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sausalito

Author:sausalito
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。     また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。         なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中で引用したり、取材のヒントを得るために良く利用する書籍です。  文中の注釈が長くなりますので、ここに掲載します。               ■「成田の史跡散歩」小倉 博 著 崙書房 2004年               ■「成田の地名と歴史」大字別地域の事典編集委員会 2011年      ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会編 1986年       ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会編 1972年

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掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。   石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも、悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。                            

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1200年の歴史~江弁須の皇産霊神社
今回は江弁須(えべす)の「皇産霊神社(みむすびじんじゃ)」です。

皇産霊神社ー1

津冨浦、一坪田、臼作など、成田市内に「皇産霊神社」はいくつかありますが、
そのいずれも資料が少なく、ここ江弁須の皇産霊神社に関する資料も、わずかに
「成田市史 近代編資料集一」中の明治17年頃の公津村史に、
「無格社皇産霊神社 臺方字井戸花ニ坐ス。創祀不詳 
              祭事ハ井戸花中ニテ行フ。」

の二行しか見つけられませんでした。
臺方は現在の台方で、当時はこの一帯は臺方に属していたのでしょう。


皇産霊神社ー2
皇産霊神社ー4

「平安時代の西暦800年にさかのぼり、坂上田村麻呂が東方出征の折に
兵糧を確保するため、この地に陣を構え「江弁須」と名付けた。
高御産霊巣日之大神が祭神。
1987年に大規模な改修が行われた。」

(「拝殿建設記念碑」より

「たかむすびのかみ」は、古事記では「高御産霊巣日神」、日本書紀では「高皇産霊尊」と
書かれている「創造」の神様です。
江弁須と名付けた時にこの神社も創建されたということのようです。


皇産霊神社ー5
皇産霊神社ー6


皇産霊神社ー7
皇産霊神社ー8
皇産霊神社ー9

流造の本殿はどっしりとバランスの良い佇まいです。


皇産霊神社ー10

本殿の裏には三つの祠と一つの石柱が並んでいます。
中央の大小二つの祠は「熊野神社」で大きい方には大正7年と記されています。
小さな熊野神社の紀年銘は読めません。
また一番右側の祠は風化が進んでいて、何の神様か分かりません。
五角形の石柱は「地神塔」で、各面に「天照皇太神宮(てんしょうこうたいじんぐう)」
「大己貴命(おおあなむちのみこと)」「少彦名命(すくなびこなのみこと)」「埴安姫命
(はにやすひめのみこと)」「倉稲魂之命(うかのみたまのみこと)」と刻まれています。
「形状が五角形の石柱であることから、地神塔は一つの石仏のように思われがちだが、
旧公津地区ではそれぞれ五社神という神社として崇拝したのである。」

(「成田の史跡散歩」 崙書房 小倉 博著 P91)


皇産霊神社ー11

左の格子の中には「天満宮」「子安神」「疱瘡神」が並んでいます。
右側は神輿蔵です。


皇産霊神社ー12

古い神輿です。
今は使われていないようです。


皇産霊神社ー13

天保二年(1831年)の紀年銘がある手水盤。


皇産霊神社ー28

皇産霊神社の参道に添うように二つの神社の参道が並んでいます。
「稲荷神社」と「浅間神社」です。


皇産霊神社ー27
皇産霊神社ー18

「稲荷神社」の参道です。
左側に見えているのは「皇産霊神社」の参道、右側は「浅間神社」の参道です。


皇産霊神社ー14

安政六年(1859年)と記された稲荷神社の手水盤。


皇産霊神社ー19

近年に補修されたようです。


皇産霊神社ー16

「浅間神社」の参道。


皇産霊神社ー15

明治39年と刻まれています。


皇産霊神社ー17

昭和7年の建立です。


皇産霊神社ー20

「皇産霊神社」と「稲荷神社」の参道の間に建つ石碑には、
「公津村江辧須字珎重鎮座 村社皇産靈神社」と刻まれています。


皇産霊神社ー25
皇産霊神社ー26

掘り込まれた参道に石垣を裂いて根を張り、あるいは二本の木の間にあった石を挟んで
持ち上げてしまったり、参道の木々はいずれも大木です。


皇産霊神社ー22
皇産霊神社ー23
皇産霊神社ー3

住宅街の中にありながら、深い森に囲まれた「皇産霊神社」。
深く沈んだ空気が境内を支配しています。


皇産霊神社ー24
 

                  ※ 「皇産霊神社」 成田市江弁須304
                    京成公津の杜駅から徒歩約15分






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公津村の寺社 | 11:00:42 | トラックバック(0) | コメント(0)
台方の超林寺
以前に紹介した「麻賀多神社」の傍に「超林寺入口」の小さな看板があります。
今回は麻賀多神社訪問の時から気になっていた、この「超林寺」に向かいました。

