
「城固寺(じょうこじ)」は元亨二年(1322年)に創建された天台宗のお寺です。
山号は「大泉山」、ご本尊は「阿弥陀如来」です。

山門の手前に一体の石仏が坐っています。
文化十一年(1814年)と記されていますが、何の仏様かは分かりません。


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「戦捷(せんしょう)=戦いに勝つ」と「紀念(記念と同意ですがもう少し深い“想い”のような
ものが込められていると私は思っています)」と刻まれた門柱。


境内にある平成8年の「本堂新築記念碑」に記されたところによれば、
「大泉山城固寺は天台宗に属し、その創建は後醍醐天皇の御宇元享二年(一三二二年)
良範僧正によると伝えられ、天正十年、元禄八年、享保十七年に夫々修繕されたが、
明治十二年七月の火災によって全院と古文書類焼失明治十六年(一八八三年)僧英純が
再建、本堂四十七坪、庫裡三十坪長屋十二坪の地方有数の伽藍となったが昭和十九年
末の米軍機本土空襲の際その犠牲となり全棟が灰燼に帰した。爾後度々再建の議が
興ったが戦後人心混乱期に当り延引したが去る平成四年住職の発願、法類諸寺院住職
の推奨と檀徒内有識者の懇願によって、再建新築の議興り同五年頭初建設委員会が
結成され委員各位の懸命な努力と檀徒の強力な支援のもとに・・・」
平成8年に新本堂が完成しました。
米軍機による爆弾投下が、こんな山中に行われるわけは無く、東京に落としそこなった
爆弾を適当に捨てたものが、たまたまこの寺を直撃したのでしょう。
余談ですが、当時の爆撃機は(今でも同じかも知れませんが)、目標の周りを旋回して
爆弾投下をするのではなく、目標上空を一直線に飛行して投下し、そのまま帰投します。
目標を通過しても投下し切れなかった爆弾は帰投途中で放棄するのが常でした。


本堂の左手には池があり、池に注ぐ水路が本堂の裏手へと延びています。


水路を辿って行くと、裏山の斜面から水が落ちています。
少量ですが、糸のように流れ落ちているのが見えます。
この寺の「大泉山」の山号はここから来ているのでしょうか。

湧水の多い土地のようで、すぐ傍にももう一か所水が浸み出している場所がありました。

本堂の陰になって見えない場所で、梅が満開になっています。

池の縁や周りには趣のある置き石や灯篭が配され、とても落ち着いた雰囲気です。

境内の外、小高い場所に墓地があります。
享保、寛政、弘化、嘉永、天保などの墓石の中に、竪者(りっしゃ)や大阿闍梨(だいあじゃり)
などの文字が見えます。
いずれも激しい修行を修めた高僧のお墓で、同じ天台宗の「薬王寺」にも多くの同様なお墓
がありました。
薬王寺 ⇒

山門に続く道端に小さな塚があり、百日紅の大木の下に小さな祠がありました。
近づいてみましたが、文字らしきものは見えません。

山門から50メートルほど手前のT字路に「一石一字塔」と刻まれた石塔があります。
これは「一字一石塔」とも呼ばれるもので、小石に経文の一字ずつを書写して地中に埋め、
その上に石塔を建てたものです。
埋経(まいきょう)と言われるもので、前述の土屋の「薬王寺」にもありました。



城固寺とは山を挟んで背中合わせの場所に「住吉神社」があります。
社殿に向かうには、「一石一字塔」の先の畦道から回り込まなければなりません。
せっかくですから86段の石段を登ってお参りしましたが、狭い境内には社殿の他には
何もありませんでした。


茨城の稲敷にある「逢善寺」を本山とする「城固寺」は、江戸時代には多くの末寺を持って
いましたが、そのほとんどのお寺が廃寺となり、今では赤荻の善福寺のみが残っています。
「成田市史 中世・近世編」中の「近世成田市域の寺院表」には、「城固寺」の末寺として
西和泉の「守泉寺」、赤荻の「善福寺」、同じく「吉祥院」、水掛の「正寿院」、芦田の「安養寺」
同じく「証明寺」の6寺が記載され、「吉祥院」が弘化四年の火災による焼失以降再建されず
に廃寺となったものを始め、「善福寺」以外には全て廃寺と記されていました。
裏山の山裾から清水が湧きだす「城固寺」。
前面に広がる山里と織りなす風景は、心休まるものがあります。

※ 「城固寺」 成田市西和泉41-2
JR久住駅より徒歩約30分
成田市コミュニティバス 大室循環コース 赤荻経由で
東和泉青年館下車 徒歩2分 駐車場なし