
「荒神社(こうじんじゃ)」と「正等院(しょうとういん)」は細道の行き止まりに並んでいます。


この「荒神社」については、「千葉縣香取郡誌」や「千葉県神社名鑑」、「全国神社名鑒」の
いずれにも記載がありません。
荒神社は「荒神信仰」の盛んだった西日本に多い神社で、中部地方から東ではあまり見か
けない神社のようです。


手水盤は弘化四年(1847)のもので、正面に「荒」の字が刻まれています。


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流造の社殿はしっかりとした造りで、随所に凝った彫刻が施されています。

社殿前の石段の脇に立つ小さな石柱には、正面に「此方 香取御宮 さはら 小見川」と刻み、
左側面に「此方 なり田 さくら きちおか」、右側面には「此方 さくみち」と刻まれています。
道標だったようですが、方角が合いませんので、どこからか移設されたもののようです。

本殿裏にある二基の祠。
左は天保十二年(1841)のもので、右は年代不詳です。

同じく裏手に並んでいる三基の祠。
右の祠は「石尊大権現」と刻まれた天明二年(1782)のもので、真ん中は年代不詳、左には
「安永四■未年六月吉日」「月山 湯殿山 羽黒山 奉眞願子孫長久之処」と刻まれています。
「石尊大権現」とは、神奈川県伊勢原市にある「大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)」
のことで、「石尊」の名は、大山(別名・雨降山〈あふりやま))山頂の岩に神々が降りると信じ
られていたため付けられたと言われています。
江戸時代には関東の全域から大山詣をする人々が集まり、各地の村に石尊宮を勧請する
ことが盛んに行われました。

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境内右手にある寛政九年(1797)の祠と、年代不詳の二基の祠。
いずれも社号は分かりません。


小粒ながら細かな表現の彫刻を多く配した、流造の社殿です。
「荒神社」の境内から隣の「正等院」は見えていますが、一旦鳥居まで引き返して「正等院」に
向かいます。

門柱の右には「眞言宗智山派」、左には「桜田山正等院」と刻まれています。
このお寺に関する資料は少なく、「千葉縣香取郡誌」の「寺院誌」中にその他寺院として一行、
「眞言宗 本尊大日如来」とのみ記されています。
また、「成田市の文化財 第42集 仏閣編」には、
「宝暦10年(1760)には、この地にあったことが知られていますが、その他は不詳です。」
とあり、神崎の妙楽寺の末寺であると書かれています。
なお、現・成田市立大須賀小学校についての史料中に、明治九年(1876)に桜田小学校が
この正等院を借用する形で設立され、男子のみ49名の児童と教員1名であったこと、借用料
が月41銭6厘であったことなどが記されています。


門柱の脇に、首をスパッと落された数体の石仏が並ぶ異様な風景が目に入ります。
廃仏毀釈の名残でしょうか・・・、多くの場合は何とかセメント等で補修を試みた跡があるもの
ですが、ここでは無言の抗議を示すように生々しい痕跡をそのままに見せています。

本堂は比較的新しく、一見公民館風の造りですが、中を覗くと仏壇や仏具が見えます。


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境内にある「観音堂」は昭和58年に改築されました。


本堂裏には多数の石造物が並んでいます。

真ん中から折れて修復してあるため、遍照金剛(大日如来)以外は推読できません。
左右の側面に寛延や宝暦の元号が入った戒名が刻まれていますので、約250年前のもの
と推測できます。

「奉建立 廿■夜成就」「天明■年丁未年」と刻まれた月待塔。
刻まれているのは「勢至菩薩」のようですのでこれは二十三夜塔。
天明年中で干支が丁未なのは天明七年(1787)です。


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この三基は「大乘妙典読誦塔」。

傷みが激しく風化も進んでいて、何の像かは分かりませんが、半跏倚座で金剛杖のような
ものを持っています。
普賢菩薩か文殊菩薩のような気もしますが、破壊されている部分に象や獅子があったように
は見えませんので、判断できません。
三度目の訪問で、側面に刻まれた文字を無理やり「■政十一■子四月」と読んでみました。
「政」が付く元号は、寛政・文政・安政のみで、「安政」は七年しかなく、しかも「子」が付く年は
ありませんので除外できます。
「寛政」は十三年まであって「子」の付く年は四年(壬子)になり、「文政」も十三年まであって、
「子」の付く年は十一年(戊子)になります。
ここは(自分の目を信じて)「文政十一戊子四月」と読みたいと思います。
文政十一年は西暦1828年です。
そしてうっすらと「十九夜講中」という文字も見つけました。
「十九夜待ち」の守り本尊は「如意輪観音」と「馬頭観音」ですから、これは「馬頭観音」の
可能性が出てきました。
調べてみると、如意輪観音のように右膝を立てる「輪王座」の「馬頭観音像」は、日光・輪王寺
や福井の馬居寺、京都舞鶴・松尾寺などの本尊にありますが、この石仏のように半跏倚座の
ものは見たことがありません。
また行き詰まってしまいましたが、ふと“千葉県、とりわけ東総地区には「馬乗り馬頭観音」が
多い”と言われていることを思い出しました。
これまで「馬乗り馬頭観音」を見たことはありませんが、この像は半跏倚座を組んでいるので
はなく、(左足が欠損しているが)馬に乗っているのでは?
破損が激しく確認はできませんが、もしこれが「馬乗り馬頭観音」だとしたら、楽しい発見です。
※ どんどん脱線しそうなので、この続きは巻末にもう一度。(結局、分かりませんでしたが…)

