
「創建の由来は、大同年間(八〇六-八〇九)に駿河国(現静岡県)住の都筑刑部久能と
いう者が観音像を得て小堂に安置し祀っていた。その後祖先の地である本村久能(旧久能村)
に来りてここに小堂を作り遷座し、後久能山観音寺と号する真言宗寺院となったといわれる。」
「天正年間(一五七三-一五九一)覚正の代に中山法華経寺日俒に帰依して改宗、観久山
潮音寺と改めた。」 (「富里村史 通史編 P628)
遡れば1200年の歴史を有する古刹です。
中山法華経寺日俒は、多古町にある「中村壇林」で有名な「日本寺」の中興の祖と言われて
いて、そのお墓も日本寺にあります。
日本寺 ⇒


本堂正面の柱には龍の彫刻が巻きついています。

本堂の左手に建つ「南無日蓮大菩薩」と刻まれたこの石碑には、文政七年(1824年)
の紀年銘があります。

墓石には、寶永、寶暦、享和、文政、嘉永、文久などの年号が記されています。


本堂と見紛うばかりの、立派な「観音堂」。
寺伝では天正年間(1573~93)の建立としていますが、裏付けとなる資料はありません。
「富里村史」には、工法や様式から17世紀なかば頃の建築で、江戸後期に増改築された
のでははないか、と書かれています。

手水盤には文政元年(1818年)とあります。

文化十四年(1817年)と記された常夜燈。

「如意輪観音」。
紀年銘の上部が欠けていてますが、「○保三戌」と読めます。
とすると、享和三年(1803年)が正解でしょう。

天明四年(1784年)の紀年銘がある題目塔。
この年には筑前国の志賀島で「漢委奴國王印(かんのわのなのこくおういん)」と刻まれた
国宝の王印が発見されました。
前年には浅間山が大噴火し、天明二年から続いていたいわゆる「天明の大飢饉」がさらに
深刻化した年でもあります。

「法寿之鐘奉献記」の碑


「法寿之鐘」と名付けられた鐘の由来は、概略こう記されています。
「宝暦五年(1755年)に鋳造された鐘は戦争中の昭和17年に供出されてしまいましたが、
昭和47年に新たにこの鐘が鋳造され、30年ぶりに除夜の鐘が鳴り響いた。」



永代供養塔の前にある献香台は、二匹の鬼が支えています。
その重さに鬼の顔が歪んでいます。

休憩所脇にある明治22年の「馬頭観世音」の板碑。


境内の真ん中にある休憩所には、「ぼけ封じ 関東三十三観音霊場 第一番札所」の看板。
千葉、東京、埼玉、茨城、群馬、栃木の33の「観音菩薩」を祀るお寺からなる札所です。
結願寺は茨城県稲敷市の「慈雲山無量寿院逢善寺」になります。

「ぼけ封じ観音大菩薩」です。
二人の老人が観音様の足にすがりついている、何とも生々しい構図です。

慈母観音像の足元にも大勢の子どもが纏わりついています。
背後には水子地蔵が見えます。

この題目塔には天明元年(1781年)の紀年銘が刻まれています。



「富里村史」に興味ある資料が紹介されています。
「『三宅島流人在命帳』という史料に次の記載がある。
明和六年十月二十二日
不受不施 三宅
天明三年十一月十五日御奉書到来 御免流人ノ内野州都賀郡東水代村源兵衛伜
千吉ト申者相頼、不受不施ニ罷成候御諌書指出、千吉儀ハ江戸入牢被仰付
日照儀ハ右御吟呼之上不届ニ付、天明五年巳四月二十四日神宮丸ニテ御下知
被仰渡候御書付到来、神津島ヘ島替被仰付下候
天明五年六月九日 神津島ヘ送ル
下総国印旛郡久能村観久山
潮音寺隠居
日 照 伊 谷
丑五十二歳
これは当時キリスト教とともに江戸幕府の禁教である不受不施(日蓮宗の一派)を信仰
していた罪により、三宅島に島流しされていた潮音寺隠居日照が、反省することなく
ご赦免流人千吉を使って諌言書を箱訴したので、さらに小さな神津島に島替えを命ずると
いう内容である。 日照はその後も自分の気持ちを偽らずに不受不施を信仰し、また島民に
文字を教えたりして島民の崇敬を集めたという。 今日、神津島流人墓地には最大の墓が
建立されており、富里では傑出した人物の一人である。」
不受不施派(ふじゅふせは)とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者からは不施を
受けず、また法施などを施さないという宗派のことです。
文禄五年(1595年)に豊臣秀吉が方広寺大仏殿の千僧供養のために各宗派に出仕を
命じた際、日蓮宗内部の不受不施の教義を守って出仕を拒もうとする一派が、宗門を
守るために出仕を受け入れようとする教団に反旗を翻し、弾圧の対象となりました。
以後、明治9年に政府によって公認となるまで、邪宗派として隠れキリシタンと同様の境遇
に置かれていました。

信仰と権力の狭間に翻弄された昔を思えば、今は穏やかな時が流れる境内です。

※ 「観久山潮音寺」 富里市久能522-1
京成成田駅から千葉交バス 久能・両国行き 久能下車徒歩2分