超林寺ー1
超林寺ー2

麻賀多神社の先を下って行くと、山に包み込まれるように「超林寺」があり、その前には
田んぼが広がっています。


超林寺ー3
超林寺ー5

「超林寺」は「麻賀多山信竜院超林寺」と号する曹洞宗のお寺です。
ご本尊は「釋迦牟尼佛(釈迦如来)」で、文明十三年(1481年)の建立です。

「成田市史近代編資料集1旧町村誌」の中に、超林寺に関する記述がありました。
「當寺開基千葉家始祖輔胤公 臺方龍谷ニ隠棲ノ際 超林道場ヲ建立シテ、
常州大雄院五世貴田周裔和尚ヲ 開山ニ請シタリ。 時ニ元享元年ナリ。
故ニ公没後ノ法名 超林寺殿一置シアリ。 尚境内ニ千葉家墓碑現有セリ。
當寺ハ曹洞宗小本寺格ニシテ、現ニ二ヶ末寺ヲ有スルノミナラズ、古来
臺方一円下方ノ大部分ハ當寺帰依檀徒タリ。」 
(P200 公津村史)

輔胤公(すけたねこう)とは、室町時代中期から戦国時代初期の武将で、印旛郡印東庄
岩橋村を所領としていたことから、岩橋輔胤と名乗っていました。
(なお、この輔胤が千葉家の当主であったかどうかについては諸説があるようです。)
また、臺方(だいかた)、下方(しもかた)は超林寺周辺の地名です。


超林寺ー6
・・・ 本堂横の「妙覚院」 超林寺ー7


超林寺ー10

本堂の手前に2基の板碑があります。


超林寺ー8

下総式板碑で、元享二年(1322年)の紀年銘があるとされています(今は判読できません)。
刻まれている種字は「阿弥陀如来」を表しています。


超林寺ー9

成田市指定有形文化財の「平貞胤供養碑」。
案内柱には「今は判読できないが観応二年(1351年)の記年銘がある」と書かれています。
平貞胤(千葉貞胤 1292~1351)は千葉氏第11代当主で、南北朝時代に鎌倉幕府側に
ついて楠木正成と戦い、後に新田義貞が挙兵するとこれに与し、さらに北朝方に寝返るなど、
激動の時代を生き抜いた武将です。


超林寺ー11

2基の板碑に並んで宝篋印塔が建っています。
宝篋印塔は通常、供養塔や墓碑塔として建てられます。
辛うじて「第十四世~」とだけ読めますので、御住職の墓碑塔なのでしょう。


超林寺ー12

この多層塔は台座部分が平成13年に新しくされました。


超林寺ー13

「御開山貴田周裔大和尚」像。


超林寺ー14
超林寺ー15

屋根を見上げると、見慣れない瓦組みです。
大棟瓦と言うのでしょうか、棟込瓦と言うのでしょうか、良く分かりませんが、薄く細長い瓦が
何層にも並んでいます。
見えている紋は梅のようです。
曹洞宗のお寺は竜胆と桐の紋のはずですが・・・


超林寺ー16

境内の左側に大小4基の石碑が建っています。
左端の一番大きな碑は昭和63年に建立の「客殿庫裡建立記念碑」です。
そこにはこう記されています。
「当山は本寺常陸国日立市宮田町杉室天童山大雄院より千葉輔胤公が文明十年
(一四七八年)室町時代に開基し、大雄院五世貴田周裔大和尚により開山される。
御本尊は釋迦牟尼佛であります。現在に至る迄檀信徒の厚き護持により禅寺として
幾多の天災地変もありましたが法灯を守り続けてきました。~」


隣は大正4年の「報恩」と刻まれた石碑で、「菊地全應老師報恩碑」と記されています。
三番目の小さめの碑は明治33年の「功徳碑」、一番右には「永代燈明料」とあります。


超林寺ー18
超林寺ー19超林寺ー20・・・・・

このお堂の名前は私には読めません。
漢和辞典で懸命に探しましたが、この文字は見つかりませんでした。
雨の下に弓が3つ並んでいます。
一番近いと思われるのが「靈」か「霛」なのですが・・・。
2体の仏様はいずれも左手に数珠を、右手に経典のようなものを持っています。

※ このブログをお読みいただいている方から、以下のようなご指摘をいただきました。
「読みは”Ling(りん)”、中国古語のようです。 意味は精神とか魂を示す古代釈尊由来
のようで、現在の中国語の主体を成す、当時より簡便なモノとは違い、より原仏教に近い
文字のようです。」
ありがとうございました。 すっきりしました。



超林寺ー21

昭和59年に建立された「慈母観音」。
慈母観音にはいろいろな形がありますが、この観音様は子供を軽々と抱き上げて
すっくと立った像です。


超林寺ー22
超林寺ー31

斜面に古い墓地があります。
延宝、延享、享保、天明などの年号が見えます。
斜面に向かって立ち、通路には背を向けた石仏には「如意輪観音」が多く見られます。


超林寺ー24

お寺の前、田んぼに向かっては新しい墓地が広がっていますが、その一角に古い石仏が
集められています。
貞享、文化、文政などの年号が読めます。


超林寺ー25
超林寺ー26

ふと視線を感じて振り返ると、ネコが道端に座っていました。
じっとこちらを見つめて、何か言いたそうです。


超林寺ー27

その傍にこんな看板が・・・。
なるほど、おっしゃる通りです、良く分かりました!
ネコの腕に「自然保護」の腕章が見えたような、見えないような・・・。


超林寺ー17
超林寺ー23

「超林寺」は近くの「麻賀多神社」や「宗吾霊堂」に隠れてあまり知られてはいないお寺です。
きれいに手入れされた境内には530年を超える歴史とともに、檀徒に守られている雰囲気
が感じられます。
「麻賀多神社」 ⇒
「宗吾霊堂」 ⇒


