御神輿が京成成田駅前を練り歩きます。
狭い場所なので、方向転換も大変です。
先導するお坊さんの跡に太鼓と幟が続きます。
屋台も狭い坂を上ってやってきました。
狭い上に交通量の多い所なので、なかなか前へ進めません。
表参道を行く山車です。
辺りが暗くなると山車に明かりが灯り、
いかにも“夏祭り”の風情となります。
JR成田駅東口の権現山には、今日一日各町内を練り歩いた御神輿が置かれています。
ここで本祭りの明朝まで、一泊します。
これは昔の湯殿権現社の祭りの名残です。
この一帯は鉄道が通る前は権現山と呼ばれる鬱蒼とした森だったそうです。
今ではこのお社と駅前ロータリーを挟んで立っている「不動の椎」のみが
昔をしのばせるものとなっています(椎については「歌舞伎役者が舞う成田駅東口」
で紹介しました)。
JR成田駅前のロータリーを山車が回ります。
急な旋回を行いますので、屋根の上の若衆はバランスをとるのが大変そうです。
お祭りと言えばずらりと並ぶ夜店・屋台が欠かせません。
子供たちは山車には目もくれず、綿菓子や焼そばに夢中です。
どうやら雨も上がり、宵宮は山車を引く掛け声とお囃子、
そして子供たちの歓声の中に終わりを迎えます。
※ 明日は2日目の本祭りの様子です。
今回は7月4日から6日まで行われた成田山の「祇園祭」の様子をお伝えしましょう。
成田山の「祇園」は、「奥之院大日如来」の祭礼と湯殿権現社の祭礼が、
一つになって行われるものです。
特に「奥之院」の祭礼は祇園会(ぎおんえ)と呼ばれ、この祭礼の間だけ扉が開かれ、
安置されている「大日如来」を拝むことができます。
享保六年(1721年)には祇園祭の記録があるので、300年近くの歴史ある祭礼です。
今年は7月4日から7日までの3日間、開催されました。
湯殿権現社の祭礼は旧暦6月8日に行われたので、
「成田の八日祭り」と呼ばれていたようです。
江戸時代になって同じ日に行われていた大日如来の祭礼と合体し、
祇園祭の形が整いました。
明治になって暦の関係から祭日は7月8日となり、年々盛んになるとともに
宵宮、本祭り、後宮の3日間となったのです。
現在は7月の8日に直近の金曜日を宵宮として、土曜・日曜の3日間に行われています。
少子化の影響から、山車の引き手の若者の確保が難しくなってきたことが
その理由で、週末に行うことで県内外からの観光客がさらに増えることになりました。
季節がら毎年祇園祭には雨が付きものでしたが、今年は特にこのところの
不規則な天候にたたられてのスタートとなりました。
薬師堂前を西参道に入り裏参道に続く長い坂道をゆるゆると屋台が下って行きます。
祭礼の始まりに際して大本堂前に各町内の山車と屋台が集合するためです。
折から強まった雨脚に私も車中からの撮影となりました。
雨を予想してあらかじめビニールで覆いをしていますが、吹き込む雨に
お囃子連も意気が上がらない様子です。
ようやく境内に入ってきました。
屋根に上った若衆も気合いが入ってきました。
まだ祭礼の始まりまでには時間がありそうなので、
「奥之院」の大日如来様を拝みに行くため、「額堂」の前を通り、「光明堂」裏の
「奥之院」に向います。
途中に「清瀧権現社」に置かれている成田山の御神輿が表に出されていました。
あと2時間もすれば威勢の良い掛け声とともに境内から各町内を練り歩くことになります。
いつもはしっかりと閉じられた奥之院の扉が開かれています。
ここからは撮影禁止です。
中は奥行き約10メートル、高さは約160センチほどの洞窟で、
その先のやや開かれた空間に大日如来様が安置されています。
穏やかなお顔の如来様は、不動明王の本地仏です。
仏教のことは良く分かりませんが、尊い仏様を暗い洞窟の中に置いておくのには
どんな理由があるのでしょうか。
これは7月3日(宵宮の前日)の奥之院です。
いつもの通り、扉は閉まっています。
この扉が開かれるのは祇園会の間だけです。
今年は7月4日から9日まで開かれています。
降り止まぬ雨の中、境内には次々と山車と屋台が入ってきます。
今日だけは、お不動様に背を向けて本堂から見物する人が大勢います。
山車と屋台が揃ったところでお坊さんが各町内の山車と屋台について解説をし始めます。
マイクがあるとは言え、それぞれの由来やお囃子の内容、若者頭についての紹介は、
さすがお経で鍛えた喉で、境内の隅々まで届きます。
御神輿を先導するお稚児さん達がお不動様にご挨拶をすると、大きな拍手が巻き起こりました。
いよいよ今朝ほど清瀧権現社前に置かれていた御神輿が登場します。
歓声が湧き、祭りの雰囲気が盛り上がってきました。
この御神輿は各町持ち回りで担いでいましたが、最近の少子化傾向から担ぎ手が不足し、
現在は成田山の従業員と有志によって担がれるようになっています。
大勢のお坊さんが本堂の階段を下りてきます。
ご高齢の橋本照稔大僧正も、祭りの安全の祈願のためにお出ましです。
全員での安全祈願、鏡開きと行事は進み、いよいよ市中へ繰り出します。
成田山では行事のたびに「東日本大震災」の犠牲者への哀悼と
地域の早期復興を祈願しています。
今回も鏡開きまでの間にこの件に何度も触れていました。
あいにくの天候ですが、もう参道や駅前のスポットには
大勢の見物客が集まっていることでしょう。
