
東和泉の山あいにある「養泉寺」は、曹洞宗のお寺。
山号は「松厳山」で、ご本尊は「十一面観音菩薩」です。
「十一面観音菩薩」は、仏教の尊像の中でも最初に現れた多面像です。
十一の顔を四方に向けているので、人々の苦しみをくまなく見つめて救いの手を差しのべる
とされることから、多くの信仰を集めています。

小さいながら、しっかりとした木組みの山門です。

山門横に「不許葷酒入山門」と刻まれた石柱が立っています。
これは結界石と呼ばれるもので、酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は
入山することを許さないという意味です。
寺台の「永興寺」や伊能の「長興院」など、曹洞宗のお寺の山門前には必ずと言って良い
ほど立っているもので、戒壇石とも呼ばれます。



結界石に並んで立つこの石碑は、大正五年(1916)に建立したものですが、文字の彫りが
浅かったのか、碑文は読めなくなっています。

「普門品供羪塔」とだけ刻まれたこの石碑は、読誦の巻数も記されていません。
白カビに覆われて、建立年代は分かりません。
供羪の文字は時々見かけますが、かなり古いものであると思われます。

大正三年に編さんされた「千葉縣印旛郡史」には、「養泉寺」の創建について、
「養泉寺は村の西方字細目にあり地坪千八百八十九坪曹洞宗厳山と號す上総國望陀郡
九谷村眞如寺の末派なり文祿元年二月大須賀英胤創立す村史による仝書には尚當寺の古
き靈牌に英胤以下の法名及年月を左の通り記されあることを載せたり」
(以下3名の法名等の記述)
※ アンダーライン部分は曹洞宗松厳山の間違いだと思われます。
と記載されています。
創建された文禄元年は西暦1592年で、420年以上前になります。
さらに、「成田市史近代編史料集一」中の「下總國下埴生郡東和泉村地誌記」には、
「養泉寺ハ村ノ西方字細田ニアリ、地坪千百八拾九坪、曹洞宗、松厳山ト号ス。上総國望陀
郡丸谷村真如寺ノ末派ナリ。文禄元年二月大須賀英胤ノ創立ナリ。」 (P258)
と記載されています。
※「印旛郡史」と「東和泉村地誌記」間の地坪の違いは、実感として「地誌記」の1,189坪が近いと思われます。
※「九谷村」「丸谷村」は共に確認できません。「真如寺」は望陀郡真里谷村(現・木更津市真里谷)にあります。

境内の左手にあるお堂には、六体のお地蔵様と11体の大師像が並んでいます。
お地蔵さまは「六地蔵」だと思われますが、何れも首に補修跡が見られます。
これも南羽鳥の「観音寺」の項で書いた「廃仏毀釈」の爪跡でしょうか?
廃仏毀釈の爪跡(?)~南羽鳥の「観音寺」 ☜ ここをクリック

境内の一角に立つ2体の石仏。
こちらのお地蔵さまの首も着け直した跡があります。

文政四年(1821)のお地蔵様を載せた「法華経千部供養塔」。
普通見かける念仏供養塔の「奉読誦普門品○巻供養塔」という表現とは異なり、「法華経」
と刻まれています。
これは、膨大な法華経を読誦したということではなく、法華経の中の「観音経=普門品」を
読誦したという意味だと思います。

本堂に向かって左側に、名前が分からないお堂があります。

外の景色が反射して、お堂の中はとても見にくくなっていますが、何とか正面に架かって
いる額を写すことができました。
「神通力」と書かれています。
「神通力」とはもともと仏教用語で、菩薩が衆生を救済するための、自由で妨げるものの
ないはたらきを指します。

小さな木札が架かっています。
このお堂の名前が書かれているのかも知れませんが、墨が消えて文字は読めません。
ガラス戸に「鎭防火燭」と書かれた護符が貼ってありました。
木札にも何となく同じ文字が書かれているような気がします。
曹洞宗のお寺ではこの「鎭防火燭」と「立春大吉」の護符を見かけることを思い出しました。