超林寺ー33


                 ※ 「超林寺」 成田市台方10-2
                   京成宗吾参道駅から徒歩約30分
                   京成公津の杜駅からコミュニティバス 北須賀ルート
                   麻賀多神社下車 徒歩5分



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公津村の寺社 | 07:00:43 | トラックバック(0) | コメント(3)
日本武尊と弟橘姫~吾妻神社
新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


今回は成田ニュータウンの中にある「吾妻神社」を訪ねます。

吾妻神社ー8

「吾妻神社」は「吾妻塚」と呼ばれる古墳の上に建てられています。
「吾妻神社」の由来について、説明板を引用しますと、
「吾妻神社は、第十二代景行天皇の皇子である日本武尊と妃の弟橘姫の二神を祭神として
ています。日本武尊が東征の折り、ここ下総に至り、印波湖(印旛沼)を渡って北上し常陸に
軍団を進めるとき、かつて、相模の走水から対岸の上総へ渡る際に、波が荒れて船を進め
ることができませんでした。その時、妃の弟橘姫が、海神の怒りを鎮めようと自ら身を投じて
海難を救いました。その健気な姫の面影を偲び、尊は、この地にも塚を築いて遺品を納め、
祠を建てて姫を祀ったのがこの神社の創めと伝えられています。」

吾妻塚とは、弟橘姫の遺品を納めた古墳のようです。


吾妻神社ー9

日本武尊については諸説あり、中には雄略天皇をはじめとする何人かの英雄を統合した
架空の人物であるという説もあります。
私は、伝説には僅かであっても事実が含まれていると考えています(その方が夢があって
良いですよね)。
伝説に基づいて神社の由来にある創建の年代を推測すると、日本武尊の東征が景行天皇
四十年(290年)とされていますから、その頃、実に1700年以上も前になります。


吾妻神社ー10
吾妻神社ー13

約100年くらい前に建て直された小振りな本殿は、石柵に囲まれて保護されていますが、
残念ながら少々荒れた感じがします。

「時を経て、大正に初期に塚の周辺も荒れ、塚上にあった祠も損壊したため、氏子らの協力
を得て塚を築き、お宮を新たに建てて日本武尊を合祀しました。以来、夫婦和合、家運繁昌
の神さまとして崇敬をあつめ、近郷近在からの参詣客が年ごとに増えました。 古老の話に
よると、縁日の時には、南側に伸びていた約五十メートル程の参道に、数十軒の出店が立ち
並び大層賑わったといいます。」

(説明板より)

50メートルもあった参道は今はありません。
鳥居も無い社殿の前を細い道が横切り、立ちふさがるように住宅が立ち並んでいます。


吾妻神社ー11
吾妻神社ー19
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾妻神社ー18
狛犬の表情もどこか愛嬌があります。


吾妻神社ー12

本殿の千木は水平切り、鰹木は4本で、女神(弟橘姫)が祭られていることを示しています。

「また、無事に上総の地に着いた尊は、姫が身を投げた海辺に立ち「君さらず袖しがらみ
に立つ浪の その面影を見るぞ悲しき」という歌を詠み、その歌が地名の由来になったという
木更津市にも、姫の故事に因んだ本宮とも言うべき吾妻神社があります。」
 
(説明板より)

日本武尊は木更津に上陸して房総半島を北上したのですね。

「日本武尊(ヤマトタケル)東国征伐の折、相模(現在の神奈川県の一部)から上総(現在の
千葉県の一部)に渡ろうとしたとき、海上で嵐に襲われ、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海に
身を投じることで嵐を鎮め、数日後に海岸に御袖が流れ付いたので、この御袖を納める社を
建立したのが創祀と伝えられています。また、吾妻という地名は、日本武尊(ヤマトタケル)が
弟橘姫(オトタチバナヒメ)をしのんで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされ
ており、吾妻神社には、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が祀られています。」

(木更津市ホームページより)
こちらの神社の所在地も、木更津市吾妻です。


吾妻神社ー14
吾妻神社ー15

本殿の裏側に合祀された「猿田彦神社」があります。
隣接する宅地の一部を切り取ったような狭い場所です(と言うより、宅地が神社用地に
食い込んだと言う方が当たっているいるようですが・・・)。


道を挟んだ西側に気になる丘があります。
吾妻神社の説明板にもこう書いてあります。
「日本武尊は、大和政権による国内統一に献身した古代日本における伝説上の勇者と
してよく知られており、数多くの、物語に登場します。神社の西側にある古墳は天王塚という
前方後円墳ですが、この地域一帯は、昔から公津が原とよばれ大小様々な古墳がたくさん
ありましたが現在は、四十基が千葉県指定史跡として保存されています。」


吾妻神社ー1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾妻神社ー3
吾妻神社ー2

登った先には「浅間大明神」の祠がありました。


どうやら裏から登ったようで、前方に「八坂神社」の祠と鳥居が見えました。

吾妻神社ー4

右は平成26年、左は大正7年の建立です。
ご祭神は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」(牛頭天王)です。


