
通りから長く急な石段が伸びています。
この辺りは急坂が続き、その坂のさらに上に「能満寺」はあります。

石段下に立つ正徳五年(1715年)の「題目塔」。
風化・摩耗もなく、300年も前のものとは思えません。
「南無妙法蓮華経 奉唱玄号 三万部成就」と刻まれています。

石段の途中から山門が見えてきます。
この石段は91段ありました。

石段を登ったところにある2基の題目塔。
いずれも風化が進んでいますが、左は文化十二年(1815年)のもので、「南無妙法蓮華経」
と読めます。
右は「寛永」の年号以外はほとんど読めませんが、かろうじて「部」という文字が読めますので、
奉唱供養塔なのではないでしょうか。


山門と見えたのは、堂々たる鐘楼門でした。
天保九年(1838年)の建立で、山門の上部は鐘楼となっています。
説明板には構造について詳しく書かれています。
「入母屋造り、銅板瓦棒葺の四脚門で扇棰の二軒、妻飾りは虹梁蟇股式である。
平面プランは桁行三・四八m、梁間三・四九mとし、主柱、控柱は円柱で、腰貫、
虹梁、台輪で結架し、柱上は和様の三手先斗栱をつけ、上層の回縁を支え、象鼻
を飾る。表側左右の柱を結ぶ虹梁の上部に頭貫、台輪、中央に三手先斗栱、梁蟇
を具える。上層は円柱に長押、台輪で結架し、周囲に回縁、和様の高欄がつく。
柱間には中央に双開扉、左右は格子窓とする。」(以下略)

四脚門とありますが、実際には六脚あります。
私の数え方に問題があるのでしょうか?
※この件についてメールをいただきました。
門柱が二本で、控柱が左右に二本ずつ、計四本あるものを四脚門と言うことが分かりました。
すっきりしました。ありがとうございました。(4/2記)
鐘楼部分の方が大きい造りになっていますが、吊り下げられた梵鐘の重みで安定を保つ
ように設計されています。
戦争中に梵鐘が供出された後は、梵鐘と同じ重量の石が吊るされているそうです。
一見とても不安定な建造物に見えますが、関東大震災にも、東日本大震災にも耐えた
ということは、よほど綿密な設計と丁寧な施工が行われたのでしょう。
「天保九年(一八三八)九月二十六世日温の時代に建てられたもので、棟梁は村内の
及川半兵衛であると伝えられ、同家の墓石に、次のように刻まれている。『当山鐘楼門者
師龍牙院日温聖人之再建而 棟梁者父円珠院誠貞日敬也 依修復料嘉永四年三月
金子拾両納之』」 (「多古町史 上巻 P900)
墓石に刻まれている嘉永四年は1851年、鐘楼門が建立されたのは天保九年(1839年)
ですから、半兵衛には建築後も修復の依頼があったのでしょう。
残念ながら及川半兵衛の記録は他に見当たりませんが、知られざる名工と言えるでしょう。
180年後の今も堂々と立つ鐘楼門を見たら、彼はどう思うのでしょうか。