山車と屋台、そして御神輿は裏門から参道へと向います。
※ 町中の様子は明日に・・・
この「額堂」は文久元年(1861年)に建立されました。
以前は「三重塔」前にも七代目市川団十郎が寄進した額堂がありましたが、
残念ながら昭和40年に焼失してしまいました。
くすんではいますが、龍や獅子の彫刻は見事なもので、
江戸深川の後藤勇次郎経慶の作です。
その躍動感に圧倒されます。
奉納額や絵馬が所狭しと並んでいます。
建立当初は背面が板壁で囲まれていましたが、今は四方を開放しています。
残念なことに、東日本大震災の影響で、現在は中に入れません。
正面の扁額は採色がすっかりはげ落ちて何も読めませんが、
なぜかお不動様のお姿だけは何んとなく分かります。
とても不思議で、ありがたく思えます。
願いがかなった方、信心深い方、それぞれの想いがこもった扁額の数々です。
焼失した三重塔脇の額堂を寄進した七代目市川団十郎の像です。
この団十郎は「成田山の表参道を歩く(2)」で紹介した、
天保の改革でスケープゴートにされ、「延命院」に身を寄せていた、あの団十郎です。
成田山と歌舞伎の「成田屋」との深い縁をここにも見ることができます。
青銅製の大地球儀があります。
以前は中に入って触ることができましたから、表面はツルツルになって
良く判別できなくなっています。(私も何度か触ったことがあります)
遠くて見えないので望遠で覗いて見ました。
上は多分アフリカ東岸の島々、下はアメリカです。
昭和48年まで「三重塔」のそばの鐘楼に吊るされていた梵鐘です。
今はここで静かに休んでいます。
金網に囲まれて良く見えませんが、「勝軍地蔵尊」です。
昭和15年にここに設置されました。
背面にもビッシリと扁額が掲げられています。
「額堂」の横には「天満宮」と「朝日観音堂」が並んでいます。
「天満宮」は明治20年に再建されたもので、ご祭神は菅原道真公です。
「朝日観音堂」は慶応三年(1867年)に建立され、ご本尊は朝日観音菩薩です。
「額堂」の周りには歴代貫主の句碑が並んでいます。
どれも独特の字体(草書体)で読み難いのですが、
「風凪し 雲の切れ目や皈る厂(雁?)」
「人馬絡驛 万戸の村や ことし米(?)」
の二句が何んとか読めました(?)。
額堂の向いには「開山堂」です。
成田山新勝寺の開山上人、寛朝大僧正のお姿を安置しているお堂で、
昭和13年に建立されました。
装飾の無い質素な作りですが、バランスの良い堂々とした造りです。
「成田山絵図」の石碑がありました。
風化が進み良く見えませんが、細かく彫られた精緻な絵図です。
天保四年(1833年)に寄進されたものです。
もう少し良く見えれば、現在との違いが分かっておもしろいのですが・・・。
「額堂」は成田山の中では異彩を放つ建造物です。
中には入れれば扁額の一つ一つを読んで楽しむこともできるのでしょうが、
外から腰をかがめて覗きこむのも一興です。
そのまま直進して西参道に入ると直ぐに気になる脇道があります。
以前から“どこに抜けるのだろう?”と気になっていたのですが、
今回はこの道を辿ってみます。
脇道の入り口は和食の「成毛屋」さんです。
向い側に別棟の「成毛屋旅館」があります。
成毛屋旅館の先、右側に「塚之越庵」の石柱が立っています。
敷地は新旧のお墓でいっぱいです。
寛政十二年(1800年)と記されたお地蔵さまがありました。
台座には○○童子、○○童女と彫られています。
幼くして亡くなった子供の供養のために建てられたのでしょう。
この供養塔には享和二年(1802年)と記されています。
お地蔵さまとほぼ時を同じくして建てられたわけです。
人通りの無いこの道は、静かで、なにか懐かしいような雰囲気です。
「七霊地蔵尊」がありました。
残念ながら由来は分かりません。
お地蔵様の奥は小さな墓地でした。
墓地の隅に傾いた犬の像がありました。
良く見ると「愛犬六の墓」と記されています。
家族に愛されて幸せな生涯を送った犬なのでしょう。
でも、もう訪れる家族はいないようです。
なにやら成田山周辺で見慣れた景色が現れました。
「発心院」は法資(ほっし)と呼ばれる仏弟子を養成する成田山の学院です。
「発心院」に並んで、「勧学院」「修智院」があります。
「勧学院」は真言宗智山派の教師養成機関、「修智院」は留学生の修行場です。
「発心院」「勧学院」「修智院」を「成田山三学院」と言うそうです。
中からかすかに太鼓の音が聞こえてきます。
この静かな環境は、学問に、修行に格好な場所でしょう。
この脇道は、いわば成田山の「学問の道」ですね。
「出世稲荷」の前に出ました。
この裏道はここにつながっていました。
出世稲荷にお参りした時は、長い階段を下りて成田山の境内を横切り、
さらに階段を下って仁王門、総門を過ぎて、表参道の坂を上り・・・と
ちょっとしんどい帰り道でしたが、この道を行けばポンと参道の坂の上に出られる
ことが分かりました。
思わぬお参りができ、得した気分で来た道を引き返します。
道端で猫の集会に出会いました。
5匹で議論中だったのですが、私の姿を見て2匹はそそくさと退席してしまいました。
残る3匹も“議論の盛り上がりに水を差された”と言わんばかりに不満そうです。
西参道に出ました。
ポストもレトロな脇道でした。