吾妻神社ー5

鳥居は浅間大明神の反対側にあり、こちらが正面のようです。
ここは公津原古墳群の21号(天王塚)です。


吾妻神社ー16

再び浅間大明神の横を通って吾妻神社に戻ります。

2つ並んだ常夜燈は大正5年に寄進されたもので、説明板にあった再建時のものです。


吾妻神社ー20

天王塚との間に、ポツンと置かれた道祖神。
大正5年と刻まれていますから、これも再建時に建てられたものです。


吾妻神社ー17
吾妻神社ー21

お年寄りが一人、丁寧に境内を掃き清めていました。
住宅街の中で、ともすれば邪魔者扱いされかねない存在を、こうした人が守っています。

「吾妻」の地名は、日本武尊が亡き妃の弟橘姫を偲んで、「吾妻はや」(我が妻よ)と呼び
かけたことに由来し、また東国を「東」(あずま)と言うようにもなったと言われています。

「神社の北方には、昭和三十七年、東日本で初めて発見された八代玉作遺跡があり、
成田ニュータウン内の発掘調査成果と併せて、この地域が吾妻神社の由来を裏付ける
ように大和政権による東国進出の道筋であったと言うことができます。」

(説明板より)


吾妻神社ー22


            ※ 「吾妻神社」 成田市吾妻3-41
              北総線成田湯川駅から徒歩約30分
              JR成田駅西口より千葉交通バス 成田湯川行き 
              吾妻神社下車徒歩3分
                            
                             

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公津村の寺社 | 07:00:00 | トラックバック(0) | コメント(6)
昔の光いまいずこ-薬師寺
「薬師寺」は真言宗の寺院で山号は船形山。
創建・開基は不詳です。
『1311(応長元)年の銘のある梵鐘(宗吾霊堂宝物殿に展示)に「下州印東庄八代郷
船方薬師寺」とみえ、更に1486(文明18)年に関東を旅した道興准后が、この寺に
豆留しながら印旛沼の風景を漢詩に詠んでいることが「廻国雑記」にみえる。「成田参詣記」
には仁王門・薬師堂・三社権現など境内の伽藍が図入りで紹介され、江戸時代には
この地方屈指の大寺であった。』(成田の地名と歴史)

薬師寺ー4

山の中腹を切り開いた僅かな平地に本堂があります。
このお寺は、もと麻賀多神社惣社の神宮寺(神仏習合思想によって、神社に付随して
建てられたお寺)で、現在より北方にあったと伝えられています。


薬師寺ー1

仁王門は近年補修が行われたようで、本堂に比べて立派に見えます。


薬師寺ー27

手前の階段横に梵字が刻まれた石板が立っています。


薬師寺ー41
薬師寺ー31
                                        阿形像の表情
薬師寺ー30
                                        吽形像の表情

近年、解体修理を行った際に、腕と体の部材に大永二年(1522年)と
天正二十年(1592年)の修理墨書銘が見つかりました。
右側の阿形像は1.7メートル。
右腕をさげ、左手で金剛杵を振り上げています。
左側の吽形像は1.71メートル。
左手を握りしめ、右腕を曲げて掌を開いて構えています。

この木造金剛力士立像は県の指定文化財になっていて、
応長年間(1311~1312)の制作と考えられています。
小ぶりの像ですが、力感があり、表情も豊かです。


薬師寺ー42

仁王門の脇に置き忘れられたように手水盤がありました。
水も引かれていません。
延享三年(1746年)と刻まれています。


薬師寺ー36
(千葉県教育委員会ホームページより 薬師如来 ⇒ 

ご本尊は千葉県指定文化財の木造薬師如来坐像です。
像高は54.3センチで、引き締まった表情に見えます。

「ヒノキ材、前後割矧造で、玉眼がはめこまれた高さ54.3㎝の坐像である。表面の仕上げは、
現状では素地となっているが、薄く朱をかけた痕跡がみられる。
ゆるやかに面を取った幅の広い胸腹部の造りや、胸を少し後ろに引き起こした姿勢は、
平安時代後期の余風を残している。ただし、やや眼が吊り上がり、頬のしまった面相や、
彫り込みの深い衣文には鎌倉時代の作風が顕著に見られる。こうした点から考えて、
制作時期は、13世紀前半には遡るものと考えられている。
また、光背と台座も当初のものを備えており貴重である。」(成田市教育委員会ホームページ)


薬師寺ー40
薬師寺ー5
薬師寺ー23

本堂の正面がガラス張りになっていて、中に安置されている仏様が良く見えます。
阿弥陀如来座像と観音菩薩、勢至菩薩の阿弥陀三尊です。
穏やかなお顔の仏様です。
ご本尊の薬師如来は後方の厨子の中に居られるようです。


薬師寺ー6

本堂左手に立つ3つの塔には梵字が刻まれ、明和二年(1765年)に建立されました。


薬師寺ー7

3つの石塔の後ろの階段を登ると、祠がありました。
中には何も無く、何の祠かは分かりません。


薬師寺ー8
薬師寺ー10

さらに急な山道を登ると子安観音を祀った祠がひっそりと建っていました。
滑る足元を気にしながら、急な山道をここまで登ってお参りする方がいたようで、
真新しいお札が置かれています。
観音様には宝暦四年(1754年)と記されていました。


