
「神光寺」は天台宗のお寺で、山号は「天照山」。
江戸時代には「鎮守皇神社」の別当でした。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、この「神光寺」について、こう書かれています。
『二寺アリ。一ヲ神光寺ト云ヒ、村ノ稍中央ニ位シ、地坪四百一坪、天台宗天照山ト号ス。
同郡山之作村円融寺ノ末派ナリ。開基創建何レノ年号月日ナルヤ詳ナラス。』
(成田市史 近代編史料集一 P267)



静かな山道に人の気配は全くありません。
木々の合間に見えているのは、前回紹介した「皇神社」です。


宝珠も錫杖も、頭さえもかけてしまった石仏は、誰かが間に合わせで載せたセメントの頭で、
それでも一人すっくと立っています。


ーーーーーーーーーーーー

境内左手に並ぶ二つのお堂。
石仏の一つの台座には、文政十年(1827)と「大師遍照金剛」の文字が見えます。
遍照金剛(へんじょうこんごう)とは大日如来のことですが、弘法大師を指すこともあります。
良くお遍路さんの背中にこの文字が書かれています。


境内、本堂ともに荒れています。
もう大分長い間、人の手が入っていないようです。
「成田市史 中世・近世編」には、「神光寺」について次のように記しています。
『野毛平村の神光寺は天照山と号し、本尊は阿弥陀如来である。鎮守皇神社(神明宮)の
別当寺であるため、同神社境内に本堂と薬師堂を置いていた。創建など明らかでないが、
寛文六年(一六六六)の神社再建時の棟札に「再造天照太神宮社一宇 香取郡大須賀庄
野毛平鎮守 地頭松平民部正 当時社務別当神光寺現住寛乗」と、寺名と住職寛乗の名前
がみえる。』
『なお、棟札にある「地頭松平民部正」とは、当時野毛平村の領主であった旗本松平(形原)
民部少輔氏信のことである。天保六年(一八三五)本堂を再建した。』 (P781)
創建年代が不詳とは言うものの、少なくとも350年以上の歴史はあるわけです。

本堂正面の軒下に小さな鐘が吊るされていました。
埃にまみれて刻まれた文字はほとんど読めませんが、「昭和四十九年」の銘は読めました。



藪をかき分けて本堂の裏手へ回ろうとしましたが、密生する竹に阻まれて進めません。
荒れるにまかせた本堂の内部にも、竹が伸びていました。



本堂の左奥に並ぶ、古い墓石には、元文、享保、安永、天明、天保などの年号が見えます。


竹やぶの中に「如意輪観音」を見つけました。
この寺の荒れようを見ても、かすかに微笑む穏やかなお顔の横には、元文元年(1736)
丙辰と記されています。
280年前のこの観音様の前からは、掃き清められた境内が見渡せたはずです。

良く見ると、ツタに覆われた墓石が散在しています。


この石塔には「馬頭観世音」と刻まれています。
「馬頭」は、諸々の悪を下す力を象徴していて、煩悩を断つ功徳があるとされていますが、
「馬頭観音」をその馬頭という名前から、馬の守護仏とする民間信仰があります。
『神光寺にあった観音堂は、のちに香取神宮のご祭神となる経津主大神が、東征のため
この地を通ったとき、長旅の疲れで愛馬が死んでしまったのでその霊を祀ったところと
いわれている。』 (「成田の史跡散歩」 P271)
村人たちは一本の松を植えて白馬を葬りましたが、年月を経て松が立派な木になったころ、
樹上から悲しげな馬の嘶きが聞こえることがありました。
村人たちは白馬が香取に去った経津主大神を呼んでいるのだろうと、たいそう憐れんで、
その松を「馬嘶の松」と名付けた、という話も、「成田 寺と町まちの歴史」(小倉 博 著)に
紹介されています。
石塔はこの伝承と関わりのあるものなのでしょうか?
周りを見渡してみても、境内には松の木は見当たりませんでした。
松虫姫に置いて行かれた牛の物語や、この白馬の物語は、何とも不憫な思いがします。
時の彼方の姫と牛 ☜ ここをクリック

境内から道に出て、更に奥に進む途中に、「奉敬 待庚申開眼供養」と刻まれた石塔が
建っていました。
「明和八年 別當神光寺」と記されています。
明和八年は、西暦1771年になります。

訪ねる人の無いお寺が荒れて行くのは寂しいものです。
“時の流れだ・・・”、“過疎化のためだ・・・”とは言っても、かつてここにお参りし、説法を聞き、
送り、送られした人たちの“想い”が、まだこの場所に漂っているような気がします。

※ 「天照山神光寺」 成田市野毛平497
おっしゃる通り、最近は檀家の減少、宗教離れから、維持が難しくなるお寺が多く見られます。
寂しいことですが、これも時代の流れなのでしょう。 檀家でなくとも、興味を持ってちょいと
覗いて御賽銭・・・でも、少しは足しになるかも知れません。
応援しておきました。ポチッ
コメントをありがとうございます。
昼間でも恐いくらいですから、夜などとてもとても・・・。