古い墓地の多くには、その片隅に無縁仏となった墓石が集められている一角があります。
お墓を守る人がいなくなると、無縁仏となってひとまとめにされ、墓石は廃棄されたり、一ヶ所
に積み上げられたりします。
人の移動が激しく、核家族化が進む現代では、実質的に無縁化するお墓が増加しますが、
江戸時代にも飢饉などの災害によって一家が離散し、無縁墓が発生することはありました。
跡取りがいなくなってしまうこともあったでしょう。
そして、明治・大正・昭和・・・と、長い時間の経過が無縁墓を増やし続けてきました。
限られた墓地では、こうした無縁墓は整理される運命にあり、うち捨てられることは免れても、
無縁塚として墓石を積み上げられることになります。
花を手向ける人もいない無縁塚では、物言わぬ墓石がただただ風雨に晒されています。
(栄町矢口の一ノ宮参道脇・矢口区共同墓地)
(高岡の真城院)
*****
(下金山の竜金寺)
(八代の善勝院)
無縁塚の中に紛れて、あるいは代々続いている旧家の墓地の中に見え隠れする幼子の
墓石には、特に心惹かれるものがあります。
名古屋の「常願寺」裏の墓地では、多くの子どもの墓石を見ることができます。
「跬行童女」「幻泡善孩子」と彫られたこの小さな墓石からは、可愛かった我が子の面影を追う
親の哀しい心情が伝わってきます。
「跬」(き)とは片足を一歩前に出すさまを表わす言葉で、「跬行」とは多分、ヨチヨチ歩きのように、
まさに歩き始めようとしている様子を思い出して付けたのでしょう。
「幻泡」とは、<まぼろしとあわ>すなわち<はかないもの>を表わしてます(「泡幻」(ほうげん)
という言葉があります)。
「孩」(がい)とは、幼児の笑い声を表わす言葉で、「孩子」は2~3才ごろの幼児を愛おしむ
感情のこもった呼びかけです。
風化で年代は不明ですが、補修の跡が見られます。
「○○阿童子」 「安永○戌年二月」と読めます。
安永の干支に戌があるのは七年(1778)ですから、約240年前に亡くなった子供の墓石です。
菩薩像の顔は風化というより削られたような感じです。
童子(童女)とは子どものことですが、仏教用語としては、仏の王子すなわち菩薩を指す言葉で
あったり、菩薩や明王などの眷属につける名前であったりりします。
そして、15才ごろまでに亡くなった子どもの戒名としても使われることがあります。
向かって右に「妙空童女」、左に「雪然童女」と刻まれた墓石。
元号は見当たりませんが、「妙空童女」は四月、「雪然童女」には十二月と記されています。
「雪然」とは、<雪が降るように、白鷺が飛びおりるさま>(「旺文社・漢和辞典第五版)のことで、
「せつぜん」と読みます。
初夏と冬に亡くなった二人の娘を偲ぶ、親の哀しみが伝わってきます。
この墓石の戒名はどうしても読めません(二文字目は覚の異体字だと思うのですが・・・)。
「天保十己亥五月三日」と記されています。
天保十年は西暦1839年、十二代将軍家慶の時代で、この年の五月には高野長英・渡辺崋山
などが、幕府の鎖国政策を批判したため、獄に繋がれた「蛮社の獄」事件がありました。
「○○童女」とありますから、女の子の墓石です。
幡谷の薬師寺境内の一角で見つけた幼子の墓石です。
「夢幻童子」と刻まれています。
享年は(はっきりとはしませんが)「十一月廿七日 灵位」とのみで、元号が見当たりません。
(「灵」は「れい」と読み、”霊・みたま”のことです)
「夢幻」を辞書で引くと、「夢とまぼろし・はかないこと」とあります。
如意輪観音像が彫られたこの墓石には、母親と思われる戒名も刻まれています。
左に「妙忍信女」と刻まれ、「享保十一丙午年」の文字が見えます。
享保十一年は西暦1726年、八代将軍吉宗の時代です。
「自分の墓には、幼くして亡くなった我が子を一緒に」とでも言い残したのでしょうか、子を想い
続けた、290年以上昔の母親の気持ちが伝わってくるような墓石です。
西大須賀の「昌福寺」の墓地で見つけたこの墓石には、「性譽浄心信女(?)」「禅譽了恵㳒子
(㳒は法の異体字)」「香○童女」と三つの戒名が刻まれた墓石があります(○は顔か韻のよう
な気がします)。
側面には、それぞれの享年と思われる日付が記されています。
「性 寛政十三酉年四月○○」「禅 文化十三子○○」「香 文化十二亥年十月○○」と読めます。
寛政十三年は西暦1801年、文化十二年・十三年は1815・1816年になります。
寛政十三年から文化十三年の15年間に、この家族にどんなことがあったのでしょうか?。
