
まずは、前回に「千把ヶ池跡」の「奉讀普門品一萬巻供養塔」にあった ☜ の“ぜんどうだいし・
ぬけみち”を探してみましょう。


方向的には「善導大師堂」の墓地の先にある「松崎郵便局」の前を行くと、「成田湯川駅」に
近付けるような気がします。
「八生小学校」の前を抜け、相当な距離を進みましたが、この道は県道18号線のバイパスに
出ることが分かり、途中で引き返しました。
この道の途中で、参道が道路に分断された神社を見つけました。
今のところこの神社については、千葉県神社庁の「神社名鑑」にも記載が無く、詳細が分かって
いませんが、後日、機会があれば紹介したいと思います。


さて、そうすると残る道は、「善導大師堂」前の「六地蔵」の横を行く小道しかありません。


「六地蔵」はお堂への階段の途中に立っています。
人は生前の行いの善悪によって、その死後に、地獄・畜生・餓鬼・修羅・人・天という六道を
輪廻・転生すると言われていますが、その六道のそれぞれに、衆生救済のために檀陀・宝印・
宝珠・持地・除蓋障・日光の六地蔵が配されていると信じられ、お寺や墓地の入口などにこの
六体のお地蔵様を並べ建てることが行われています。
この「六地蔵」の前を横切って、やや下り坂になっている小道を進みます。
(六地蔵に向かって右になります。)


道は曲がりくねっていて、先が見えません。

突然、道が広くなりましたが、工事中の道路のようです。
ここまで歩いてきた道は、車がすれ違えない細い道でしたが、ここは広く立派な道路です。

向こうに何か見えています。
よく見ると、どうやら「成田湯川駅」のようです。


前方にある通行止めの景色は、前回「第二大鷲踏切」の先で見た景色と同じです。
“ぬけみち”は間違いなくここです!
かつての「松崎街道」は、「千把ヶ池跡」の 「普門品一萬巻供養塔」にあった ☜ が指して
いたとおり、大鷲を抜けて「善導大師堂」に向かっていました。
工事が終わると“ぬけみち”にしては立派な道になります。
便利になることは良いことですが、“よそもの”の勝手な感覚としては、いつまでも狭い
“ぬけみち”であり続けて欲しい気がします。
さて、“ぬけみち”を見つけたので、「松崎街道」に戻りましょう。

来た道を戻ります。
のんびりした山村の風景が広がっているのを見ると、地元の皆さんには申し訳ありませんが、
やはり、この景色を残してほしい気がします。

「八生村道路元標」に戻って、現在の「松崎街道」を下ります。


「八生村道路元標」を左に折れると、街道は長い下り坂になります。
傾斜がきつい上に曲りくねった長い坂で、昔は“街道最大の難所”と言われていたようです。


長い坂を下りきると、一面田んぼの田園風景へと一変します。
勝手に決めた「松崎街道」の終点まではもう一息ですが、先ほど見つけた旧街道(ぬけみち)
の「善導大師堂」からここへ抜けてくる道がどこかにないか、気になります。
昔の「松崎街道」は、今下りてきた坂の手前を大きく迂回して、「来迎寺」や「善導大師堂」へと
続いていたはずです。

正面が現在の「松崎街道」の下り坂ですが、手前の寿司屋の看板と松崎保育園の看板の
手前を右に入ってみましょう。



保育園の前を過ぎると道は急坂となり、“この先行き止まり”の看板がいくつも立っています。
『新道は山裾の長い距離を徐々に登って行くが、旧道はその高さをわずかな距離で登る
ため、ここが安食方面から成田に向かう街道の最大の難所であった。歩くだけでも困難ならば、
人を乗せた駕籠や馬はそれ以上に大変だった。』
『文化十四年(一八一七)八月に、安食方面から来た国文学者の小山田与清も、その様子を
「相馬日記」に「松崎村といふ所よりつづらをりをのぼるに、駒も行なづみ、鞍のうへ平ならず
していとむつかし」と記している。』 (「成田の史跡散歩」P214)
これまでも坂道の連続でしたが、確かに、登り始めてすぐに後悔するほどのきつい坂道です。
“街道最大の難所”とは、こちらのことですね。


