
「常蓮寺」は天台宗のお寺で山号は「北方山」。
御本尊は「阿弥陀如来」です。
「創建年代は不詳だが、元和元年(一六一五)三月に秀覚上人が中興開山となっている。」
「御本尊の銅造阿弥陀如来立像は室町時代の作で、「山越えの阿弥陀如来」と呼ばれている。」
(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉博著 P168)
少なくとも400年以上の歴史があるわけです。

天台宗のお寺では良く目にする最澄の「照于一隅」の碑。
この言葉については「薬王寺」の項で触れました。
「薬王寺(照于一隅)」 ⇒

平成11年に建立された「ぼけ封じ観音」。


境内左手の銀杏の大木の幹を一部をえぐって、その中に「ぽっくり地蔵」が祀られています。
「ぼけ封じ観音」を拝んで、ぼけずに老後を過ごし、「ぽっくり地蔵」に「周りに迷惑をかけずに
ぽっくりと逝かせてほしい」とお願いするわけです。

銀杏の根元に建つ「贈㳒眼肇安墓」と記された筆子塔。
常蓮寺の肇安上人に学問を教わった弟子たちが建てたもので、文久元年(1861年)の
紀年銘があります。
筆子塔は筆のように上部を細くしたものが多く見られますが、これは四角い墓石です。


苔むした墓石には、寛文、宝永、天明、天保、文化、安政等の年号が読めます。


「成田市史 中世・近世編」(成田市史編さん委員会編)には、
「近世初期に南羽鳥にあった秀覚寺を辻の台に移し、寺号を改めて常蓮寺とした。」
(P255)とあります。
現在の本堂は平成4年に再建されました。

明治33年の「奉読誦普門品六萬巻供養塔」。
普門品(ふもんぼん)とは法華経のうちの「観世音菩薩普門品(観音経)のことです。
19世紀以降に、村落共同体の安泰を願って造立されるようになりました。

こちらは文久三年(1863年)のもの。
この年は幕末の世情騒乱の渦中にあって、京都壬生村で浪士隊(後の新撰組)が発足し、
薩英戦を始め諸外国との争いも頻発していました。
やれ勤皇だ佐幕だとか、あるいは開国だ攘夷だとか、詳しいことは分からないまでも、
不安な世情の中で、村の安泰が保たれるよう、ただ祈るような気持ちでこの供養塔は
建立されたのでしょう。

「二十三夜塔」と刻まれた月待塔。
慶應の文字が読めますので、150年ほど前のものです。
一般に、十三夜塔は虚空蔵菩薩、十五夜塔は大日如来、十七夜塔から二十二夜塔までは
観音様をお祀りしますが、二十三夜塔は勢至菩薩をお祀りするようです。

門柱にも最澄の言葉が記されています。


門前の交差点に4基の庚申塔が立っています。
1基だけが「青面金剛」像を刻み、他は文字のみのものです。
この庚申塔の前で、4月に「北羽鳥の獅子舞」の「花かがりの舞」が行われます。
「北羽鳥の香取神社」 ⇒

御本尊の「阿弥陀如来」について、成田市発行の「成田の地名と歴史」では、
「像高32.2cm、髪際で29.4cmを測る立像である。内衣・衲衣・覆肩衣・裙を着け、
左手を垂らし、右手をやや内に向けて、胸前に屈臂し、両足を揃えて立つ。現在、
両手首先を失っているので、当初の名称は判明し得ない。」 (P278)
として、単に「銅造如来形立像」としています。
火災に遭ったためでしょうか、表面が爛れて、全身が右に傾いているそうです。
再建された本堂の中で、波乱の歴史をくぐって来た仏様が、静かに時を編んでおられます。

※ 「北方山常蓮寺」 成田市北羽鳥1803-1
京成成田駅よりコミュニティバス豊住ルート 北羽鳥入口徒歩約5分
常蓮寺の山号は、現在「豊住山」に変わっているようです。
2021/02/03にご指摘をいただきました。
ありがとうございました。