境内に戻ってきました。
あらためて本堂を眺めると、軒に何やら動物らしき彫刻が見えます。

辰(タツ・龍)                      
薬師寺ー12
卯(ウ・兎)
薬師寺ー13
午(ウマ・馬)                      
薬師寺ー15
申(サル・猿)
薬師寺ー16
酉(トリ・鶏)                      
薬師寺ー17 
亥(イ・猪)
薬師寺ー18
           十二支でした。判別できるものだけ載せてみました。


薬師寺ー19
薬師寺ー21
薬師寺ー22

境内の右側に目をやると、立派な宝塔と地蔵堂があります。
宝塔には宝暦5年(1755年)、お地蔵様には文化十年(1813年)と記されています。

境内に鐘楼はありません。
県の有形文化財に指定されている、応長元年(1311年)に造られた梵鐘は、
現在宗吾霊堂宝物殿に置かれています。

薬師寺ー37
(千葉県教育委員会ホームページより 梵鐘 ⇒ )


薬師寺ー38

「成田参詣記」に記された風光明美な景色はもうここにはありません。
描かれた当時はこの場所より北方にあったのでしょうか?
それにしても、沼は干拓され、人が住み、木々が植えられて、景色は一変しています。


薬師寺ー33
薬師寺ー25

境内の端にある「船形の大シイ」と呼ばれる大木が、遠くからも見えます。
幹周りは6メートル、高さは15メートルもあり、市の天然記念物に指定されています。

薬師寺は細い曲がりくねった道の途中にあり、分かりにくい場所に建っています。
かつての面影はなく、無住のため寂れてはいますが、蝉しぐれの中に佇むこのお寺では
時間が止まったような感じがします。


                ※ 船形山薬師寺  成田市船形219-1
                   京成・公津の杜駅からコミュニティバス 北須賀ルート
                   印東体育館下車 すぐ (本数が少ないので要注意)
                   北総線成田湯川駅から徒歩約40分



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公津村の寺社 | 07:08:50 | トラックバック(0) | コメント(4)
船形の麻賀多神社(奥宮)
前回の台方の麻賀多神社(本社)に続いて奥宮の「麻賀多神社」を訪ねます。

麻賀多神社船形ー1

こちらのご祭神は天照大神の妹神、「稚日孁命(わかるひめのみこと)」です。
前回の台方の麻賀多神社でも紹介しましたが、平安時代に記された「延喜式」に記載
されている「式内社」で、非常に格式の高い神社です。
創祀年代は不詳ですが、3世紀後半から4世紀初頭にかけての期間であると考えられます。


麻賀多神社船形ー4
麻賀多神社船形ー5

石造りの一ノ鳥居の右側に大きな塚があります。
塚の上には「印波国造伊都許利命(いつこりのみこと)墓」と刻まれた石碑が建っています。
伊都許利命は応神天皇の命を受けて印波国の国造としてこの地に赴き、
産業の振興などに尽くしました。
この麻賀多神社を創建した人物でもあります。


この古墳については後ほど触れるとして、まずは木造の二ノ鳥居をくぐって、
本殿へと進みます。


麻賀多神社船形ー11
麻賀多神社船形ー44麻賀多神社船形ー45

拝殿手前の手水盤は安永四年(1775年)のもの。
石灯籠にも同じ年が刻まれています。
この年にはアメリカの独立戦争が起こっています。


麻賀多神社船形ー42
麻賀多神社船形ー12
麻賀多神社船形ー46

拝殿、本殿ともに立派な造りですが、残念ながら建造の年代が分かりません。
(目につく資料は全部当たってみましたが、なぜか建造に関する記述がどこにもありません。
時間をかけてじっくり調べようと思います。)

唯一、二ノ鳥居左にある「社殿葺替記念碑」の石板に、
本殿が昭和62年10月、拝殿が平成元年11月に葺替工事が行われ、
総工費が4,228,196円であったとの記述を見つけました。

鰹木(堅魚木)は6本、千木は水平に切られています。


麻賀多神社船形ー48
麻賀多神社船形ー49

本殿の屋根には銀色に輝く三つ巴の紋の両脇を鳳凰が固める図柄が見えます。


麻賀多神社船形ー14

御神木の大杉は樹齢約600年、周囲6メートル、高さは40メートルもあり、
本社の「公津の大杉」ほどではありませんが、堂々たる大木です。


麻賀多神社船形ー15

拝殿の左手にある「八代稲荷神社」と「加志波比売神社(かしはひめじんじゃ)」。


神社の奥に広く見通しの良い場所があり、3つのお社が点在しています。

麻賀多神社船形ー17世直神社
麻賀多神社船形ー18熊野神社
麻賀多神社船形ー19菅原神社


拝殿の左手には祓戸神社、香取神社があり、右手奥には栗生日神社があります。

麻賀多神社船形ー20     祓戸神社
香取神社     麻賀多神社船形ー21
麻賀多神社船形ー22     栗生日神社


麻賀多神社船形ー24

拝殿の軒下に古い蜂の巣を見つけました。
蜂はもういないようです。


先ほどの古墳に戻ってきました。
墳墓の入り口にある「伊都許利命由緒」とある説明板が「伊都許利神社社務所」の名前で
掲げられていたり、ところどころに伊都許利神社の名前が出てくるのに、それらしき建造物が
見当たらず、鳥居を持った金比羅神社のみが墳墓の脇にあることから、“伊都許利神社は
存在するのか?伊都許利神社=金比羅神社ではないのか?”という疑問が湧き、
ネット上でもいろいろな意見が交わされています。

