
「大宮大神縁起」とある説明板には以下のように書かれています。
「鎮守の縁起に不詳が多いが、日本開闢は天照大神である。 或る夜不思議の御託宣が
あり、当所の一つの芝原が一夜の中に千本の小松原となった(大同二巳亥年)住民は
村内繁栄の神慮を感じ農業の神とも仰がれている天照大神を伊勢の国より、この地に
勧請し鎮守として本祀する。 今も千本松と言い現在の、社地である。(多古由来記注)
其後新寺御法度に寺号無きは立ちがたき由御触れ相成り俄かに天照山法性寺と書き
改める。 創建は、中世以前と思われる。 明治初年神仏分離により、祭神天照大神は
寺院より分離し通称天照山社名大宮大神となる。」

最近造られた石段の先にちらりと鳥居が見えています。


一の鳥居の先にはまっすぐに参道が伸び、二の鳥居から拝殿までが見渡せます。

手水盤には嘉永元年(1848年)と記されています。
側面には多古藩士を始め、名主や代表者の名前がびっしりと刻まれています。

ここは地元では「てんしょうざん」と呼ばれています。
「多古町名所百選」(平成18年多古町教育委員会発行)では次のように紹介されています。
「多古2572番地に祀られている旧多古村の鎮守である。由緒について「社寺明細帳」には、
祀神天照大神由緒不詳と記されている。城下町らしく、奉納物には藩士の名前が刻まれた
ものが多い。御神体ともいうべき天照皇太神御影軸には、大要次の様に書かれている。
この掛物は文政6年(1823)に再表具したもので、正月祭日と4月のお田植神事の両祭礼日
にだけ別当所に渡すが、その他は御陣屋御宝庫に入置くものである。」 (P51)
さらに詳しく記すと、
「下総香取郡千田庄多古村鎮守、天照皇太神宮御影、去ル文政六癸未歳六月中別当
亮貞日遂代再表具。郡奉行堀口孫左衛門定長、桑尾岡右衛門邦貞、小川五郎治敬義。
代官鈴木助左衛門重政、與風文之亟邦和、五十嵐平左衛門利貞、奉納之。毎年正月
祭日、四月御田植之神事之節於別当令拝礼。及年数殊大破ニ付改而新画表相於江府
出来、当役之面々各寄付奉納之。在勤中、郡奉行吉野要八方哲、寺井仁兵衛邦英、鈴木
忠兵衛正懿。御目附山口平蔵篤直。代官與風半之允邦知、五十嵐平左衛門惟忠、浅野
平作崇道、渋谷定治郎好長。割元柴田長太夫輝邦。御影懸物一幅者、両祭礼御神事之
節、別当所江相渡、常御陣屋御宝蔵ニ入置申候事。
于時弘化三丙午載秋八月」 (「多古町史」中にある明治の「社寺明細帳」より P367)
御神体の天照皇太神御影軸にはこう書かれてるそうです。

平成15年建立

思わず「バタ臭い顔だね」と呟いてしまいました。

鮮やかな朱色の本殿は拝殿とはやゝ離れて建っていて、つながっていません。



本殿は四面に色鮮やかな彫刻がはめ込まれています。
何かの物語なのでしょうか?



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延享三年(1746年)の灯篭


拝殿と本殿の間が中庭のように空いていて、木柵にも開口部があり、直接本殿に
お参りすることができました。

深い森の中で本殿の色彩の鮮やかさが一層引き立ちます。
周りにいくつかの祠が散在していますが、風化のためいずれも何の神様かは分かりません。



本殿の裏には一段と高くなった塚のような場所がありますが、ここには何もありません。

塚の下、本殿の真裏に風化した祠があります。
「奥の院」でしょうか、場所から考えて何かしら意味のありそうな祠です。

拝殿に貼られていたこの文章には、怒りを抑えながら書いた心情がうかがえます。
「 告 おさい銭どろの君へ
1.おさい銭は皆々様の浄財です
2.皆々様の「心」を折ることはいけません
3.本殿を汚さないで
4.手口は分かっています 警察への届出(済)」


境内にある「聖徳皇太子」の碑(天明三年-1783年)と「山神」の碑(天保九年-1838年)


「大宮大神」のすぐ下には「多古第一小学校」があり、その先には最近開設された保育園と
幼稚園を兼ねた立派な施設の「多古こども園」が見えています。
数年前まではこの道はただの狭い坂道でしたが、宅地の造成に伴って道路が整備され、
国道296号線から町の中心部に抜ける近道となっています。
周りの開発が進む中で、静かな森に囲まれた「大宮大神」はゆったりと歴史を抱えて
多古の町を見下ろしています。

※ 「大宮大神」 多古町多古2572
JR成田駅からJRバス八日市場行き 多古仲町下車徒歩10分