寛政十三年に母親が女の子のお産の際に亡くなり(当時はお産で亡くなる母親は多かった)、
文化十二年には十四歳になった娘も亡くなって、その翌年には父親も亡くなってしまった・・・。
この墓石を見ながら、こんな想像をしてしまいます。
「夢幻童子」「幻泡童子」と刻まれた墓石は、外柵に囲われた立派なお墓の外に、ひっそりと
隠れるように立っていました。
両方の戒名の下には「享保八卯○○」と記されています。
二人が相次いで亡くなったとしたら、親の嘆きはいかばかりであったでしょうか。
「妙本浄定尼」「元文元丙辰九月〇〇」と刻まれた墓石の左側には、「穐月童女」という戒名も
併記されています。
「穐」は秋を指す言葉で、この幼子は秋に亡くなったのでしょう。
松崎の「善導大師堂」の奥にある無縁塚でも、いくつもの幼子の墓石を見つけることができます。
「妙霜童女」と刻まれた横に、「天保十亥年十一月十二日」とあります。
180年前の、霜の降りた初冬の寒い日に亡くなったのでしょうか。
この墓石には「慈雲童子」と刻まれています。
風化と苔で年号が読めませんが、「延享」と読めるような気がします。
延享だとすると、270年以上も前の墓石ということになります。
「幻紅童女」「享保六丑年」と読めます。
享保六年は西暦1721年、八代将軍吉宗の時代で、約300年も前の墓石です。
「秋月妙蓮信女」と刻まれた脇に、「夢幻童子」の戒名が並んでいます。
薬師寺の夢幻童子の墓石と同様に、母が幼くして逝った我が子と一緒に葬ってくれと言い残し
たのでしょうか。
はっきりとしませんが「天保」の元号が見えるような気がします。
他にも「恵光童子」「幻心童女」「幻性童子」「春覺童女」などの戒名が無縁塚の中に見えます。
奈土の「昌福寺」の墓地には、「梅薫善童女」「妙菖善童女」と刻まれた地蔵菩薩像の墓石が
ありました。
梅の薫りが漂う早春と、菖蒲が咲く初夏に、相次いで幼い娘を亡くしたのでしょうか。
美しい二つの戒名に、親の切ない哀しみが込められているような気がします。
飯岡の永福寺の無煙塚でも子供の墓石が多く見られます。
「幻覺童子」「宝永四亥年五月十五日」と刻まれたこの墓石の上部は欠けていますが、
わずかに「禅定尼」の文字が見えます。
この幼児の母親なのでしょうか。
宝永四年は西暦1707年、富士山が史上最後の大噴火(宝永大噴火)を起こしました。
ウメノキゴケに覆われたこの墓石には、「幻信童子」「泡〇童子」「〇〇童女」の三人の戒名。
いずれも享和の元号が記されているように見えます。
「享和」の時代は四年あまりしかないので、わずか四年の間に二人の男児と一人の女児を
失った哀しい親がいたわけです。
「一向孩女」と刻まれたこの墓石は、無煙塚の脇に無造作に放置されているようでした。
側面に「〇和十二年八月」と記されています。
〇に該当しそうな元号は明和くらいですが、明和に十二年はありません。
墓石も風化があまりみられませんので、どうやらこれは「昭和」ということのようです。
わずか80年余りのあいだに無縁仏となった「一向孩女」が哀れです。
しきたりや宗派の決まり事などで、縛られる成人の戒名に比べて、幼児の戒名には制約が
少ないようで、早逝した我が子への深い想いを表わした、美しくも哀しい文字が並びます。
そして、墓石の多くには地蔵菩薩が刻まれています。
地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六道を巡りながら、人々の苦難を身代り
となって受ける(代受苦)の菩薩ですが、子供の守護尊ともされています。
賽の河原で、獄卒(鬼)に責められる子供を地蔵菩薩が守る姿は、中世のころより仏教歌謡
「西院河原地蔵和讃」を通じて広く知れ渡り、子供の供養における地蔵信仰を作り上げました。
幼い子供が親より先にこの世を去ると、幼かったためにまだ何の功徳も積んでいないので
三途の川を渡ることができず、賽の河原で鬼のいじめに遭いながら石の塔婆作りを永遠に
続けなければならないと言い伝えられていました。
その賽の河原に頻繁に現れては子供達を鬼から守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、
成仏への道を開いてあげるのが「地蔵菩薩」なので、親たちは幼子の墓石にすがるような
想いで地蔵菩薩像を彫ったのでしょう。
(「西院河原地蔵和讃」にはいくつものバージョンが伝えられていますが、代表的な和讃を
追記に載せておきます。)
庶民がお墓を持てるようになったのは江戸時代に入ってからで、現在のような「○○家の墓」
