
「光明堂」は元禄十四年(1701年)に当時の本堂として建立されたもので、
別名「元禄の本堂」と呼ばれ、大本堂の裏手の小高い場所に額堂や開山堂、
清瀧権現堂などとともに建っています。
成田山の本堂の歴史は建立と移転の歴史です。
成田山新勝寺は、朱雀天皇から平将門の乱を平定せよとの勅命を受けた寛朝大僧正が、
護摩祈祷の法でこれを平定した天慶三年(940年)の開山ですが、
その後長く忘れられたお寺でした。
幾度かの変遷を経て現在の地に遷座した後に、建立された本堂としては、
現存する最古のものが明暦元年(1655年)に建立された現在の「薬師堂」です。
その後江戸深川での出開帳を成功させて成田山を有名にした、名僧照範上人によって
建て替えられた本堂が、この光明堂です。
約一世紀半の間にさらに参詣客が増え、手狭になったこの本堂は、
安政五年(1858年)に建て替えることとなり、現在の場所に移転となりました。
新しく建立された本堂は、昭和42年に現在の大本堂が建立されるまでの110年間、
本堂としての務めを果たし、移転して「釈迦堂」となりました。
「釈迦堂」が「安政の本堂」、「光明堂」が「元禄の本堂」、「薬師堂」が「明暦の本堂」と
呼ばれるのは、こうした歴史があるからです。



本堂の中央に大日如来、左に不動明王、右に愛染明王が並んでいます。
愛染明王には縁結びのご利益があると言われていて、
成田山の中ではここは若い男女の御参りが目立ちます。

絵馬には愛染明王像が描かれ、思いを込めた札がびっしりと掛けられています。




色あせてはいますが、往時は華麗な装飾に人々は目を奪われたことでしょう。



お不動様を象徴する剣の扁額が目立ちます。
かろうじて読めるものには、享和二年(1802年)、嘉永元年(1848年)、
嘉永三年(1850年)などの年号があります。

右の壁面にはひときわ大きな奉納額がはめ込まれています。
「佛説聖不動経」とあり、安政三年(1856年)と書かれています。



光明堂の向って右側には「清瀧権現堂」(せいりゅうごんげん)があります。
享保十七年(1732年)に建立され、清瀧権現と地主妙見が祀られています。
右側の白い建物は祇園祭で活躍した御神輿が納められている御神輿蔵です。

裏手に回ってみると、拝殿・本殿ともに華麗な装飾です。
天明八年(1788年)、安政五年(1858年)に大幅な補修が行われました。

風雪に削られた狛犬はなかなかリアルです。

光明堂の手前左側には金毘羅大権現を中心として、
左右に今宮神社、白山神社の「三社」があります。

三社の隣には制多迦(せいたか)童子と矜羯羅(こんから)童子の像が立っています。
制多迦童子は強さを、矜羯羅童子は優しさを表しています。
真ん中の剣が不動明王を表していますが、二人の童子は不動明王の持つ二つの面、
“強さと優しさ”を表現しています。

「奥之院」は光明堂の裏にあります。
年に数日の開扉を除いて、常に暗い洞窟の中に大日如来がおられます。



縁結びで有名になるのは、本意なのか、不本意なのか。
成田山の一角に建つ光明堂は貫禄充分な佇まいです。
さすが約一世紀半にわたって本堂として使われてきたお堂です。