」は享和二年(1802年)の制作です。


円融寺ー22
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・円融寺ー23
国道に面していますので車が引っ切り無しに通ります。
寺台インターを佐原方面に向かう下り口のすぐそばにあり、何本もの道が交差する
場所のため、歩くには注意が必要です。


円融寺ー20
円融寺ー21

国道の騒音が届かない本堂奥の墓地には赤トンボが群舞しています。
千年以上の長い歴史が眠っている円融寺ですが、その歴史を感じさせるものが
意外に少ないお寺でした。


円融寺ー25



             ※ 「長栄山円融寺」 成田市山ノ作1091
               京成成田駅より千葉交通バス 佐原粉名口行き 山ノ作下車2分



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遠山村の寺社 | 07:19:03 | トラックバック(0) | コメント(0)
大山神社はモダンな社殿
大山神社ー1

295号線を空港に向って走ると、高速の入り口近くにチラリと神社らしきものが見えます。
モダンな建物の「大山神社」です。

大山神社ー2

立派な石の鳥居は昭和56年に建てられたものです。


大山神社ー3

大山神社は貞観二年(860年)に創建され、その後焼失したものの
万治二年(1699年)に再建されました。
昭和46年に東関東高速道の空港線工事のため移転となり、
この社殿は昭和47年に竣工しました。


大山神社ー4
大山神社ー5

狛犬の表情も何んとなく現代風?



大山神社ー6

この石灯籠は文化五年(1808年)のもので、境内では年代を感じさせる
数少ないものの一つです。
文化五年は、間宮林蔵が間宮海峡を発見した年です。


大山神社ー7

境内の右端に並ぶ「愛宕神社」「疱瘡神社」「子安神社」「天神神社」「熊野神社」。
大正3年に合祀されたものです。
石灯籠とともに、旧神社から移設されたようです。


大山神社ー8

手水盤には安永八年(1779年)と刻まれています。

石灯籠とこの手水盤が歴史を感じさせてくれます。


大山神社ー9
大山神社ー10

社殿はコンクリート製で、天窓がついていたりして、およそ神社とは思えない造りです。


大山神社ー18
大山神社ー17

厚いガラス戸に仕切られて、中は良く見えません。
奥に見えているのが本殿なのでしょうか?

ご祭神は「高産靈命(たかみむすびのかみ)」です。
この神様は「創造」を司る神様です。


大山神社ー15

30坪程度の境内には数本の木が植えられています。
これは平安枝垂桜です。


大山神社ー21

一番大きな木がこのシイノキです。


大山神社ー12

鳥居の直ぐ下は高速の空港道料金所です。
相当の高低差がありますので、車の音はほとんど聞こえません。


大山神社ー13

料金所の向こうは「ゲートウェイ・ホテル」です。

大山神社ー16

石灯籠の先にチラッと見えるのが「成田ビューホテル」。
空港の開港前から営業している大型ホテルです。

大山神社ー20

社殿の先に見えるのが「ヒルトンホテル」。

大山神社ー11

鳥居越しに見えるのは「エクセルホテル・東急」です。

ここは大型ホテル銀座の真っただ中です。


大山神社ー14

大山神社の周辺には人家はありません。
ここも空港建設の影響で、住民との絆が切られてしまったようです。

らしからぬ社殿は、狭い土地を有効に利用する知恵だけではなく、
開発に追い立てられる氏子の抵抗のような気もします。


大山神社ー22


                ※ 「大山神社」 成田市大山1-1
                  JR成田駅よりJRバス三里塚行き、八日市場行きで
                  法華塚下車 徒歩約10分                   
                  車では東関東自動車道成田インターを出て直ぐ左折




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遠山村の寺社 | 17:19:45 | トラックバック(0) | コメント(2)
謎の多い側高神社
取香ー9

取香の「側高(そばたか)神社」を訪ねます。
空港のゲートの手前左側にあり、空港への通勤者以外は人通りのないところです。
ここは道路から一段高いところにありますので、車で通る人には社殿が見えません。


取香ー6
                             取香ー8

東関東道や国道51号線方向から車で空港に入るにはここを通過します。
空港ゲートの中で一番忙しいところです。


取香ー11
取香ー12

「三里塚街道を往く(その壱)」で紹介した「側鷹神社」とは同じ“読み”でも字が違います。

石塔には「側高神社」となっていますが、なぜか拝殿の掲額は「側鷹神社」となっています。
一説には“鷹”が正しいとも・・・。
ご祭神も分かりません。
一説には「側高大神」とも・・・。
佐原の「側高神社」をはじめ側高神社ではご祭神を教えてはいけないとされているようで・・・。
何か謎めいた神社です。


取香ー13

本殿の作りも立派です。


取香ー20

「取香の三番叟(さんばんそう)」の説明板がありました。
もとは歌舞伎の三番叟に起源するもので、白髭の翁、冠の千歳、黒面のデク(三番叟)の
三人で舞う五穀豊穣を願う郷土民俗芸能です。

三番筝3
            千葉県教育委員会ホームページより転載  
             http://www.pref.chiba.ig.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/p321-054.html

現在は毎年4月の第1日曜日に行われる行事ですが、
お面の箱書きに天保十一年(1840年)とあるそうなので、
少なくともそれ以前から行われていたようです。


取香ー16

庚申塚には安政五年(1858年)と記されています。
側面には「さくら」「なめ川」の文字が見えます。
ここに移設される前は道標を兼ねていたのでしょうか、めずらしいものです。


取香ー17

石尊大権現には左右に「大天狗」「小天狗」と彫られています。
どんな意味があるのか興味津々ですが、これも宿題です。
側面には安政六年(1859年)と記されています。

※ 神奈川県伊勢原市にある「大山阿夫利神社」への参拝記念碑でした。(2015.7.28)


取香ー18
                       取香ー19


取香ー15
取香ー14

いろいろと分からないことの多い神社です。
じっくり時間をかけて調べてみたくなりました。

この神社は昭和48年に東関東自動車道の工事のため
この場所に遷座されました。

それにしても不便な場所です。
氏子と切り離された場所で寂しくたたずむ様は、小菅の側鷹神社と同じです。
現在と将来にとって必要なこととは言え、空港関連の工事は、
この地域の歴史と風俗に少なからぬ影響を与えています。

新しい場所での時間が、この神社のような歴史あるものに、
静かな落ち着きを取り戻させることを祈るばかりです。


             ※ 側高神社  成田市取香276
               空港第2ビル駅から徒歩約12分。京成成田駅からサークルバスで
               成田東武ホテルエアポート下車(約30分)、徒歩3分。



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遠山村の寺社 | 21:25:48 | トラックバック(0) | コメント(0)