というような形になったのは江戸時代も終わりに近づいたころからです。
それまでのお墓は個人単位で、墓石も死者の数だけ建てられました。
多産・多死であった江戸時代は、子どもが成人になるまで生きられる確立は50パーセント
程度であったと言われています。
【 「七つまでは神のうち」という言葉に示されているとおり、死産児や生後間もなくなくなる
乳幼児が多かった江戸時代には、数え年七歳になるまでは人間とは見なされず、葬儀が
行われないこともあった。】
【 大名家など特殊な事例を除き、庶民が子どもの墓石を建てるようになるのは、成人より
遅れ、江戸中期以降である。】 (「墓石が語る江戸時代」 関根達人著 P134)
幼くしてこの世を去り、やがて無縁仏となって墓石を無縁塚に積み上げられ、弔う人も無く、
長い年月を雨風に打たれている・・・。
哀れで、愛おしくもある、幼子の墓石。
それでも、墓石すらなく土に還った大多数の幼子たちに比べれば、まだ幸せなのでしょうか。
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如意輪観音像の多くは六臂の坐像または半跏像で、六本の手のうちの二本の手に如意
宝珠と法輪とを持っています。右第一手は頬に当てて思惟相を示し、第二手は胸前で如意
宝珠を持ち、第三手は外方に垂らして数珠を持ちます。左第一手は掌を広げて地に触れ、
第二手には蓮の蕾を持ち、第三手は指先で法輪を持ちます。
なお、立像はとても珍しく、福岡県小郡市・如意輪寺の「木造如意輪観音立像」や茨城県
那珂市の「木造如意輪観音立像」などが知られています。
石仏としては、そのほとんどが二臂の半跏像で、右手で思惟の形をとり、左手は左膝に置
いていて、宝珠や法輪などは持っていません。
そして、石造如意輪観音像は、十九夜講の本尊として造立されたものが多いようです。
廃寺「長見寺」跡の如意輪觀音像
印旛郡栄町の利根川べりに、延長二年(924)創建の「一ノ宮神社」があります。
【一之宮神社 祭神 経津主命(ふつぬしのみこと)
本殿・亜鉛板葺流造二.二五坪、拝殿・亜鉛板葺寄棟造九坪
境内神社 浅間神社 境内坪数 九二〇坪 氏子 五五戸
由緒沿革 延長二年九月十九日に奉斎】 (「千葉県神社名鑑」 昭和62年)
実に約1100年もの歴史を有する古社に隣接して、廃寺となった「長見寺」はありました。
その「長見寺跡」に立つスダジイの根元に、この「如意輪観音像」は佇んでいます。
「妙●禪定門霊位」「寛文九巳酉正月廿日」の文字が読めます。
寛文九年は西暦1669年、四代将軍徳川家綱の治世です。
禅定門と刻まれていますから、350年前に亡くなったどなたかの墓石であったのでしょう。
廃寺となった長見寺の跡地には、十数基の石仏や墓石が取り残されています。
「千葉縣印旛郡誌」(大正2年)に、「長見寺」に関する記述がありました。
【矢口村字花輪にあり天台宗にして龍角寺末なり如意輪觀世音にして由緒不詳庫裏間口
八間奥行五間境内一千六十坪官有地第四種あり住職は觀音寺住職は弘海尭潤にして檀徒
五十二人を有し管轄廳まで十一里二十町なり寺院明細帳】
「印旛郡栄町寺院棟札集成」(平成6年)には次のような記述があります。
【長見寺(天台宗) 如意輪観世音 本堂七間×五間半 庫裏八間×五間 由緒不詳。
明治三十九年本堂大破に付き取崩し願い出。現在建物はなく、長見寺は廃寺となっている。】
穏やかな優しい表情です。
*******
「禪定門」の戒名を持つこの墓石の主は、そこそこの地位にあった人物だったと思われます。
墓石の立っている位置と向きからは、もともとこの場所に葬られたのではなさそうです。
寺が取り壊されたとき、墓石だけが木の根元に移され、時が経ち、木が成長するにつれて、
側面を押されて徐々に傾いてきたのでしょう。
右手を右頬にあて、左手を左膝において、輪王座を組む。
長い、長い時の流れのなかで、静かに物思いにふけっているような、そっと何かに聞き耳を
たてているような・・・。
この如意輪観音像は二年半前に見かけたのですが、特に珍しい像容でもなく、言ってみれば
”ありふれた”石仏なのに、何故か心に残る姿でした。
二年半前の記事 (ここをクリック) → 一ノ宮神社と長見寺跡
「長見寺跡」 印旛郡栄町矢口1
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青面金剛(しょうめんこんごう)は、青面金剛明王とも呼ばれ、中国の道教思想に由来し、
