
「長泉寺」は臨済宗妙心寺派のお寺で、山号は「大鹿山」。
ご本尊は「聖観音菩薩」です。


道路からお寺は見えませんが、急坂を登ると左手の茂みの中に「大鹿山長泉寺」の看板
がチラリと見えます。

「大栄町史通史編中巻」(平成14年)には、「長泉寺」について次にように書かれています。
『臨済宗妙心寺派。所村字寺脇に所在。山号は後記のように大鹿山。本尊は正(聖)
観音(「県寺明細」)。寛政元年の「禅宗済家妙心寺派下寺院帳」に、香取郡与倉村
(佐原市)大龍寺の末寺として載せられている。』
『「県寺明細」によれば、開山は方外宏延禅師、貞享三年(一六八六)に野火で焼失し、
中興開山中通和尚が正徳五年(一七一五)に再建したとある。ただ、境内の元禄四年
の石灯籠には「大鹿山」と刻まれており、再建はその時の可能性もある。』 (P559)
方外宏延禅師によって開山した年月が不詳ですが、野火で焼失した貞享三年より前の
開山であることは間違いないので、少なくとも330年以上の歴史を有しているお寺です。
この他「長泉寺」に関しては、「大栄町史史料編」の収録史料の中に、
「建立年暦相分リ不申候 臨齊禅宗 大鹿山長泉寺」
(天保三年 「町奉行与力給知新知七ヶ村高書上帳)
「四十弐間・四十四間 六反歩 観音免 長泉寺」
(享保九年 「所村御請所内検地帳」)
等の記載が見つかります。
また、「長泉寺」の本寺である「大龍寺」については、「香取郡誌」(大正十年)に、
「寶雲山大龍寺 香西村大字與倉字吐月峰に在り域内千八十坪臨濟宗妙心寺派にして
千手観音を本尊とす寺傳に曰ふ至徳中矢作城主國分壽歡入道大悦之を創し建仁寺大航
慈船和尚を開基とす・・・」 と書かれています。
至徳年間は西暦1384~87年ですから、約630年の歴史あるお寺です。

「圓通殿」と書かれた掲額。
山号、寺号、院号などを掲げる寺額とは異なるようですが、「圓通」とは、真理があまねく
行き渡っていることを指す仏教用語で、圓通大士(観音菩薩の別称)を指す場合もあります。
この言葉を採ってこの本堂を「圓通殿」と称したのではないでしょうか。
因みに、京都の左京区岩倉にある名園で知られる「圓通寺」は、臨済宗妙心寺派のお寺で、
ご本尊は「聖観音」です。

失礼して覗かせていただいた本堂の内部。
朱色のお堂の中にご本尊の「聖観音」が安置されているのでしょうか。


本堂前の石灯篭には「■■善女人■■三夜待供養」と刻まれています。
元禄と読めるような文字がありますので、この石灯篭が「大栄町史」にある、元禄四年
(1691)のものなのでしょうか?
残念ながら「大鹿山」の文字は見つけられませんでした。


境内の一角に建つお堂には「菩提閣」と書かれた掲額が架かっています。

「菩提閣」の隣に並ぶ3基の石仏。

真ん中は月待塔で、「十九夜待塔善女人■ 享保十■一月十九日 五十人■」と
読めます。
290年近く前のもので、十九夜講の信仰対象である「如意輪観音」を刻んでいます。
左は風化と苔で良く見えませんが、十五夜講の月待塔のようです。
「所村善女人■ 明和■■」と読めますので、240年以上前のもののようです。


「如意輪観音」の月待塔は真ん中から真っ二つに割れています。
補修はされていますが、自然に割れたものではないようですし、右端は見る影もないほど
に破壊されています。
ここにも廃仏毀釈の爪跡が残っているのでしょうか?


「菩提閣」の奥には2基の板碑と数基の崩れた宝塔が並んでいます。
板碑の年代は分かりませんが、右側の板碑には「奉讀誦普門品万巻」と刻まれ、左右に
「国家安全」「天下泰平」の文字が刻まれています。

地元の名家と思われる「小貫平右衛門歴代之碑」。
昭和32年の建立で、裏面には小貫家代々の戒名がビッシリと記されています。

本堂の裏側の山肌が崩れかけているのが気になります。

本堂の反対側の端にも数基の石塔が並んでいます。

「馬頭観世音菩薩」と文字が刻まれ、「文久二壬戌」と読めます。
文久二年は西暦1862年で、この年には武蔵国橘樹郡生麦村で、島津久光(薩摩藩主
島津茂久の父)の行列に乱入した騎馬の英国人を藩士が殺傷し、薩英戦争の引き金
となった「生麦事件」が起こりました。

こちらは「馬頭観音像」が刻まれて、「文化十癸酉十一月吉日 所村中世話人長左ェ門」
と記されています。
文化十年は西暦1813年になります。

上部が欠けて、「・・観世音」とのみ読めます。
多分、欠けた部分には「馬頭」とあったと思われます。

「馬頭」の文字だけが残っています。
「六地蔵」と同じように、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道)に配される
「六観音」の内、畜生道を化益するのが「馬頭観音」であるとされています。
観音像といえば、皆優しいお顔を思い浮かべますが、「馬頭観音」のみは一部の例外を
除いて憤怒の表情をしています。
その憤怒の表情から、「馬頭観音」を「観音」ではなく、「明王」として「馬頭明王」と呼ぶこと
もあるようです。
また、「馬頭」という名前から、民間信仰では馬の守護仏として祀られています。
ここにあるような、観音像を刻まずに「馬頭観音」という文字だけを刻んだ石碑の場合は、
だいたい愛馬への供養のために造られたもののようです。
境内に入ってすぐ右手には「成田市消防団第10分団第4部」の倉庫があり、左手奥には
「所公民館」が建っています。

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公民館の裏の台地には墓地が広がっています。


見事な板碑が2基並んでいます。
大きい方の板碑には慶長七年(1602)の紀年銘が記されています。

立派な墓石が多く、元禄、宝永、元文、明和、天明、天保等の年号が見えます。

この宝篋印塔は寛保元年(1741)のもので、四面に一文字ずつ「宝」「篋」「印」「塔」の
文字(旧字体よりさらに複雑な字です)が記されています。

一番奥には歴代住職の卵塔が並んでいます。

この石仏の顔はスパッと削られています。
境内にあった如意輪観音像と同じ運命に逢ったのでしょうか?


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初秋が訪れた「所」の山里には、曼珠沙華が首を伸ばし、赤トンボが舞っています。
貞享三年(一六八六)に野火によって焼失したものの、中興開山中通和尚によって再建され
た正徳五年(一七一五)から数えて300年。
禅の大衆化に尽力し、臨済宗の中興の祖とされる「白隠慧鶴」が生まれたのは、「長泉寺」が
野火で焼失した貞享三年ですから、中道和尚は「白隠慧鶴」の影響を受けて、この寺の再建
を期したのかも知れません。


※ 「長泉寺」 成田市所595