さて、ここで伊都許利神社と金比羅神社に関する疑問について、私見を述べてみます。
私はこの二つの神社は同じではなく、古墳にある伊都許利神社の脇に金比羅神社が
あると考えています。
まずは、神社が二つあると考える根拠について見てみます。


麻賀多神社船形ー3

墳墓の下の小さな手水盤には寛文十二年(1672年)と刻まれていました。
『「伊都許利神社」「金比羅大権現」廣前』の文字が彫られています。
稲葉丹後守臣 大田○右衛門が寄進したもののようで、少なくともこの時代から
伊都許利神社と金比羅神社はこの場所に並んであったと考えられます。
(ちなみに、稲葉丹後守は佐倉藩主で老中。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際、
浪士の即刻処分を避けるために諸方に働きかけた人物で、隠居後も八代将軍吉宗に
重用されました。)


麻賀多神社船形ー6
麻賀多神社船形ー37

頂上の石碑の隣りの碑誌は元文二年(1737年)のもの。
傍らの要約文によれば、
「稷山の東北 瀛宮の東南のこの地は 当に龍の岡(神域) 怪物や悪者は逃げ失せ
惟みるに(思えば)神のおかげで安らぎを得ている ささやかな祭りを時に行い 鎮の
守らせるために 徳の輝きひかえめに 五凝(伊都許利)の神を敬い 長い年月にわたり
執り行いつつしめば もろもろの邦(地域)共に栄える」
「山海を廻り(銘文を)撰 元文二年冬十一月 山州淀府行軍使 磯部昌言 謹んで撰ぶ」
とあります。


麻賀多神社船形ー7

脇から登る階段下の石灯篭は寛政十年(1798年)と同十二年のものです。


麻賀多神社船形ー8墳墓よりの出土石
              出土した石棺麻賀多神社船形ー9


石棺は文久四年(1863年)に発掘され、2メートル四方、深さ1メートルで
石の厚さは約15センチあります。

石棺の上には小さな祠があります。

麻賀多神社船形ー52
麻賀多神社船形ー51

祠の中を覗かせていただきましたが、何もありませんでした。
側面には龍が刻まれていました。


麻賀多神社船形ー53

木柱には「伊都許利神社」と書かれています。
立派なお社はありませんが、私はここが「伊都許利神社」であると思います。
伊都許利命の墳墓そのものがお社なのではないでしょうか。

もう一つ、私の考えを裏付けるものがあります。
それは二ノ鳥居の右に建つ昭和24年に建立された「境内無償譲與許可記念碑」の
次のような記述です。
「麻賀多神社 印旛郡公津村大字船形八三四番地
  神社境内地 七七四坪 立木共   昭和二四年五月三一日
伊都許利神社 仝郡仝村仝区八二七番地
  神社境内地 三七六坪 立木共   昭和二四年七月二九日」
伊都許利神社としての376坪は、およそ古墳全体の広さに一致すると思われ、
金比羅神社はその境内に合祀された神社であると考えられるのです。


麻賀多神社船形ー54

手水盤の先の石棺上に小さな祠があり、古墳の上には伊都許利命の墓石柱のある、
ここが「伊都許利神社」であると、(素人考えですが)個人的には納得しています。


麻賀多神社船形ー25
麻賀多神社船形ー32

伊都許利命の墳墓とされる古墳には、「公津原古墳群第39号墳」と名付けられ、
横に回ると石室の入り口が見えました。
横穴式石室で、今は塞がれています。
東西35メートル、南北36メートル、高さ5メートルという大きな方形墳です。


麻賀多神社船形ー26

古墳の裏斜面に回ってみると、いろいろ議論のある「金比羅神社」があります。


   比較的新しい小さな石のお社です麻賀多神社船形ー28
麻賀多神社船形ー29細かい鱗まで彫られた龍
               狭く急な石段麻賀多神社船形ー30
麻賀多神社船形ー31天明七年(1787年)のもの
手水盤には「伊都許利神社」と刻まれています。

これがまた混乱を招く一因ですが、奉納された年代が100年以上後であることと、
比較的小ぶりであるを考えると、わざわざ寛文二年の手水盤をどかしてまで
置くことはないとしてこの場に置いたと、素人なりに都合良く推測したいところです。


麻賀多神社船形ー33
麻賀多神社船形ー34

道路を挟んだ向い側の斜面は栗畑です。
あと1ヶ月もすれば毬が割れて茶色い実が姿を見せることでしょう。

麻賀多神社船形ー10

推古天皇十六年(608年)、伊都許利命の子孫である広鋤手黒彦がこの地より少し離れた
台方に社殿を造営し、こちらの社殿は奥宮となりました。
伊都許利命の墳墓に関しては諸説があり、まだ謎が解明されていません。
本社・奥宮に関する種々の記述にも混乱があり、今後の研究を期待したいところです。
(このブログの記述にも間違いがあるかもしれません。判明する都度訂正したいと思います。)