日本の民間信仰である庚申信仰に結びつきました。
像容は、三眼の憤怒相で四臂、それぞれの手に、三叉戟、棒、法輪、羂索を持ち、足下
に二匹の邪鬼を踏まえ、両脇に二童子と四鬼神を伴う姿で現されます。
実際に目にする像は、邪鬼を踏みつけ、六臂(二臂・四臂・八臂の場合もあります)で、
法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラ(人間)を持つ忿怒相で描かれることが多いようです。
彩色される時は、その名の通り青い肌に塗られます。
前回の「首無し地蔵」があった神光寺から、ほんの50メートルほど行くと、道端の小高い場所
に二基の青面金剛像が立っています。
*******
左側の大きい金剛像は六臂で、下部には猿を配しており、「奉侍諸願成就処」「同行十九人」
と記されています。
享保六年(1721)の紀年銘があります。
前年の享保五年(1720)に江戸で大火があり、それを機に江戸火消しが組織されたり、翌年
の享保七年には小石川養生所が設置されたりした、八代将軍徳川吉宗の時代です。
江戸町奉行の大岡越前守や赤ひげ小川 笙船など、時代劇で多く取り上げられる人物が活躍
していました。
右側の金剛像は四臂で、紀年銘は無く、「長命長運」「区内安全」の文字が刻まれています。
こちらの青面金剛像は六臂のうち、中央で二臂が合掌し、左手上腕には法輪、下腕には弓を
持ち、右手上腕には三叉戟を、下腕には矢を持っています。
足許の両脇に鶏を配し、邪鬼を踏みつけています。
さらに、「見ざる・言わざる・聞かざる」の三猿を刻む形で、額には第三の眼があります。
この第三の眼と鼻の周りは無残に削り取られていますが、残された部分から、削られる前は
キリッとした三眼の忿怒相であったことが想像できます。
こちらは比較的新しい時代のものに思われます。
「区内安全」の文字や、「野毛平区 沢田○平 八十七才」などの文字から、明治二十二年の
町村制施行によって、この地区が下埴生郡中郷村野毛平となって以降の建立であろうと推測
することができます。
四臂像で、左手上腕に月輪、下腕には錫杖を持ち、右手上腕には金剛杵を、下腕には羂索
を持っています。
珍しい組み合わせですが、いずれも青面金剛の持物としてたまに見ることがあるものです。
月輪は、庚申講が夜を徹して行われることから、日輪と共に刻まれることがあります(この像
の隣の金剛像には、頭上の左右に日輪・月輪が刻まれています)。
右手上腕は経巻のようにも見えますが、刻まれた紋様から金剛杵であろうと推理しました。
錫杖、羂索は比較的良く見られますが、この四つの組み合わせは見たことがありません。
第三の眼も確認でき、顔面を削られた痕もないことからも、この像は、廃仏毀釈の被害を
受けたと思われる隣の像よりずっと後の時代に建立されたものであることが分かります。
二基の青面金剛の背後には空き地が広がっています。
ここにはかつて「東陽寺」というお寺がありました。
初めて訪ねた4年前には、すでに荒れ果てた寺でした。
(2015年5月 撮影)
「東陽寺」は日蓮宗のお寺で、山号は「妙照山」。
小菅の「妙福寺」の末寺で、創建は永禄九年(1566)になります。
【一ヲ東陽寺ト云フ。位置村の中央ニアリ地坪五百廿坪、日蓮宗妙照山ト号ス。同郡小菅村
妙福寺ノ末寺ナリ。永禄九年丙寅九月廿五日、中道院日善開基創建スル所ナリ。】
(「下総國下埴生郡野毛平村誌」 明治十九年)
永禄三年に織田信長が桶狭間で今川義元を討ち、同四年には上杉・武田の川中島合戦が
繰り広げられ、同八年には「永禄の変」で将軍・足利義輝が暗殺されるなど、血なまぐさい
戦国時代の真っただ中に東陽寺は開山されました。
その、450年もの歴史を有するお寺が、荒れ果てていました。
******
***********
そして今、崩れかけていた東陽寺は消えてしまいました。
崩壊の危険があるので、取り壊されたのでしょう。
雑草もあまり生えていないので、つい最近更地にされたようです。
境内の奥の墓地は竹と雑木の中に沈んで行きます。
成田空港の開港はここ野毛平地区の住民の生活を一変させました。
昭和46年に騒音地域となって、集団移転地区に指定され、新たに造成された米塚団地や
近隣地域に多くの人々が移転して行きました。
(2015年5月 撮影)
人々の往来がなくなった山道。
背後にあった450年の歴史あるお寺も消えてしまった山道で、二基の青面金剛は、いま
三つの眼で何を見ているのでしょうか。
