
参道の入口には、宝暦四年(1754)に建立された石柱が立っています。
正面に「南無遍照金剛第四番神宮寺」、側面に「阿彌陀如来第四十七番」と刻まれています。
(第四番、第四十七番ともに由緒は分かりません)

正面に「仁王門」が見えています。
江戸時代中頃に建立されたものです。


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阿形・吽形の二体は、大分傷んでいますが、迫力のある表情で、堂々たる姿です。

仁王門の説明板には次のように書かれています。
「仁王門は間口十尺たらずの四脚門で、木割りが細く屋根は切妻造りになっています。
木柱は一般的な円柱ではなくごひらの柱で、柱天に縦長断面の冠木をおいています。
建立は江戸時代中期(17世紀後半)とみられていますが、本柱や冠木の形式が通常の
四脚門とは違っており、また藁座を蹴放から造り出しとする珍しい造りとなっています。」
(ごひら=五平・断面が長方形の木材 冠木=かぶき・左右の柱の上部を貫く横木 藁座=わらざ・柱の根元に
巻き付ける金属や木 蹴放=けはなし・門の下に置かれる水平な木材で、敷居のようなもの)

山門をくぐると、左手に「並木の大梛(なぎ)」があります。
説明板には次のようにあります。
「梛の木は遠く中国海南島や台湾等に自生するが、南紀、四国、九州の温暖な地方に定着
した常緑の高木である。古代から神社の境内や庭園等に植樹する習わしがあり、神宮寺の
梛も同様と考えられるが、いつ頃植えられたものなのか定かではない。その昔、並木村の
住人達が相談し、代表者を五穀豊穣と村の興隆を祈願するため、お伊勢参りに向かわせた。
帰り際に一本の小さな梛の木の苗木を頂き、これを神社かお寺の境内に植えて大事に育て
よと言われ、現在のこの地に植えられた。梛の葉は多数の平行脈を有し「チカランバ」や「セン
ニンリキ」といった異名が示すように、強靭で切れにくいので大切な人とのご縁を結ぶとされる。
また二つの並んだ赤い実をつけることから「夫婦円満、相思相愛の木」といわれ、「固い契り」
の象徴とされ、大変縁起のよい神木である。」
梛の木の手前にある石碑は、明治四十年(1907)建立の「普門品供養塔」です。

境内の一角に小さな池が見えています。
ちょっと覗いただけですが、魚影は見えませんでした。

近年建て直された本堂です。
「神崎町史 史料編 近・現代編」(昭和60年)に収録されている、「明治十五年下総国香取郡
寺院明細帳」には、
「千葉県官下々総國香取郡神崎町並木村字田向根 惣持寺末新義真言宗智山派 神宮寺
本尊 阿弥陀如来 十一面観世音菩薩 由緒不詳 本殿間数 間口四間奥行四j間
客殿間数 間口五間奥行三間 仁王門 間口二間半奥行弐間 境内坪数 千百七拾壱坪」
とあり、檀徒は139人であることが記されています。
以前は四間四方の本堂と、五間・三間の客殿というで堂々たる構えであったようですが、老朽
化か損傷か、どのような経緯で建て直されたのかは分かりません。
また、「千葉縣香取郡誌」(大正十年)には、次のような記述が見られます。
「妙法山神宮寺 同町大字並木郷に在り域内千百七十一坪眞言宗にして阿彌陀如来佛及
十一面觀音を本尊とす側に觀音堂あり寺傳に曰ふ僧空海彌陀觀音勢至三尊の像を携えて
東國に至り遂に此地に來り勝地を卜す」
「後慈覺大師之を草創して庵室を營むと往時は神崎神社の別當寺にして同社藏承久三年
六月廿四日下文に下總國神崎御領神官沙汰人等所可早宛行中臣廣勝神宮寺領田云々の
文あり其舊寺なる以て知る可し」
「徳川氏の時觀音堂領十四石余を給し往時又神崎神領の内より五石を寄せられたりしが社
等の區別ありしより漸舊時の觀を失せり」
寺伝は、空海(弘法大師)が開山したかのようにしているので、延暦・大同・弘仁・天長年代
あたりの平安初期から約1200年の歴史を有していることになります。
次の慈覚大師(円仁)が庵を営んだのは空海の数十年後でしかありません。
文書が残っているとする承久三年は西暦1221年で、これでも約800年前という、まさに
「其舊寺なる以て知る可し」ですね。
最後の文は、徳川氏の手厚い保護が、明治になって「神仏分離令」により外され、衰退した
ことを言っています。
「神崎町史」に徳川家よりの朱印状が掲載されています。
天正十九年(1591)の家康から始まり、元和三年(1617)の秀忠、寛永十三年(1636)
の家光、寛文五年(1665)の家綱、貞享二年(1685)の綱吉、享保三年(1718)の吉宗、
延享四年(1747)の家重、宝暦十二年(1762)の家治、天明八年(1788)の家斉、天保
十年(1839)の家慶、安政二年(1855)の家定、万延元年(1860)の家茂などです。

本堂のガラス越しに厨子に納まった「阿弥陀如来像」が見えています。
金色に輝いた柔和なお顔です。

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あちらこちらに千葉氏の九曜紋が見えます。
「千葉氏」と「神宮寺」に関する資料は今のところ目にしていませんが、この寺の裏山には
その昔、千葉一族の神崎氏の城(神崎城)がありましたので、「神崎氏」と「神宮寺」とは
深い関係があったことが想像できます。


境内の外れにとても珍しい猿の石像がありました。
紀年銘も説明板もありませんが、それほど古いものではなさそうです。
三猿といえば「見ザル・聞カザル・言ワザル」ですが、この三匹の猿のポーズは違います。
大きな猿が小さな二匹の猿を抱きかかえ、二匹の猿はそれぞれの掌を合わせて合掌する
形になっています。

