今回は下福田の山道で偶然見つけた「下福田稲荷神社」です。


大正二年(1913)に編さんされた「印旛郡誌」中にある「八生村誌」には、村内の神社に
ついてのの記述がありますが、その最後に「其の他の神社」として列記された数社の中に
この「稲荷神社」はありました。
「稲荷神社 下福田村字稲荷原 祭神・保食神 明治二年一一月一日再建 社殿・間口
三尺奥行三尺 境内坪数・五六一 氏子・三九戸」
「成田市史 中世・近世編」にある「成田市域の主な神社表」にも、下福田の「稲荷神社」の
ご祭神は「保食神」とあります。
「保食神(ウケモチノカミ)」は食物の神様で、長沼にある稲荷神社と成毛の稲荷神社が同じ
「保食神」をご祭神としています。


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4基の御神燈の奥に流造りの社殿があります。
御神燈はいずれも平成19年の寄進です。

この手水盤には「文化十一年甲戌正月吉日」と記されています。
文化十一年は西暦1814年ですから、200年前のものです。
「京屋」の文字が見えます。
その下に刻まれている文字は、「店商賣繁盛」「宰領道中安全」と読めます。
また、「願主 大野太郎左ェ門」とも記されています。
何の商いかは分かりませんが、「京屋」の主人の太郎左ェ門が、商売繁盛と商品の輸送の
安全を祈願して寄進したのでしょうか。

平成19年7月に建立の「下福田稲荷神社 由来」の石碑。
『神体は「正一位稲荷大明神」もとは白い木製の狐であったが、戦後紛失し現在は幣束と
なっている。祭神は倉稲魂命(保食神)で由緒は未詳だが、数百年前村人が伊勢参りの
際、外宮の豊受大神宮にて倉稲魂命を参拝し、大神宮の神礼と帰途京都の伏見稲荷で
神体を受け、持ち帰って神社を建立したと伝承される。・・・』
文化二年(1805)、明治二年(1869)と再建が行われ、以降数回の改築を経て、平成
19年の社殿等の改築が行われました。



「千葉県神社名鑑」(千葉県神社庁)には、ご祭神は「豐受姫大神(トヨウケヒメノオオカミ)」
と「倉稲魂神(ウカノミタマノカミ)」と記載されています。
「印旛郡誌」にある「保食神」と、神社名鑑にある「倉稲魂神」、そして「豊受姫」は、いずれも
穀物・食物の神です。


社殿の奥にあるこの祠は、何の神様をお祭りしているのかは分かりませんが、比較的
新しいもののようです。



社殿の裏側から境内を見ています。
長い参道があって、その奥に社殿がある狭い境内があります。



こじんまりした境内と細長い参道は、鬱蒼とした鎮守の森に守られています。
昔はこんな風景が日本中のどこにでもあったのでしょう。


「古老の伝承によれば、伊勢の外宮様より御分霊を奉斎。天正九年兵火のため社宇を
焼失、稲葉藩主の寄進によって再建されたが、慶応年間再び野火により焼失、現在の
社殿は明治二年一一月一日創建された。往古は稲荷原に広大な社地を有した。」
「神社名鑑」には「下福田稲荷神社」についてこのように記されています。
天正九年は西暦1581年、織田信長が破竹の勢いであったころです。
430年以上も前に兵火によって焼失したとすれば、この神社が村人によって建立された
のはそれよりも前ということになります。
この神社は、成田安食バイパスを「房総のむら」に向かって進み、「八生大橋」バス停の
そばの細道を右に少し入ったところにあります。
鳥居が細道からさらに引っ込んだ場所にあり、まわりは鬱蒼とした森ですから、バイパス
からはこの「稲荷神社」は見えません。
目立たない小さな神社ですが、ここには長い歴史が漂っています。

※ 「下福田稲荷神社」 成田市下福田1520