「妙照山東陽寺」 成田市野毛平614-2
釈迦の入滅後、弥勒菩薩が悟りを開くまでの間(五十六億七千万年)、この世には仏が
いない無仏時代が続きます。
この無仏時代に六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)を巡って衆生の教化・救済を
行うとされているのが地蔵菩薩です。
袈裟を纏い、剃髪で、左手に宝珠を捧げ右手には錫杖を持つ像容が一般的です。
この世で徳を積むことなく幼くして亡くなったため、賽の河原で鬼にいじめられている子供達
を救うとも言われます。
今回は、野毛平の神光寺にポツンと立っている、首を落とされたお地蔵様です。
***********
全く人の気配がない野毛平の山道に、荒れ果てた神光寺を見つけたのは四年前のことでした。
境内への入り口に、ポツンと地蔵菩薩の石像が立っていました。
その姿は、私の胸に小さな衝撃を与えるものでした。
明治初めの廃仏毀釈の嵐の中で首を落とされたことは、疑う余地が無いでしょう。
首だけでなく、宝珠を持つ左手と錫杖を持つ右手をも落とされた無残な姿は、受けた仕打ちに
150年経った今も呆然として立ち尽くしているかのようでした。
誰が乗せたのか、セメントで作られた間に合わせの頭部には、線描のような目鼻が付けられて、
その表情がまた、納得できない哀しみを表しているように見えました。
(平成27年5月撮影)
四年ぶりに見た地蔵菩薩には、セメントの頭部がありません。
******
***********
誰かがいたずらで持ち去ったのでしょうか。
気のせいか、砕かれた宝珠と錫杖の痕も少し風化が進んだように思えます。
「神光寺」は天台宗のお寺で、山号は「天照山」。
ご本尊は「阿弥陀如来」です。
江戸時代にはすぐ隣にある「鎮守皇神社」の別当でした。
『二寺アリ。一ヲ神光寺ト云ヒ、村ノ稍中央ニ位シ、地坪四百一坪、天台宗天照山ト号ス。
同郡山之作村円融寺ノ末派ナリ。開基創建何レノ年号月日ナルヤ詳ナラス。』
「下総國下埴生郡野毛平村誌」には、この「神光寺」について、こう書かれています。
また、「成田市史 中世・近世編」には、「神光寺」について次のように記されています。
『野毛平村の神光寺は天照山と号し、本尊は阿弥陀如来である。鎮守皇神社(神明宮)の
別当寺であるため、同神社境内に本堂と薬師堂を置いていた。創建など明らかでないが、
寛文六年(一六六六)の神社再建時の棟札に「再造天照太神宮社一宇 香取郡大須賀庄
野毛平鎮守 地頭松平民部正 当時社務別当神光寺現住寛乗」と、寺名と住職寛乗の名前
がみえる。』
『なお、棟札にある「地頭松平民部正」とは、当時野毛平村の領主であった旗本松平(形原)
民部少輔氏信のことである。天保六年(一八三五)本堂を再建した。』 (P781)
神光寺は、少なくとも350年以上の歴史があるお寺ですが、残念ながら本堂も境内も荒れ放題。
野毛平地区は、成田空港の騒音指定地域となって、住民の大半がこの地を離れたのですが、
檀家・住民が離れていった寺が、わずか数十年でこれほどまでに荒廃するとは・・・・
台座には、「元文三年戊午」「十五夜念佛開眼」「八月吉日 施主二十一人」と刻まれています。
十五夜念佛講による月待塔の刻像塔で、元文三年は西暦1738年、約280年前のものです。
月待塔には文字塔が多いのですが、これはめずらしい刻像塔です。
月待とは、十五夜、十六夜、十九夜、二十三夜などの特定の月齢の夜に、仲間(講中)が集まり、
飲食をしたりお経などを唱えて月を拝み、悪霊を追い払うという宗教行事です。
月待行事は室町時代から確認されていて、江戸時代の文化・文政のころ全国的に流行しました。
ここ野毛平では、全国的な流行よりだいぶ早い時期から月待行事が行われていたようです。
台座の脇に石ころが・・・
笹や枯葉を払い、付いた泥を拭うと、それは地蔵菩薩の頭部、あのセメントの頭部でした。
いたずらではなく、風か地震によって落ちてしまったのでしょう。
そっと乗せてみました。
四年前のあの顔です。
人間の行いの理不尽さを哀しむような、そんな表情です。
泥はやがて雨が洗い落としてくれるでしょう。
この境内に再び人々が戻ってくることはないでしょうが、本堂が朽ち果て、境内が竹や雑木に
覆われるまで、地蔵菩薩像はここに立ち続け、時の流れを見つめているのでしょう。
「天照山神光寺」 成田市野毛平497
県道44号線の沢のバイパス沿い、「道の駅くりもと」の隣に、気になる看板があります。
「かくれ卵塔」とは何でしょう?
