前回訪ねた「自性院」で見た「十三仏」のつながりで、「芦田の十三仏」を探しました。

土室街道の「芦田入口」バス停の傍に「芦田入口」と書かれた標識が立っています。
芦田の「八幡神社」を過ぎ、さらに曲がりくねった芦田の細い山道を進むと突然右手に
石仏群が現れます。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


頭の欠けた石仏には、新たにどこかで見たようなお顔が乗っています。

ここは芦田の共同利用施設になっています。
道から見えた石仏群は、施設への階段に沿って並んでいます。

共同利用施設の左手に祠が2つ。
埃にまみれた仏様


祠の中には新旧入り混じっていろいろなものが入っています。

傍にはたくさんの石仏が無造作に置かれています。

寛政十二年(1800年)の子安観音。
十五夜講と刻まれています。

この石仏は風化と損傷が激しく、上部が欠損しているため紀年銘が読み取れません。
なんとか「●暦(?)三癸酉七月」と読めたような気がします。
とすると、年号は明暦か宝暦だと考えられます。
明暦三年(1657年)は丁酉、宝暦三年(1753年)は癸酉ですから、読み方を間違えて
いなければこの石仏は宝暦三年のもの、ということになります。

この板碑には種子のようなものが彫られているように見えますが、風化ではっきりとは
分かりません。



一番奥にある祠には、古い仏像や奉納物が詰め込まれ、物置のような状態です。

共同利用施設の裏手に回ると、置き忘れられたような小さな墓地があります。
ここは昔、天台宗の「証明寺」というお寺があった場所で、明治の初めにお寺が廃寺に
なった後、お墓だけが取り残されたのでしょう。
宝永、明和、文化、文政などの古い墓石の中に、比較的新しい昭和2年の墓石がある
ので、墓地としてはしばらくの間利用されていたようです。

墓石の中に紛れるように十三仏がありました。


「西国」「秩父」「坂東」「百番」などと刻まれた中に、「先祖代々供羪塔」の文字も見えます。
寛政四年(1792年)の紀年銘があります。
一番上には、他の像より一段大きい「如意輪観音」が彫られています。
「芦田の十三仏」と呼ばれてはいますが、「十三仏」は前回の「自性院」の項にあるように、
不動明王・釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩・ 地蔵菩薩・弥勒菩薩・薬師如来・観音菩薩・
勢至菩薩・阿弥陀如来・阿閦如来・大日如来・虚空蔵菩薩ですから、明らかに違いますね。
小泉の自性院と十三仏 ⇒




これは「十三仏」ではなく、富里市の高野にあるものと同じ「六観音六地蔵」ですね。
六観音は、千手観音、聖観音、馬頭観音、十一面観音、如意輪観音、准提観音(天台宗
では不空羂索)で、六地蔵は、檀陀菩薩、宝珠菩薩、宝印菩薩、持地菩薩、除蓋障菩薩、
日光菩薩となります。
それぞれの像は簡略化されていますので、分かりにくいのですが、一列目の「馬頭観音」
や「十一面観音」などは分かります。
人々がその「業(ごう)」によって六道(天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)
を輪廻する苦しみから救済するために、六道に六観音と六地蔵を配したものです。
「成田の史跡散歩」の小倉 博氏は、ここが天台宗の寺院の跡であることから、「六観音に
不空羂索観音を加えて七観音にしたのではないか」と推測されています。
つまり、この石塔は「七観音六地蔵」と言うわけです。

ここに「証明寺」があったのでしょうか。
墓地の先には草地が広がっています。
「成田市史 中世・近世編」の「近世成田市域の寺院表」に、「天台宗 芦田村 証明寺
本寺は西和泉村城固寺 明治初年廃寺」の一行がありました。
寺が無くなってからそろそろ150年、取り残された石仏や墓石はどんな思いでこの時間を
過ごしてきたのでしょうか・・・。

※ 「証明寺跡(七観音六地蔵)」 成田市芦田1562
成田市コミュニティバス大室循環コース(赤萩経由)
芦田入口下車徒歩約 30分 駐車スペース有
(道が狭いため車は注意して走行してください)