した神社で、「熊野神社」、「熊野社」、「十二所神社」などの社名で全国に三千社余りもある
と言われています。
成田市内にも、宗教法人として記載されている「熊野神社」は八社もあります。
その中から今回は、西和泉の「熊野神社」を訪ねます。

細い坂道を下る途中に「熊野神社」への石段があります。


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控柱のある立派な台輪鳥居をくぐると、石段の上に拝殿の屋根が見えてきます。

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「文政十一戊子」と刻まれた御神燈。
文政十一年は西暦1828年になります。
右に写っているいるのは「熊野神社改修事業竣工記念之碑」で、
『悠久の地「西和泉」は天和二年(一六八二)和泉村より分かれ現在に至る・・・』で始まり、
改修が平成14年に拝殿屋根の銅版葺き替え工事をもって終了したことが記されています。
旧和泉村が東西に分村となった事情は分かりませんが、明治十六年(1883)の「下總國
下埴生郡東和泉村誌」には次のようにさらりと記されています。
「東和泉村創置ノ年號干支詳ナラスト雖モ、古老ノ口碑ヲ傳ヘ聞ニ、舊上和泉村ニテ平親王
将門ノ領、其後千葉之助常胤領、建仁元年ヨリ天正十八年マテ凡三百九拾年間領ス。其後
元和年中ヨリ寛永十年五月マテ居城当國印旛郡佐倉土井大炊頭領ス。夫ヨリ佐倉領ト云。
寛文元年松平和泉守領ノ時領主ノ名ヲ憚リ當村日出城ノ名有ヲ以テ日出村ト改稱ス。天和
二年分村トナル。字西方ヲ西和泉村ト改、字東方ヲ東和泉村ト称シ是本村ナリ。」
言い伝えのように、平将門領であったとすれば1000年以上も前に「和泉村」としてこの地に
あり、寛文元年(1661)に村名と同じ名を持つ領主を戴くこととなったために「日出村」と改称
し、天和二年(1682)に東西の和泉村に分村した、とありますから、この地は古くから人々の
営みがあったことが分かります。
(西和泉村の近世の出来事に関しては「成田市史 中世・近世編」の「第四章近世村落の変質」
に詳しく記載されています。P585~591)

この石碑には大正十一年(1922)のもので、「村社 熊野神社」と刻まれています。

境内右手の立派な手水舎と手水盤。
手水盤の年代は読めませんでした。

「千葉縣印旛郡誌」中の「中郷村誌」は、「熊野神社」について次のように記述しています。
「西和泉村字廣にあり熊野加武呂命を祭る創立年代は詳ならざれども天正年中造謍の事
ありとの傳説あり正保元年庚申五月社殿を改造す元文二丁巳年二月奉納の額面安永九年
九月奉納の谷文晁筆の繪馬等を存せり社殿間口四尺奥行四尺拜殿建坪六坪幣殿建坪二
坪鳥居高一丈二尺横八尺八寸冠木一丈四尺手水舎建坪一坪境内四百二十坪官有地第一種
あり神官澤田總右衛門にして氏子二十七戸を有し管轄廰まで十里五町あり陰暦正月十日及
十一月十五日を祭日とす境内遥拜所あり由緒不詳間口一丈奥行一丈五尺あり神社明細帳村誌」
天正年間(1573~1592)に造営されたとすると、420年以上前のことになります。
この天正年間は織田信長と豊臣秀吉によって天下が統一された時代で、信長の安土城と
秀吉の伏見城(桃山)から、「安土桃山時代」と呼ばれることもあります。
改造された正保元年は1644年ですから、約370年前のことになります。

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拝殿の壁面に三枚の掲額があります。
いずれも描かれていた絵や文字は消えてしまっていますが、このうちのどれかが江戸末期の
日本画の重鎮・谷文晁の描いた絵馬なのでしょうか?
文晁の絵画はいくつも重要文化財となっている大変貴重なものですが、贋作が多いことでも
知られていますので、この保存状態からするともともと真贋に疑問があったのかも・・・。
でも、安永九年は西暦1780年、もう一つの掲額の元文二年は西暦1737年ですから、約
280年や240年前の絵馬が、例え贋作の疑いがあったとしても、よもやこのような雑な扱い
を受けることはないと思います。
きっと、どこかに大切に保管されていると信じたいですね。
神社名のみ書かれた神額





流造の本殿には派手さは無いものの、懸魚などに凝った彫刻が施されています。


屋根には千葉氏の「九曜紋」があります。
この一帯は千葉氏一族の大須賀氏の勢力圏でした。
大須賀氏の家紋は七曜紋ですが、一部には九曜紋を使った者もいたようです。
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「鹿島神宮」「香取神宮」「権現様」の新しい三基の社号表が目に入ります。
「権現」とは、本地垂迹思想による神号で、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」ことを示して
いますが、明治に入って神仏分離令が出されたことによりその多くが廃され、「権現」の神号
は本来の神社の祭神に戻されました。



境内には小さなお社が五つあります。
いずれも社号を示すものがありません。


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ご祭神の「熊野加武呂之命」(クマノカムロノミコト)とは、熊野大社の主祭神の「熊野大神
櫛御気野命」(クマノオオカミクシミケヌノミコト)の別名で、「櫛御気野命」とは「素戔男尊」
(スサノオミミコト)の別名とされていますので、この神社のご祭神である「熊野加武呂之命」
とは「素戔男尊」のことになります。(神話の世界には諸説あり、異論もあるようです。)


鳥居のあたりは大木に覆われて昼間でも薄暗く感じます。
「成田市史 中世・近世編」に、この「熊野神社」に関する記述があります。
『西和泉村の熊野神社は創建不詳だが、天正年間に造営したといわれている。安永五年
(一七七六)の「西和泉村指出明細帳」には次のように記されている。
一 熊野権現壱社 宮弐間四面 拜殿長三間横二間
社地長弐拾四間横拾四間除地 守泉寺幷出羽東西和泉檀家惣持支配
是ハ西和泉村東和泉村両村鎮守ニ御座候、別当守泉寺社人大竹出羽 』
これにより、この「熊野神社」は西和泉村と東和泉村の両村の鎮守で「守泉寺」が別当寺で
あったことが分かります。(守泉寺は明治初期に廃寺)
前述のように、天和二年(1682)にそれまでの和泉村(日出村)は東西に分村されましたが、
分村の前からあったこの神社が、両村の絆の象徴とされていたのでしょう。

※ 西和泉「熊野神社」 成田市西和泉1
氷川神社は全国かなと思ったら東京と埼玉中心にあるんだと今分かりました。
コメント、ありがとうございます。
熊野神社の他にも、稲荷神社、浅間神社などは全国的ですね。
他の神社に合祀されているものを含めたら、数えきれない数になるでしょう。
一方で、地域に特有の神社もあるようで、成田近郊では、「麻賀多神社」が
この地域特有の神社として有名で、台方と船形の麻賀多神社は格式の高い
式内社になっています。