「卵塔」(らんとう)とは、主に僧侶の墓塔として使われる石塔のことで、無縫塔(むほうとう)
とも呼ばれます。
香取市大戸・浄土寺の卵塔
成田市所・長泉寺の卵塔
「日講聖人遭難之墓」と書かれた小さな手書きの案内板が道路に向かって立っています。
「安國院ト号ス字恵雄後ノ六聖人ノ一人啓蒙逑著京都於賀氏日習ニ従イ中村壇林等ニ学ビ
後ニ野呂壇林ニ学徒ヲ養成ス幕府ノ土水供養ヲ拒ミ寛文六年五月廿七日日向ノ国佐土原
ニ配流仝所ニ寂ス七十三歳」
(赤字部分は判読が難しく、一応、逑著と読みました。)
「遭難之墓」とは奇妙な表現です。
歴史上の著名な人物の墓が何カ所にもあることは珍しいことではありませんが、ここは「墓」
ではなく、「遭難之碑」といった意味でしょう。
ちなみに日講の墓は、配流の地である宮崎市佐土原町大字上田島字新山にあります。
「後ノ六聖人」とは、寛文五年(1665)から翌年にかけての法難(寛文の惣滅)で配流となった
次の六人の僧侶を言います。
平賀本土寺の日述(伊予吉田に配流)、興津妙覚寺の日堯(讃岐丸亀に配流)、雑司ケ谷
法明寺の日了(讃岐丸亀に配流)、野呂檀林の日講(日向佐土原に配流)、玉造檀林の日浣
(肥後人吉に配流)、自証寺開山の日庭(寛文の惣滅では寺を出るだけで済んだが、貞享四年
(1687)に佐渡への流罪となる。)
ちなみに、寛永七年(1630)の「寛永法難」で配流となった次の六人の僧侶を「前の六聖人」
と言います。
池上本門寺十六世・飯高檀林化主の日樹(信濃伊那に配流)、中山法華経寺・飯高檀林の
日賢(遠江横須賀に配流)、平賀本土寺の日弘(伊豆戸田に配流)、小湊誕生寺十六世・
小西檀林能化の日領(陸奥中村に配流)、中村檀林の日充(陸奥磐城平に配流)、碑文谷
法華寺の日進(信濃上田に配流)。
同じ文面の石碑が階段の上にあります。
「安國院ト号ス守恵雄後ノ六聖人ノ一人啓蒙逑者京都於賀氏日習ニ従イ中村壇林等ニ学ビ
後ニ野呂壇林ニ学徒ヲ養成ス幕府ノ土水供養ヲ拒ミ寛文六年(西暦一六六六年)五月廿七日
日向ノ國佐土原ニ配流仝所ニ寂ス七十三歳」
入口にある説明板からの引き写しでしょうが、「守」は「字」の間違いでしょう。
ここでの「字」は、「あざな」と読み、日講のあざなが恵雄であったことを示しています。
また、「逑者」となっている部分は、「逑著」よりは何となく意味が通じるような気がしますが、
日講が「啓蒙録内」「説黙日課」を著わしたことを考えると「逑著」もあり得ると思います。
「逑」と「著」で、多くの著作という意味を表しているのではないか、と勝手に解釈しました。
この石碑は、平成12年に「正覚寺沢講社」が建立したものです。
日講(にっこう)は、寛永十三年(1636)京都・妙覚寺の日習に師事し、正保二年(1645)
飯高檀林(現・匝瑳市)や中村檀林(現・多古町)で学んだ後、寛文元年(1661)野呂檀林
(現・千葉市)の講師となった日蓮宗の僧です。
寛文五年(1665)幕府は日蓮宗の寺院に対して、「幕府からの朱印地は国主が寺院に対し
供養したものと認める旨の手形」の提出を命じましたが、不受不施派はこれを拒否しました。
日講はこの政策を非難する「守正護国章」を呈上し、さらに寛文六年(1666)の幕府からの
広範囲な国主の供養についての手形の提出命令をも拒否しました。
これにより、日講は日向の佐土原藩に流罪となりましたが、藩主の島津忠高の帰依を受け、
73歳で亡くなるまでこの地で布教を続けました。
飯高檀林(飯高寺・匝瑳市) ☜ クリックすると紹介ブログへ飛びます。
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中村檀林(日本寺・多古町) ☜ クリックすると紹介ブログへ飛びます。
数段の階段を上ると、檻のような金属の柵に覆われた石碑(?)を中心とした、数基の石碑が
見えます。
左手の説明板には次のように書かれています。
「法華経を信仰する以外の人にはすべての施しを受けず(不受)また施しもしない(不施)という
主義主張の不受不施は京都の僧日奥がはじめた日蓮宗の一派ですがその主張活動は幕府
より禁じられ三百余年の長い弾圧を受ける宗門となった。寛文五年(一六六五)同派の日講は
