
「観照院」は富里市立沢にある真言宗智山派のお寺で、山号は「徳羅山」。
ご本尊は「大日如来」です。
「立沢字天神前ニアリ、真言宗ニシテ霊通寺末ナリ、大日如来ヲ本尊トス、堂宇間口五間
奥行七間半、境内八百十九坪アリ、住職ハ兼田宥海ニシテ檀徒百二十五人ヲ有ス」
大正十年(1921)の「富里村誌」には、「観照院」についてこれだけの記述しかありません。


寺号標の手前に「六地蔵」が並んでいます。
六地蔵は宗派やお寺によっていろいろな呼び名があるようで、ここでは、
破勝地蔵、不休息地蔵、延命地蔵、讃竜地蔵、弁尼地蔵、護讃地蔵となっています。

六地蔵の隣には地蔵堂があります。
台座には「念佛講中」とあり、紀年銘は宝暦だけが読み取れます。




境内の入口には、左右に大きな仁王像が立っています。
曲がりくねった急坂を登ってくるので、目の前に突然現われる大きな石像に驚かされます。
階段の上にあることもあって、見上げると強い威圧を感じます。

賽銭箱の上に、「大日如来」と記された金属板が置かれています。
周りに七本の蝋燭を立てて、光背を意味しているのでしょうか。

「創建については不詳だが、鎌倉時代の豪族である千葉氏系の立沢四郎太郎胤義一族の
建立に架かるものではないかと思われる。」
「境内から室町時代のものと思われる宝篋印塔と応永九年(一四〇二)の銘をもつ五輪塔
が出土しており、寺の創建になにか関係があるのではないだろうか。」
(「富里村史 通史編」 昭和56年 富里村史編さん委員会 P618)
「観照院」は、少なくとも六百数十年の歴史を有するお寺のようです。

本堂左手に立つ「引導地蔵尊」、「水子地蔵尊」、「輪法地蔵尊」。

本堂右手には平成11年に建立の「修行大師」像。
弘法大師・空海の 修行時代の姿です。

「修業大師」の隣には、昭和51年に建立の「慈母観音」。


草むらに埋もれた十九夜待塔とお地蔵様。
月待塔には天保四年(1833)と記されています。
お地蔵さまの台座は土中に埋まっていますが、わずかに“乃”と“至”の文字が読めます。
道標を兼ねていたものをここに移したのでしょうか?

「永代護摩木山」と刻まれたこの石塔は、昭和13年と記されています。
脇には「七畝十八歩」とありますので、約230坪の山林です。

境内の奥にある「大師堂」への道の両脇には、たくさんの崩れた石塔が並べられています。


「大師堂」には「南無大師遍照金剛 南無興教大師」の貼り紙が・・・。
「遍照金剛」とは、「大日如来」のことで、光明があまねく照らし、金剛のように不滅である
ところからこう言われます。
お遍路さんの白衣の背中には、この「南無大師遍照金剛」の文字が書かれていますね。
「興教大師」とは、真言宗中興の祖である「覚鑁上人(かくばんしょうにん)」のことです。


墓地は広い奥行きがあり、奥の方には比較的新しい墓石もあります。
墓地の手前側に並ぶ古い墓石には、元禄、宝永、享保、元文、天明、寛政、天保等の
年号が刻まれています。



「富里村史」には、鐘楼は江戸時代に建てられたものとの記述があります。

鐘楼に登る階段下には「不動明王」像があります。
平成2年の建立です。
本堂に対面する側には多くの石像が並んでいます。






いちだんと大きいこの観音像は平成元年に建立されました。


「洗心」と刻まれた手水鉢は昭和34年に寄進されました。

本堂裏の目立たない場所にひっそりと建つお堂には、「青龍大権現」と「.粟嶋大明神」が
並んで祀られています。




大きな石像が目立つ境内ですが、そのほとんどが近年のものだということは、大正十年
(1921)に「檀徒百二十五人を有ス」と村誌に記されていた檀徒と子孫の方々が、現在
まで厚い信仰心を持ってこのお寺を守っていることの表れでしょうか。

※ 「徳羅山観照院」 富里市立沢851