
「大慈恩寺」は真言宗の寺院で、山号は雲富山。
ご本尊は「清涼寺式木造釈迦如来立像」で、明応四年(1495年)の銘があります。
天平宝字五年(761年)に唐よりの帰化僧、大律師・鑑真が開いたと伝えられています。
大伴家持が万葉集を編纂したのが天平宝字三年ですから、
実に長い歴史を重ねてきたお寺です。
当時は「慈恩寺」と称していましたが、鎌倉時代に荒れ果てたこの寺を
地元の豪族・大須賀氏が復興しました。
『南北朝時代の1341(暦応4)年、足利直義は慈恩寺を祈願所とし、
下総国の利生塔を置き、寺領とは別に料所を寄進した。1391(明徳2)年には
後小松天皇から「大」の字を賜り、以後、慈恩寺から大慈恩寺と称するように
なったとされる。』『1590(天正18)年に大須賀氏は滅んだが、翌年には
徳川家康から朱印地20石の土地を与えられ、以後、幕末まで朱印地として
継続した。』( 「成田の地名と歴史」 2011年成田市発行より)

質素ですが、しっかりした山門です。


山門の手前左に「観世音菩薩」の石碑と小さな仏様の石碑が並んでいました。
小さな仏様は夏草に埋もれていますが、寛政七年(1795年)と記されています。
石碑の横に地蔵堂が建っています。



勅使門です。
天皇の使者のみがこの山門をくぐることができます。
雲富山と書かれた掲額が見えます。


勅使門の下には小さな池があり、中の島には弁財天が祀られていました。
石橋を渡るとき、驚いた大きなカエルが茂みから飛び込み、泥の中に潜るのがみえました。

山門から境内に入り、閉まった勅使門の内側に立つと、
本堂へまっすぐに石段と石畳の道が延びています。


道の左側には利生塔跡があるのですが、残念ながら夏草に覆われて見えません。
利生塔は足利尊氏・直義の兄弟が、元弘以降の戦死者の冥福を祈って暦応四年(1341年)
に建立したものですが、明治35年の暴風雨で倒壊してしまいました。

綺麗な蓮の花が咲いています。


本堂の前には空海(弘法大師)の像が建っています。


板碑が並んでいます。
近隣からも集められた板碑の中で最も古いものは、元徳二年(1330年)のもので、
暦応、貞和の年号がかろうじて読むことができました。


本堂の裏手の崖から清水が湧き出しています。
池には見事な鯉が悠然と泳いでいます。
池の対岸に石仏がたくさん並んでいるのが見えます。

四国札所の名前が記されてます


一隅に古い墓石が並ぶ墓地があります。
正徳、宝永、天明、弘化、寛政、享保などの年号が読めました。


不思議な洞窟を見つけました。
5メートルほど先を左に折れて彫られているようです。
何やら祭壇のようなものが見えるのですが、足元には水が溜っていて入れません。


境内の右奥にある鐘楼です。
鐘は青銅製で、延慶三年(1310年)の銘が入っています。
『銘文の2行目には「開山往持比丘真源書」とあり、大慈恩寺は鑑真によって
開かれたという寺伝を有するものの、実際は律宗僧の真源を開山として
鎌倉時代に創建された寺院であったことを明らかにしている。』(「成田の地名と歴史)
ここでは鑑真により開かれたというロマンは否定されましたが、
この寺院が歴史に彩られた名刹であることには変わりありません。
歴史上の事実は事実として、伝説としてのロマンは残しておきたいものです。
千数百年も前のことなのですから、どんなに資料を精査しても、
本当のことは分かりませんよね。



寺の周りは鬱蒼とした森です。
幹線道路からは外れた山中にあるこの寺を訪ねる人はほとんどいません。
歴史を抱えて静かに佇む「大慈恩寺」には、
探ればまだまだ歴史の不思議が隠れているような気がします。
※ 大慈恩寺 成田市吉岡183-1
京成成田駅より千葉交通バス 吉岡・佐原線
吉岡大慈恩寺前下車 徒歩5分