
「稲荷神社」のご祭神は「倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)」。
古社名は「稲荷大明神」。
倉稲魂命は日本書紀に登場する神で、古事記では宇迦之御魂神(ウカノミタマノカミ)として
記されています。
前回に訪ねた「羽黒神社」と同じご祭神で、穀物の神様です。
伏見稲荷大社の主祭神であり、稲荷神(お稲荷さん)として広く信仰されています。

石段下の斜面に立つ「青面金剛」(庚申塔)。
享保十六年(1731)のものです。

石段下の斜面には「道祖神」もあります。
宝暦八年(1758)と記されています。


石段は折れ曲がって上へと続いています。

台輪鳥居には控柱が付いています。

鳥居の下に置かれた手水鉢には明和六年(1769)と刻まれています。

『稲荷神社は赤荻地区の鎮守で、ご祭神は穀物の神で知られる倉稲魂命である。創建年代
は不詳であるが、村人が京都の伏見稲荷大社から勧請したと伝えられる。』
(「成田の史跡散歩」 P274)
以前、野毛平の「鎮守皇神社」が村人によって勧請された珍しい例と紹介しましたが、良くある
ことなのかも知れません。
また、「成田市史近代編史料集一」に収録の「下総國下埴生郡赤荻村誌」には、
『境内二百四坪、祭神大山祇女尊、倉稲魂命 土祖神三座、創建詳カナラス。社格村社。』
とあります。
「大山祇尊(オオヤマツミノミコト)」は良く見聞きする名前ですが、「大山祇女尊」という神様は
初めて聞く名前です。
「オオヤマツミメノミコト」というのでしょうか、名前からすると女神のようです。
「オオヤマツミ」とは「大いなる山の神」という意味で、男神とされています。
「山の神」とは、普通、女神を指す言葉であることと、日本書記には「オオヤマツミ」が女神と
読めるところがあるという説もありますが、一般に広く知られている「大山祇尊」の名前に、
わざわざ「女」と入れる必要があるでしょうか?
「大山祇尊」について調べるうちに、その娘の「石長姫(イワナガヒメ)」に関して興味深い
ことを見つけました。
「石長姫」は妹の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)とともに、天孫降臨の物語で知られる
邇邇芸命(ニニギノミコト)に嫁いだものの、容姿が醜いという理由で帰されてしまった姫で
すが、この姫をご祭神とする数少ない神社の中で、奈良県にある「伊波多神社(いはたじん
じゃ)」に関連して「大山祇女石長姫」の名前がありました。
この神社の現在のご祭神は、「伊波多神」なのですが、明治3年(1870)の「大和國大小
諸神社名記並縁起」にはご祭神を「大山祇女石長姫」と記しているのです。
「赤荻村誌」にある「大山祇女尊」とは、「大山祇女石長姫」のことではないでしょうか?
滋賀県草津市の「伊砂砂神社(いささじんじゃ)」では「岩長比賣命」、静岡県松崎町の「雲見
浅間神社(くもみせんげんじんじゃ)」では「磐長姫尊」、茨城県つくば市の「月水石神社(がっ
すいせきじんじゃ)」では「磐長媛」と書きますが、いずれも「石長姫」と同一神です。

神額には「正一位稲荷大明神」と記されています。
人に対する位階は正一位以下30階ありますが、神社に対する神階は15階で、最下階は
正六位となっています。
嘉祥四年(851)に全国の神社のご祭神に対して、正六位以上の神階が贈られたためです。
神階は分祀された神社には与えられませんが、次第に律令制の効力が失われるにつれて
勧請元の神階を名乗る分祀先の神社が現れました。
特に稲荷神社ではこの例が多く、「正一位」は稲荷神社の別称と言われるほどです。


流造りの本殿にはいくつかの掲額がありますが、いずれも色褪せて、「額に入った板」でしかない
状態になっています。



そんな中で、一枚だけ何かが描かれた跡が見えました。
アップして見ると、どうやら昔の稲荷神社の絵のようです。
社殿や鳥居が見え、一部民家の屋根も見えています。
人影のように見える白い部分には何が描かれていたのでしょうか?
人にしては、周りとのバランスから大きすぎます。

本殿の右奥の鞘堂に守られたお堂。
境内には多くの石祠があります。
『境内にはほかの場所から移された一〇数基の小祠が合祀されているが、この合祀は
明治四二年(一九○九)と大正初期に行われたものである。』
(「成田の史跡散歩」 P274)
拝殿・本殿の周りを時計回りに見てみます。











『小祠のうち、拝殿に向かって一番手前の左側の石宮をしゃあぶき爺さんといい、右側の
石宮をしゃあぶき婆さんという。ほかの小祠は羽黒神社とか熊野神社のように社名がある
が、しゃあぶき爺さん・婆さんはおもしろい。「咳く(しわぶく)」から付けられてように両方とも
咳の神様といわれ、咳の出る人は、ここに香煎を供えると咳が止まるとされる。』
(「成田の史跡散歩」P274)
上の写真の一番目が「しゃあぶき爺さん」で十一番目が「しゃあぶき婆さん」のようですが、
他の祠と同じように見えて、特徴はありません。
※ 十番目と十一番目の祠が同じ写真だとのご指摘をいただき、差替え修正しました。
確認ミスをお詫びいたします。 ご指摘、ありがとうございました。


石段を下りて神社の山裾を少し廻ったところに、文化十四年(1817)の庚申塔と、年代不詳の
十五夜待塔がありました。
庚申塔は斜面を見上げる位置にあり、十五夜待塔は足許の草むらに埋もれていて、注意して
歩かないと見落としてしまいます。



「稲荷神社」の森は鬱蒼として、ひんやりとした空気が流れています。
「赤荻村誌」には、村内にある神社として「稲荷神社」の他に五社を記しています。
『愛宕神社 弐拾四坪 香取神社 七拾貮坪 浅間神社 五拾六坪
熊野神社 五拾四坪餘 羽黒神社 七拾坪餘 』
どれも小さな神社ですが、これらは全て村誌が編さんされて以降、稲荷神社に合祀され、
先ほどの石祠群となったようです。

※ 「稲荷神社」 成田市赤荻 1