境内左手の「稲荷神社」。


「能満寺」は山号は「勝栄山」。
日蓮宗のお寺で、天文五年(1536年)の開創とする説と、天正三年(1575年)とする
二説があります。
「多古町史 上巻」に記載されている開創に関する二説資料を紹介しておきましょう。
一つは明治初期の「寺院明細帳」で、
千葉県館下下総国香取郡東松崎村字戸ノ内
千葉県下安房国長狭郡小湊村誕生寺末
日蓮宗 能満寺
一、 本尊 釈迦牟尼仏
一、 由緒 当寺開山日運聖人コトハ安房国長狭郡小湊村平民正木左近太夫舎兄、
同国同郡同村誕生寺住職日境聖人ノ徒弟ニシテ日運ト云フ、天文五丙申年
(一五三六)四月当地方ニ来テ旧故妙正庵ト云フ之ニ付、天文五丙申年八月
九日一箇寺創立スト、只古老ノ口碑ヲ記載スルノミ 以上
一、 堂宇間数 本堂縦七間半横五間半、庫裡縦九間横五間
一、 境内坪数 千三百五坪持主能満寺
一、 境内仏堂 無之 建物鐘楼門縦二間横二間
一、 境内庵室 無之
一、 境外所有地 耕地段別壱町壱畝四歩
山林段別三反三畝廿八歩 (P899)
そしてもう一説は「過去帳」にある記述で、
「天正三年(一五七五)十一月当山開基勝栄院日運聖人、房州加茂日運寺ト当寺両寺一寺
也日運トハ房州正木大膳太夫也、正木左近太夫ノ舎兄也、御知行所松平左門殿領分加茂
日運寺ヨリ引キテ山ヲ開キシ寺号也、両山一寺ノ証文廿二世本山日明師御本尊ニ有也、同
廿四世映師ノ御証文別ニ有之、並ニ永聖ノ証文有之宝凾ニ収ム(両寺一寺ハ十代心常院
日行聖人迄続ク十一世要善院日円聖人当能満寺中興サル)」 (P899)
これらの資料では、開創年代の違い以外に、開創してしばらくの間は、房州加茂の日運寺と
「両山一寺」の関係であったという興味ある記述が見えます。

開放的な本堂のガラス越しに、ご本尊(?)が見えます。
失礼して一枚撮らせていただきました。

この手水盤は昭和12年に奉納されたものです。


境内の左手奥に昭和63年に建てられた「水子観音」があります。

墓地には、元禄、宝永、享保、寛保、寛政、文政などと記された古い墓石に交じって、
明治以降の新しい墓石も見えます。

墓地の奥、突き当たりの場所に、「南無妙法蓮華経」と刻んだ題目塔を見つけました。
題目の左右に、「當寺 日運聖人 中興■■」「開山 日明聖人 當寺■■」とあります。
注目すべきは側面に記された「天正三亥十一月九日」の文字です。
天正三年(1575年)は、前述した二説ある能満寺開創の年代の一つです。
どうやら「過去帳」にあった天正三年説が有力となってきました。



「日運寺」については、里見家の重臣、正木時道が出家して加茂にあった荒廃した小堂を
再興して「日運寺」とし、自らも「日運」と名乗ったと伝えられています。
そして、ここ「能満寺」は「日運」の隠居所として開かれたとも伝えられています。
立派な鐘楼門に梵鐘が無いのはいかにも残念ですが、鍾銘が「多古町史」に残っています。
「奉造立椎鐘一器勝栄山能満精舎常住
奉慎唱満一切経之惣要一千部成就所
奉自書写超八醍醐妙経十部成弁所
右白福初修志者慈父常徳院妙正日行
悲母清光院妙泉日相擬報恩謝徳者也
為妻女真如院晴月妙林日泉証右菩提
先祖一門法界有無二縁平等抜苦而己」 (P900~901)
宝永三年(1706年)、「江戸神田住粉川丹後守作」と記されていたそうです。
鐘楼門の建立より130年も前に鋳造されたことになります。
勝栄山の文字がありますから、このお寺のために造られたことは間違いないでしょう。
鐘楼門が建立される前にあった鐘楼に吊るされていたものなのでしょうか?
とすると、棟梁の及川半兵衛は、この梵鐘の重量を計算した上で、鐘楼門を安定させる
設計をしたことになりますね。
こう考えると、この鐘が吊るされた鐘楼門を一度見てみたかったな、と思いました。

※ 「勝栄山能満寺」 多古町東松崎1957
多古循環バス 常盤・中ルート 塙坂上 下車 徒歩3分
駐車場なし(裏参道に回って急坂を登れば、かろうじて1~2台分の
スペースがありますが、境内に直接乗り入れる形になります。)