梅の古木は早くも蕾を開き始めています。


裏山の中腹に、鮮やかな朱色の「観音堂」の屋根が見えています。


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石段の下にある常夜燈には、「文化九壬申年四月建立」と刻まれています。
文化九年は西暦1812年になります。
手水盤には、「元文五庚申」の文字が読めます。
元文五年は、西暦1740年になります。

石段の中ほどに小さなお堂や石碑が並んでいます。
左のお堂は地蔵堂、右は子安堂です。
真ん中の宝塔は宝暦十二年(1762)のものです。


子安観音には「文化十一甲戌」と記されています。
文化十一年は西暦1814年になります。

「青面金剛」と刻まれていますが、年代は不詳です。

58段の石段を登ると、神崎町の指定文化財となっている「観音堂」があります。
この「観音堂」は元禄年間の建立と伝えられています。


説明板には次のように書かれています。
「神宮寺は、神崎神社の別当寺として創建されたもので近世には、四国八十八ヶ所を移した
第九番札所として近郷庶民の信仰を集めてきた。観音堂は、初め石段の下にあったが、のち
現在地へ移したと伝えられている。柱総間二十六尺弱の方三間の堂で屋根は寄棟造とし、
一間向拝を設ける。元来は茅葺であるが、近年になって鉄板を被せている。三間堂としては、
規模が大きく建ちが高い。軸部と軒は和様で組み物を本格的な禅宗様とするが詰物の間に
蟇股を入れる手法はあまり例を見ない。向拝や外軸の複雑な架構は江戸時代中期以降、特に
関東地方の仏堂に多く用いられた形式であり、また外陣を吹放しとするのは大衆参詣の便宜
をはかったものであり時代の特徴をよく示している。寺蔵文書によると、元禄十年(一六九七)
頃の建立といい、扁額には宝永五年(一七〇八)の刻名、その下の欄間彫刻の裏面には元文
二年(一七三七)の墨書がある。」
約320年前に建立されたお堂は、今もしっかりとした木組みを見せています。

失礼して中を覗かせていただきましたが、厨子の周りは暗くてほとんど見えません。

観音像と四天王の「多聞天」でしょうか?

四天王の「増目天」?
厨子の中にある「木造十一面観音立像」は、11世紀後半から12世紀のころに造られたと
されている像高155センチの等身大の立像で、千葉県の有形文化財に指定されています。
千葉県公式観光物産ガイドの「まるごとeちば」には、
「カツラ材の一木造りで彩色が施してあったが、現在は素地を表しています。左手は華瓶を
持つために肘を曲げ、右手は下げて数珠をとっています。十一面観音としてはごく一般的な
スタイルであるが、天冠台には文様はなく、頭髪も髪の筋などは刻まない単純な平彫りです。」
と、「十一面観音立像」が紹介されています。


お堂には何枚もの奉納額が掲げられていますが、いずれも観音様を拝む人々の絵です。
構図は中里の「楽満寺」本堂にある、「女人観音拝み絵馬」にそっくりです。



観音堂の裏を登る山道があります。
山の頂上には古墳があると聞きましたので、がんばって登ってみます。
途中で折り返すように曲った急坂を400メートルほど登った先に「中ノ城古墳」があります。
神崎城の中の城があった所です。

急坂を登り切って、平坦になった所で何かの気配がして顔を上げると、タヌキがいました。


逃げもせず、こちらを見ながら一歩、二歩と近づいてきます。
7~8メートル位の位置で立ち止まり、またこちらをじっと見ています。

“今年はエサはたくさんあるかい?”“ここは君の縄張りかな?”“ちょっと通してくれる?”
当然タヌキは無言でしたが、何か会話ができたような気がしました。

「中ノ城古墳」はこの地方最大の前方後円墳で、古墳時代後期のものとされています。
昔、この辺りが「香取の海」と呼ばれる内海であった頃にも、この場所は水面上にあった
のでしょう。
小さな丘のような古墳の上には、木が生い茂っているほかは何もありません。

遠く、神崎の家並みが見えています。

観音堂に戻ってお堂を一回りすると、7基の石仏群がありました。
左から寛文八年(1668)の観音菩薩、元禄四年(1691)の如意輪観音(十九夜月待塔)、
宝永六年(1709)の廿日夜月待塔、明和八年(1771)の如意輪観音(十九夜月待塔)、
天明元年(1781)の如意輪観音(十九夜月待塔)、右の2基は年代不詳です。


天明元年と明和八年の十九夜月待塔。
元禄四年のものと同様に、十九夜の本尊の如意輪観音が彫られています。



千葉県指定有形文化財 の「神宮寺文書」に関する説明板には次のように書かれています。
「神宮寺に所蔵されている「大般若波羅密多経」の写経は、全六〇〇巻のうち約六〇巻を
欠くだけで、大部分が現存している。この写経は、貞治二年(一三六三)に、下総国塩古郷
(現在の佐倉市、八街町)とその近在の僧によって筆写され、塩古六所宮に奉納されたもの
である。写経の大半の巻末に奥書が記入されており、この奥書から当時の寺院や僧侶の
文化的活動の実態、信仰圏等が知られる。中世史料の乏しい本県においては稀に見る好
史料であり、神宮寺所蔵の文書のうち、最も価値が高いものである。」
650年も前に筆写された「大般若波羅密多経」が、どのような経緯でこの寺に収蔵されること
になったのでしょうか?
なぜ観音堂はわざわざ現在の高い場所に移されたのでしょうか?
追いかけたい謎が残る「神宮寺」です。

※ 「妙法山神宮寺」 神崎町並木642