佐土原へ流罪となったが一萬部誌経を成就されました。この万部塔は日講の遷化後弟子の
日念等がその意志をつぎ宝永二年(一七〇五)に建てたものです。しかし寛政六年(一七九四)
当時の支配者への内通により石塔は三日三晩焼かれ そして打ちくだかれ土中に埋められま
した。その後明治九年(一八七六)その宗教活動が許され沢の信徒や堀越義昌氏が掘り出し
組み合わされました。」
「不受不施」とはどういった教義なのでしょうか。
分かりやすい説明がなかなか見つかりませんが、日講にゆかりのある多古町の町史に、簡潔
な説明を見つけました。
【 この派は日蓮直弟子の六老僧の一人、日朗の流れから派生したもので、宗祖日蓮の、世界
の主は釈迦一人であり、時の為政者であっても釈迦の導きを受けるべき人間であるという思想
を純粋に伝える手段として、他の宗旨を信じている者の供養を受けず、また他の宗旨の僧へは
供養を施さないという教義を強固に守り続けた宗旨であり、その純粋性は既成宗派に対しても
新風を吹き込んだのであった。】 (「多古町史 上巻」 昭和60年 P335)
慶長四年(1595)豊臣秀吉の「方広寺大仏殿千僧供養会への出仕」命令をめぐる日蓮宗内の
論争に端を発し、徳川家康によって日奥が対馬に流されて以来、幾度かの変遷を経て、明治
九年(1876)明治政府による再興許可が下りるまでの間、不受不施派への弾圧は続きました。
「南無妙法蓮華経」と刻まれたこの石碑には、微かに「元禄●●癸●」と読める文字が・・・。
無理して読めば「元禄十六」かもしれません。
元禄十六年(1703)の干支は癸未(みずのとひつじ)ですから、多分そうでしょう。
「南無妙法蓮華経」と大きく刻まれた下に、「日浣聖人」と記されています。
側面には、「延寶第四丙辰七月九日」とあり、裏面には「奉開眼勤唱●●四萬部」とあります。
延宝四年は西暦1676年、四代将軍徳川家綱の治世です。
日浣については、京都・妙覚寺に「日述・日講・日浣」の肖像画があること、江戸時代に多古町
の蓮華寺に開かれた「玉造檀林」(寛文六年廃檀)で講師を務めていましたが、不受不施派の
弾圧により、寛文五年(1665)に肥後の人吉へ流罪となったこと、程度しか資料が見つかりま
せんでした。
この石碑は上部が欠けており、風化もあって文字は全く読めません。
中心にある日講聖人の碑。
短冊のように切り刻まれていますが、かろうじて「南無妙法蓮華経」と刻まれた一片と、「積而
至于●萬千百餘部惣●」の文字が読めます。
その他には「●萬三千八百卅」「●月十日七十三歳●寂」等の文字がが見えます。
これが、日念らによって建立された日講の「万部塔」のようです。
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金属の檻は最近作られたもので、以前は太い針金で束ねられていました。
きれいに整理された現在の姿より、以前の針金で縛られた姿のほうが、弾圧の状況を生々しく
伝えていたような気がします。
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「栗源町文化財資料目録」(平成5年)に、「日講墓石 元禄十一年(1698)」として次のよう
な記述を見つけました。
【 沢 西部山林内
寛文六年(一六六六)日蓮宗不受不施派の法難で日講上人九州佐土原へ流罪。 宝永二年
(一七〇五)日念は同上人のために佐土原の石(栗山川は信者の村送りで運んだ)で万部
成就の塔を建て供養した。 これも寛政六年(一七九四)三日三晩鯨油をかけて焼き砕かれ
現在は鉄線で束ねてある。】
「千葉県の歴史 通史編 近世2」(平成20年)には
、
【 また、日向国佐土原(宮崎県佐土原町)に流されていた日講の死後一七〇五(宝永二)年、
沢村(栗源町<香取市>)に、日講の万部石塔(経典一万部の読誦を記念した石塔)が建立
されていた。 一七九四年の弾圧事件では、沢村の石塔が破壊された。】 (P803)
との記述があります。
古い地図を見ると、細い農道のような道端に「かくれ卵塔」が記入されています。