麻賀多神社船形マップ



            ※ 麻賀多神社(奥宮) 成田市船形834
               京成・公津の杜駅よりコミュニティ・バス北須賀ルートで
               麻賀多神社前下車



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公津村の寺社 | 16:48:58 | トラックバック(0) | コメント(8)
珍しい名前の麻賀多神社
鬱蒼とした森に囲まれた「麻賀多神社(まかたじんじゃ)」を訪ねました。

麻賀多神社台方ー1

麻賀多神社は「稚産霊命(わかむすびのみこと)」をご祭神とする神社で、
応神天皇の時代に初代印波国造・伊都許利命(いつこりのみこと)が、
この地より少し離れた船形に創建したと伝えられています。
台方には推古天皇16年(608年)に移設され、それまでの船形の神社は奥宮となりました。
平安時代に記された「延喜式」に記載されている「式内社」で、
香取神宮と並ぶほどの格式の高い神社です。


麻賀多神社台方ー2

印旛沼の周辺には麻賀多神社は多く存在しますが、ここ台方の麻賀多神社が本社、
船形にある麻賀多神社が奥宮になります。
麻賀多神社とは大変珍しい名前で、全国的にも印旛地区に集中しています。


麻賀多神社台方ー25

本殿に上る石段の手前にある石灯籠には文政十一年(1828年)とありました。


麻賀多神社台方ー3

手洗舎には宝暦九年(1759年)と刻まれた御手洗盤が置かれています。


麻賀多神社台方ー5

祓戸です。
ご祭神は「瀬織津姫(せおりつひめ)」、「気吹戸主(いぶきどぬし)」、
「速秋津姫(はやあきつひめ)」、「速佐須良姫(はやさすらひめ)」と書かれています。


麻賀多神社台方ー6
麻賀多神社台方ー9

流造りの本殿は、寛文十三年(1673年)に当時の佐倉藩主松平和泉守が再建したもので、
市の指定文化財になっています。

拝殿前に並ぶ狛犬には迫力を感じます。
麻賀多神社台方ー8 阿形の狛犬
麻賀多神社台方ー7 吽形の狛犬


麻賀多神社台方ー10
麻賀多神社台方ー11

御神木の大杉は樹齢1300年と推定され、樹回り8メートル、高さ40メートルの
大木で、「公津の大杉」と呼ばれ、パワースポットとしても人気があるようです。


麻賀多神社台方ー12麻賀多神社台方ー14
大杉の前には古峰神社、三峰神社、印旛国造神社、馬来田郎女神社が、
本殿横には幸霊神社、青麻神、猿田彦神社が並んでいます。


麻賀多神社台方ー18
麻賀多神社台方ー16麻賀多神社台方ー17
朱塗りの本殿軒下には兎や馬(?)の彫刻が見えました。


麻賀多神社台方ー19

本殿の奥にある「天日津久神社」(あめのひつくじんじゃ)。
画家の岡本天明がここで啓示を受け、「日月神示」を書いたことで知られています。
石造りの新しいお社ですが、細かい装飾が施されています。


麻賀多神社台方ー21

境内の一角にある神楽殿。
ここで毎年7月31日の大祭に獅子舞が奉納されます。

麻賀多神社獅子舞2
麻賀多神社獅子舞1
    (麻賀多神社 ホームページより 獅子舞 ⇒ )
この舞は4~500年前から伝わっているもので、台方地区と下方地区が年番で、
その地区の直近2年間の内に結婚した新郎から舞手が選ばれます。
市の無形民俗文化財です。


麻賀多神社台方ー22

神社の周りの森は県の指定天然記念物として環境の保全がなされていて、
アカガシ、スギ、ケヤキ、アカマツ、ヒノキ等がこの森を形成しています。


麻賀多神社台方ー23
麻賀多神社台方ー24

この神社の珍しい名前の由来は、古来よりこの地方が麻の産地であったこと、
そしてこの神社を創建した国造・伊都許利命が多氏一族の出であることから、
「麻の国で多氏が賀す神の社」という意味の「麻賀多神社」となったと言われています。
(麻賀多神社 ホームページ)
次回は船形の奥宮を訪ねます。


麻賀多神社台方地図


              ※ 麻賀多神社(台方)  成田市台方1
                 京成・公津の杜駅よりコミュニティバス「北須賀」ルート 
                 麻賀多神社前下車すぐ
 



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公津村の寺社 | 07:20:20 | トラックバック(0) | コメント(0)
東勝寺と佐倉宗吾(宗吾霊堂)
宗吾霊堂ー25

「東勝寺」は真言宗豊山派の寺院で、正式名称は鳴鐘山東勝寺、
ご本尊は「大日如来」です。
この東勝寺は「宗吾霊堂」と呼ばれることが多いようです。
平安時代に坂上田村麻呂が東国を平定した際、戦死者の供養のためのお堂を建てたのが
始まりと言われ、“東国に勝利した”という意味で「東勝寺」となりました。

『中興第1世澄祐が1662(寛文2)年から境内の整備を行い、1668年までに
本堂などの諸堂伽藍を建立した。1767(明治14)年に大和国の長谷寺と京都の
智積院から、常法談所の寺格を与えられている。談所(檀林)とは法談を催すことが
できる有力寺院のことである。』(「成田の地名と歴史」2011年成田市発行)