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月待塔や読誦塔、回国塔、庚申塔などが混在しています。

真ん中の石塔には「大日如来」「文化九壬申年霜月吉日」と刻まれています。
文化九年は西暦1812年になります。
左の庚申塔は万延元年(1860)のものです。
右は六臂の青面金剛で、合掌する手以外は線描されていて、邪鬼や三猿もかろうじて判別
することができます。
側面の文字は「延享■■子」と読めそうですが、延享年間の干支に子があるのは元年のみ
ですので(甲子)、延享元年(1744)のものだと思われます。


「奉建立 子安観音」と刻まれた寛延二年(1749)の石仏。
両手で支え持つ赤子には補修された痕跡があります。
「荒神社」と「正等院」は入り組んだ細道の奥にありますが、ここから国道51号線へ向かう道が
三叉路になる場所に、「高札場」があります。


『桜田の薬師堂の三叉路に昔風の高札場がある。地元の人も「コウサツバ」といっている。
高札場とは、法令や禁令などを板札に墨書して、往来など人目につきやすい場所に掲示
して民衆に周知させる方法で、制札ともいう。 古代から行われたが全盛期を迎えたのは
近世である。その高札を掲示する場所が高札場で、人通りの多い場所や関所・港など全国
いたる所に設けられた。だが1873(明治6)年に時勢に適さないなどの理由で高札は廃止
となった。高札がなくなったことから各地の高札場も撤去されたが桜田では現在でも回覧板
やポスターなどをはり出すのに使われている。』 (「成田の地名と歴史」 P265)

さすがに最近は掲示板としても使われていないようで、だいぶ傷みが激しくなっています。
時代劇では高札の前に人々が集まって、ああだこうだと語り合うシーンが良く出てきますが、
昔はこの道が村のメインストリートだったのでしょうか。


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高札場の向かいには「薬師堂」があり、大きな「薬師如来像」が立っています。
如来像の首には補修痕が残っています。
周辺は小高い丘になっていて、新旧の墓石が並ぶ小さな墓地になっています。



「荒神社」に「正等院」、そして「高札場」。
車がすれ違えないような細道の奥には、静かに歴史が息づいていました。

※ 「荒神社」・「正等院」 成田市桜田586
※ 正体不明の石仏(続き)
「馬乗り馬頭観音」の可能性を探るため、この観音像が多く見られる小見川町(現・香取市)
でいくつかの「馬乗り馬頭観音」を見てみました。

旧山田町・馬頭観音堂


「房総の馬乗り馬頭観音」(町田 茂著 2004年 たけしま出版)によれば、「馬乗り馬頭観音」
は房総地方に特有の石像で、他の地方にはほとんど見られないものです。
しかも、上総地方は三面六臂、下総地方は一面二臂とはっきり区分され、下総地方でも東総
地区に限られている、非常に興味深いものです。(成田では発見されていません。)
今回見た像は全て馬口印を結んでいて、手に何かを持っているものはありませんでした。
あらためて正等院に戻り、問題の石仏を見ましたが、これが「馬乗り馬頭観音」である確信は
持てませんでした。
さて、十九夜待ちの守り本尊の中には「慈母観音」もありますので一応調べてみると、松戸の
「徳蔵院」のご本尊が、半跏像で左手に赤子を抱き、右手に未開の蓮華を持っていることが
分かりました。
顔と左半身が大きく削られていますので想像するしかありませんが、左手は赤子を抱いていて
右手は修復されたものの、蓮華が錫杖に見えるのかもしれません。
「馬乗り馬頭観音」であって欲しいのですが、「慈母観音」である可能性が大きくなりました。
馬頭観音と思ったのは勇み足だったようですが、いずれにしろ珍しい像容の石仏です。
今後、何かのきっかけで正体が判る時が来ることを期待しています。
いつもコメントをいただき、ありがとうございます。
今回の石仏は本当に謎が多く、今のところは変形の慈母観音の可能性が
高そうですが、何かの拍子に資料が見つかることもありますので、それに
期待しています。
馬乗り馬頭観音は、これまであまり取材していなかった東総地区に多く
見られる独特の石仏で、他には上総地区(木更津方面)にしか見られない
珍しいものです。これから何度か東総地区の取材も行いますので、偶然
正等院の石仏と同じ像容のものが見つかるかもしれません。