この場所は、現在は県道44号線のバイパスが走り、「道の駅くりもと」が建っていますが、
卵塔の位置は変わっていないようです。
「南無妙法蓮華経」の下に、「寛永八●未五月十九日 日樹聖人」「寛永七庚午三月十日 日奥
聖人」「延宝九辛酉九月朔日示寂 日述聖人」と刻まれています。
寛永七・八年(1630・1631)は三代将軍家光の時代、延宝九年(1681)は五代将軍綱吉の
時代です。(朔日(さくじつ)は一日のこと、示寂(じじゃく)とは菩薩や高僧が死ぬこと。)
日樹(にちじゅ)は、池上本門寺十六世。
飯高檀林・中村檀林で修行を積み、飯高檀林七世の化主(管長)となりました。
元和五年(1619)に池上本門寺に入り、妙覚寺の日奥に同調して受布施派と対立し、寛永七
年(1630)信濃国伊那郡飯田(現長野県飯田市)へ流罪となりました。
日奥(にちおう)は妙覚寺一九世、号は仏性院・安国院。
不受不施派の祖とされています。
文禄四年(1595)の豊臣秀吉による方広寺大仏殿千僧供養会への出仕命令にただ一人不受
不施の教義に反するとして反対し、丹波(京都府)小泉に隠棲しました。
慶長四年(1599)徳川家康が主宰する供養会も拒否して、元和九年(1623)まで13年間の
流罪となました。
慶長十七年(1612)許されて京都に戻ったものの、寛永七年(1630)受・不受の論争が再燃し、
幕府は日樹・日賢・日弘・日領・日進・日充の六上人を流罪とし、その直前に没した日奥も死後
にもかかわらず再度の対馬流罪となりました。
日述(にちじゅつ)は平賀生知院二十一世。
日浣と同様に資料が少なく、平賀生知院二十一世であったとき、寛文六年(1666)の法難で
伊予の吉田に追放されたこと、追放先の吉田藩では厚遇されたこと、寛政十三年(1801)に
完成した「租書綱要刪略」の編纂に初期段階で携わったこと、程度しか分かりませんでした。
この仏塔は、風化で文字は全く読めません。
「南無妙法蓮華経」「安住●日念聖人」「享保十七壬子」と読めます。
享保十七年(1732)は八代将軍吉宗の治世で、西日本を中心に長期にわたる悪天候による
凶作(享保の大飢饉)が発生しました。
日念(にちねん)の号は成就院。
市原の四天王山法光寺の開基とされています。
昭和49年に編纂された「栗源町史」にも、大正十年編纂の「千葉縣香取郡誌」にも、全くと
言って良いほどこの卵等に関する記述が見つかりません。
風雨に晒されてほとんど文字が消えているこの説明板で、「日念」、「日浣」の名前のほかに、
「日東聖人」の名前が読めますが、石塔のどれが日東聖人のものかは分かりません。
日東聖人は池上本門寺の十七世で、蓮乗院と号し、慶安元年(1648)に没しました。
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すぐ隣には「道の駅くりもと」がありますが、この「かくれ卵塔」に気付く人は少ないようです。
「香取民衆史 7」(香取歴史教育者協議会 1994年)に、「信仰を守るたたかい-不受不施
派の法難」(野口政和氏)の論文が掲載されています。
【 法難遺跡
地下活動のため、あまり史料や遺跡が残ってはいないが、今わかっているものを紹介して
みたい。 多古法難のときに砕かれた日講の石塔が栗源町沢に現存している。 日講は、
寛文の法難により一六六六(寛文六)年、九州の日向佐土原へ流された野呂檀林(千葉市
野呂)出身の僧。 石塔は。日講の一万部読経完成を記念して、流された日向佐土原・大坂
高津衆妙庵・沢村(栗源沢)と三基たてられた。 沢村では一七〇五(宝永二)年にたてられ
ている。 高さは約一、五メートル、台石の高さは約三〇センチ。 多古法難では鯨油をかけ
て三日三晩焼き水をかけて砕いたと伝えられている。 また、焼いた三人の人夫は、一人は
火傷、一人は杵にあたり、一人は風呂釜で腹を焼いて、それぞれ死んだと伝えられている。
信者の弾圧に対する憎悪、なお信仰を守ろうという強固な意志がよみとれる。 石塔は砕い
て埋められたが、沢の信者である堀越義昌氏が生涯をかけてさがし、掘りだされ現存してい
る。】 (P49~50)
「かくれ卵塔」(道の駅くりもと) 香取市沢1372-1