大正10年に「宗吾供養堂」を再建することになった時、この地に東勝寺も移転してきました。


宗吾霊堂ー15

「宗吾霊堂」は義民・佐倉宗吾(木内惣五郎)を祀るお堂で、
宗吾の霊像をご本尊としています。
明治8年に再建されたお堂が焼失した後、現在のお堂は大正2年に再建されました。



http://www1.ocn.ne.jp/~einosuke/sub109.htm (中田英之助氏HPより)
原典:写真誌「NARITA」 1993年成田市発行

佐倉惣五郎
                     ウィキペディア 佐倉惣五郎の項より転載

佐倉宗吾は慶長十年(1605年)生まれと伝えられています。
公津村の名主であった木内惣五郎は、厳しい年貢に苦しむ農民を救うべく
佐倉藩主に直訴しましたが聞き入れられず、止むなく時の四代将軍家綱が
上野寛永寺に参詣した折に直訴しました。
その訴えは聞き入れられましたが、直訴という大罪を犯した惣五郎は死罪となり、
承応二年(1653年)公津ヶ原の刑場で子供とともに処刑されました。
ただ、事の経緯についてはあまり資料が残っていないため、詳しいことは分かりません。
宝暦二年(1752年)の百回忌に藩主・堀田正亮より「宗吾道閑居士」の法号を与えられ、
以後「佐倉宗吾」と呼ばれるようになりました。
江戸時代中期になってこの話が芝居になって上演されると、「義民・佐倉宗吾」の名は
一気に有名になりました。


宗吾霊堂ー3

手水舎の屋根には桜に宗の字が描かれた小さな飾りが付いていました。


宗吾霊堂ー4

仁王門の手前、右側に立派な宗吾親子のお墓があります。
宗吾とともに処刑された4人の子供が合葬されています。
時代とは言え、子供まで処刑されるとは何んとも痛ましいことです。


宗吾霊堂ー5
宗吾霊堂ー7宗吾霊堂ー6


立派な仁王門です。
昭和53年に再建されたものです。
説明板には仁王門ではなく、「大山門」と書かれていました。


宗吾霊堂ー2

仁王門の左手に「慈眼閣」があり、その先に東勝寺の大本堂があります。
(画面右にちょっと屋根が見えています)


宗吾霊堂ー9
宗吾霊堂ー8

仁王門の先、右奥に池を挟んで鐘楼があります。
細い道を辿ると直ぐ下まで行くことができます。
鐘楼は昭和27年に建立されたものですが、鐘には応長元年(1311年)の銘があり、
「全国百鐘」の一つに数えられています。


宗吾霊堂ー11
宗吾霊堂ー13

境内の右奥には明治44年に建立された「薬師瑠璃光如来」を祀る「薬師堂」があり、
その隣には「歓喜天」を祀る「聖天堂」があります。


宗吾霊堂ー14

宗吾霊堂ー24宗吾霊堂ー23

仁王門の正面に建つ霊堂の左右には「天下泰平萬民豊楽」
「慈眼視衆生福聚海無量」と書かれています。

宗吾霊堂ー29宗吾霊堂ー28

狛犬も“阿・吽”としっかり睨みを効かせています。


宗吾霊堂ー17
宗吾霊堂ー16

霊堂の左手にある「霊宝殿」の前に2つの板石塔婆があります。
左の板石は明徳二年(1391年)、右の板石には康永元年(1342年)のものです。
阿弥陀の種子(キリーク)と、願文、願主が記されています。
酒々井の山中にあったものを移設したもので、市の指定文化財になっています。

霊宝殿の奥には佐倉宗吾の生涯について説明・展示している記念館もあります。


宗吾霊堂ー20

「宗吾顕彰碑」です。
福沢諭吉の発意により建てられたものです。
諭吉は「学問のススメ」の中で、佐倉宗吾の生き様を絶賛しています。


宗吾霊堂ー21

霊堂の右、一番奥に「奥之院」があります。
平成14年の建立で、十一面観世音菩薩がご本尊です。


宗吾霊堂ー30

門前にあるお蕎麦屋さん、その名も「甚兵衛そば」。
宗吾が直訴のためこっそり村を離れる時に、
印旛沼を渡る舟を出した甚兵衛に因んだ名前です。
この甚兵衛はその後周りに累が及ぶことを避けるため、
自ら印旛沼に入水したと伝えられています。
(「佐倉宗吾」については、いずれ「人とその歴史」の項で採り上げて見ようと思います。)


宗吾霊堂ー31

仁王門の脇では学校帰りの小学生達がゲームに夢中です。
昔はお寺の境内での遊びと言えば「鬼ごっこ」「かくれんぼ」が主流でしたが、
これも時代の移り変わり、側に立つ仁王様はこんな子供たちをどう思っているのでしょう。


宗吾霊堂ー10

六時の鐘が撞き終わるころ、境内には誰もいなくなりました。


             ※ 東勝寺・宗吾霊堂  成田市宗吾1-558
                京成宗吾参道駅 徒歩約10分



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公津村の寺社 | 06:55:07 | トラックバック(1) | コメント(0)
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