途中で振り返ると、遠く印旛沼が見えています。
これは相当な高低差がある、難所中の難所ですね。


最後は階段になって、現在の「松崎街道」(県道18号線の旧道)に出ました。
さきほど見た景色です。

道を横断した先に、左へ上って行く小さな坂が見えます。
もしかすると、ここが「善導大師堂」へとつながる道なのかも知れません。
少し上ってみました。

すぐ下に、今登って来た難所の急坂が見えます。

T字路になっています。
画面の左側から上ってきました。
画面の手前方向に進みます。

印旛沼が大きく見える高さです。
ちょっと歩くと、前回「八生村道路元標」を右に入って、突き当たった場所に出ました。


ここからは前回歩いた道を行けば、「来迎寺」、「善導大師堂」に着きます。
これで、「松崎街道・なりたみち」の旧道がつながりました。
今きた道を戻り、再び現在の「松崎街道」を下ります。
行ったり来たりで、旧道のつながりが分かりにくいと思いますので、おさらいしておきましょう。
【 千把ヶ池跡を右折し ⇒ 成田湯川駅の左側を抜け ⇒ 第二大鷲踏切を渡って ⇒
工事中の広い道から ⇒ 山間の小道を進み ⇒ 善導大師堂の六地蔵前を抜けて ⇒
左折して道祖神のT字路へ ⇒ 直進してT字路を左に下り ⇒ 現在の松崎街道を横断
⇒ 階段と急坂を下り ⇒ 松崎保育園を右に見て進む ⇒ 現在の松崎街道の坂下へ】
この間、休憩なしで私の足で約1時間と少々の行程です。(スポットの見学時間を除く)











因みに、現在の「松崎街道」を「千把ヶ池跡」からこの坂の下まで歩くと、やはり1時間と少々
の行程になると思います。
【 千把ヶ池跡の前を直進 ⇒ 最初の信号を右折 ⇒ 蕎麦屋さんの前を通り ⇒ 無縁塚
⇒ 八生村道路元標の二又路を左へ ⇒ 長い下り坂 】

街道はすっかり平坦になり、両側には田んぼや畑が広がっています。


道端に「青面金剛」と刻んだ石塔が立っていました。
何とか□保四□巳と読めましたが、□の部分は判別できません。
年号の後ろが(保)の四年で、干支の後ろが巳である年は、天保四年(1833)です。
この年の干支は癸巳で、もう一つの候補の享保四年(1719)の干支は己亥ですから、
該当するのは天保四年ということになります。(100%の自信はありません)
側面には「東 なりた しば山」「西 あじき りうヶ崎」と記されています。




のどかな街道風景が続き、ようやく「下総松崎駅」に着きました。
明治三十四年(1901)開業の駅は、街道から少し入ったところにあります。


「下総松崎駅」を過ぎて少し進むと、「成田街道踏切」になります。
今回の「松崎街道・なりたみち」の(私が勝手に決めた)ゴールです。
踏切を渡り、50メートルほど行くとT字路になり、街道は右方向の安食方向に向かって平坦な
道を行くことになります。
やがて成田市を出て栄町に入り、県道18号線のバイパスと合流して「安食駅」へと向かいます。
ここから先は「安食街道」のほうがピッタリしますので、私は「成田街道踏切」を両街道の境界と
考えました。



成田行きの電車が踏切を通過して行きます。
「下総松崎駅」が近いので、スピードを落としながら走っています。


ここで「松崎街道・なりたみち)」は終り、安食(あじき)、木下(きおろし)、布佐(ふさ)、そして
我孫子(あびこ)へと道をつないで行きます。
街道を歩くと、新たな発見があります。
街道を歩くと、先人の“想い”に向き合うことができます。
街道を歩くと、自分の生き方を見つめ直せます。
成田山から成田街道踏切まで、歩くだけなら4時間程度の行程です。
いくつかのスポットをゆっくり見て回れば5時間半くらいでしょうか。
一気に踏破する必要はありません。
何回かに分けて、少しずつ、自分のペースで歩いてみてください。