「境内佛堂一宇あり即
一、観音堂 本尊観世音にして由緒不詳建物間口二間三尺奥行一間三尺あり寺院明細帳」
このように、「千葉縣印旛郡史」には「養泉寺」内に「観音堂」があると書かれています。
現地では分かりませんでしたが、大きさもほぼ一致しますので、これは「観音堂」であろうと
推測しました。
本項を出稿する直前に、次のような文章があることに気付きました。
「本堂に向かって左側に子安堂がある。中に五〇枚ほどの小絵馬があるが、いずれも女性
が子安観音に祈っている図であり、子授けの観音様として周辺の女性に信仰されていること
がわかる。」 (「成田の史跡散歩」P237)
確かに女性の絵がたくさん架かっているのが見えましたので、このお堂は今では「子安堂」と
呼ばれている、「印旛郡史」にある「観音堂」だと納得できました。

本堂と「観音堂」との間に「大師堂」があり、28体の石像と1体の木像が並んでいます。
ここも多くの大師像の首に補修の跡があります。
着け直されたお顔は、どれも現代風の顔つきに見えます。

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「寺院明細帳には文禄元年二月創立とあり堂宇間口九間三尺奥行七間三尺境内一千百
八十九坪官有地第四種あり住職は森田眞海にして檀徒百五十九人を有す庫裡間口九間
奥行四間三尺小屋間口二間奥行三間東司間口六尺奥行一間三尺總門間口二間奥行
四間三尺大門間口一間三尺奥行一間にして管轄廰まで十里五町とす」
「千葉縣印旛郡史」にはこのような記述も見えます。
この本堂には記されている本堂の大きさはありません。
何回か建て直されているはずですが、壁の一部が土壁になっています。


この部分は他の部分より古いのでしょうか?


本堂の裏にはかつての礎石だったような石の並びがあります。
この石を辿ると、「印旛郡史」に収録されている「寺院明細帳」の本堂の大きさになりそうです。

寺額の「養泉寺」の文字も消えかかっています。

裏山には墓地に続く急坂があります。




所々に平らな場所があり、そこは何とか墓地の体裁が残っていますが、その他は山腹の
斜面にへばりつくように墓石が並び、竹林の浸食によって傾いたり倒されたりしています。
辿りつける場所の墓石には、寛文、享保、宝暦、寛政、文化等の年号が記されています。

とても登れないような場所に「卵塔」が並んでいます。
「卵塔」は無縫塔(むほうとう)とも呼ばれ、主に僧侶の墓石として使われます。
歴代の住職のお墓なのでしょうか、もうお参りする人は無さそうです。

「天正九年に東和泉城が落城したとき、城主の成毛八郎教胤の娘は、家老の桜井庄兵衛家
に嫁いでいたため難を逃れたが、父や家臣らの菩提を弔うため、文禄元年(一五九二)二月
に養泉寺を建て、化国周鷹和尚をもって開山したという。」 (「成田の史跡散歩」P237)
この「養泉寺」の開山に関する説は、先に記した「印旛郡史」や「東和泉村地誌記」の記述と
異なりますが、「印旛郡史」には次のような記述もあります。
「東和泉村字細田にあり曹洞宗にして松厳山と號す眞如寺末なり十一面観音を本尊とす
由緒不詳なれども文禄元壬辰歳櫻井庄兵衛化國周鷹大和尚創建とも社寺公文書綴村役場蔵」
これは村役場に所蔵されていた「社寺公文書綴」にある記述で、文禄元年(1592)に創建
されたとしているところは同じですが、創建した人物名が「大須賀英胤」とは異なっています。
さらに、「成田市史 中世近世編」の「近世成田市域の寺院」表には、「養泉寺」の開山の項に
「化国周鷹」、開基の項に「大須賀英胤」と記しています。
また、創建年次を文禄元年としつつ、備考欄に「一説に天正9年」とも記しています。
当時滑川城主であった織田左京太夫が助崎城を攻めた時、その先兵により東和泉城が強襲
され、抵抗むなしく天正九年(1581)十二月の大晦日に城主自ら城に火を放って落城したこと
は史実として知られています。
大晦日の落城であれば、同年に寺を建立することは不可能ですから、文禄元年の創建時に、
姫の色々な想いから落城の年に創建したということにしたのかも知れません。
創建時の史料に混乱がありますが、単に大須賀英胤の創建とするより、物語としては討死
した城主や家臣の菩提を城主の娘が弔うという方が、個人的には好みです。
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420年の時を経て東和泉に佇む「養泉寺」は、物音一つしない山あいのお寺です。


※ 「松厳山養泉寺」 成田市東和泉719