FC2ブログ
 
■プロフィール

sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

■訪問していただいた数

■最近の記事

クリックした記事に飛びます。

■記事の分類とアップ数
■良く参考にする書籍リスト

記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年      ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年       ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年   ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年  ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年   ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル        --------------- 

【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

■月別アーカイブ
■リンク
■検索フォーム

■最新コメント
■最新トラックバック
■メールフォーム

メールをいただける場合はこちらから

お名前:
メールアドレス:
件名:
本文:

最下行の「コメント」をクリックしていただいてもご連絡いただけます

■RSSリンクの表示
■QRコード

QR

奈良時代に創建された「四社大神」
今回は前回の「檀林寺」の隣にある「四社大神(ししゃだいじん)」です。

四社大神ー5

この神社のご祭神は、「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」「別雷命(わけいかづちのみこと)」
「宇賀之御魂命(うかのみたまのみこと)」「天児屋根命(あまのこやねのみこと)」の四神で、
後に「菅原道真」が加わりました。

素戔嗚尊はその粗暴な振る舞いから天照大神を怒らせ、天岩戸に隠れさせてしまった
張本人で、八俣遠呂智を退治してその尾から三種の神器の一つである草薙剣を取出す
など、逸話の多い神様です。
別雷命は上賀茂神社のご祭神で、雷を別けてしまうほどの力を持つ神様。
宇賀之御魂命は穀物・食物の神様で、伏見稲荷大社のご祭神で、稲荷神(おいなりさん)
として信仰を集めています。
天児屋根命は春日権現とも呼ばれ、祝詞の神・出世の神様です。
この四神の組み合わせの理由や経緯については、私には全く分かりません。


四社大神ー7

創建の年代は不詳ですが、千葉県神社名鑑に、
「奈良時代の天平勝宝年中に祇園・稲荷・加茂・春日の四神を祀ったのが始まりという」
とあるそうなので、1270年近い歴史があることになります。

鳥居は昭和41年に建てられたものです。


四社大神ー1
四社大神ー23
四社大神ー2
四社大神ー24

見慣れない表情の狛犬です。
でも、よく見るとどことなく愛嬌があるような気もします。


四社大神ー3
四社大神ー25

鳥居をくぐって直ぐ左手にある「青面金剛(しょうめんこんごう)」。
元禄十七年(1704年)と記されていますから、300年以上も前のものです。
見ざる・言わざる・聞かざるの三匹の猿は、まるでお神輿のように金剛を担いでいます。

さて、この元禄十七年は3月には宝永に改元された年で、前年に死者二十万人を
超えたと言われる元禄の大地震があり、3年後の宝永四年には富士山の大噴火
(宝永の大噴火)があるなど、天変地異が続いていた時代でした。
青面金剛は主に関東地方で庚申様の名で親しまれています。
もともとは疫病をもたらす疫病神として恐れられていましたが、その後帝釈天の使者
として病魔を祓ってくれる存在と変化してきました。
不安な世情を振り払おうとの思いで建てられたのでしょうか。


四社大神ー4
四社大神ー33

青面金剛の向かい合う形で三峯神社があります。
(扉に書かれた墨書がほとんど消えていますが、三と山が上にある文字が読めますので、
三峯神社でしょう。)
明治26年の紀年名があります。


四社大神ー6

拝殿で何やら祭礼が行われています。
10人ばかりの人が神主さんを囲んで集まったりばらけたり・・・。
法螺貝の音も聞こえました。
よそ者が近づいては失礼と思い、鳥居の下で祭礼が終わるのを待ちました。


四社大神ー8

「下総町史」には「下総町の社寺と石宮」からの引用として、
「本来は檀林寺の鎮守として須佐之男神を祀っていたものへ、愛宕・天神・稲荷を
合祀したとする見解もある。」
(P413)との記述もあり、四神の組み合わせには
諸説があるようです。
なお、明治43年に菅原道真の「天満宮」を合祀した記録は残っています。


四社大神ー9

開け放たれた拝殿からは本殿が見えます。


四社大神ー10
四社大神ー12

本殿の屋根には千木・鰹木はありません。
拝殿が最近建て替えられたものであるためか、比較するととても重厚に見えます。


四社大神ー13
四社大神ー27     ← 来宮様
       天満宮 →   四社大神ー28

この2つのお宮にはどこにも名前がありません。
祭礼が終わった氏子の方に聞いてみましたが、「大きい方はキノミヤサマと言っているが、
詳しいことは分からない。小さい方は確か天満宮。」とのことでした。

「もう祭礼もほとんど参加する人がいなくなった。オレらの時代で終わりだな・・・。」
鳥居をくぐりながら振り返った老人は寂しそうに呟きました。


四社大神ー31
四社大神ー30
四社大神ー29

写真を撮っている傍を小鳥が飛び跳ねています。
近づいても恐がる様子を見せません。
鳥には詳しくありませんが、図鑑で見るとセキレイかカワラヒワだと思います。
雑木林に囲まれたこの神社は、格好の餌場なのでしょう。

※ 「地誌のはざまに」を書かれているKanageohisさんから、これは「ジョウビダキ」のオス
  だと教えていただきました。
 地誌のはざまに⇒
  あらためて図鑑を見るとピッタリその通りでした! ありがとうございました。


四社大神ー26

雑木林に分け入ってみると、ところどころにこのような崩れた石碑のようなものが、
枯葉に埋もれて散乱しています。


四社大神ー34
四社大神ー11

この「四社大神」に関する資料はほとんど見当たりません。
わずかに残った高齢の氏子に細々と守られはいますが、やがては忘れ去られて
しまうのでしょうか。
奈良時代に創建されたのだとすれば、どこかに埋もれているであろう資料を
掘り起こせば興味ある歴史が現れてくるはずです。


四社大神ー35


               ※ 「四社大神」 成田市大菅162
                 JR成田線滑川駅より徒歩約30分
                 前回紹介した檀林寺と隣り合わせの場所にあります



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

滑河町の寺社 | 07:07:39 | トラックバック(0) | コメント(2)
消えた歴史~檀林寺
大菅の檀林寺を訪ねました。

檀林寺ー1

「檀林寺(だんりんじ)」は浄土宗名越派のお寺で、山号は「梧桐山(ごどうさん)」、
院号は「光明院」。

「寺伝によると天平神護2年(766年)、良辯上人を開山とし、智証大師の中興を経て
天台寺院となりましたが、その後正和元年(1312年)浄土宗名越派大空上人により
再興されたと伝えられています。 本尊阿弥陀如来は台座に仏師定慶の銘があり、
境内には建武2年(1335年)を最古とする板碑十数基があります。 現在の本堂は
江戸期の火災後再建されたものです。」
 (山門前の説明板)


檀林寺ー2
檀林寺ー3

階段を登ると質素な山門が迎えてくれます。


檀林寺ー4

「寺伝によれば、天平神護2年(766)良辯上人を開山とし、智證大師の中興を経て
天台宗寺院となったとされているが、天台時代の記録等は他にない。
その後、堂宇荒廃していたが、正和年間(1310頃)浄土宗名越派祖・尊観上人の弟子
大空上人によって再興され、浄土宗寺院となったと伝えられる。
この地は浄土三祖・良忠上人に縁のある鎌倉桐ヶ谷に地形が以ており、大空上人、
二世恵観上人の努力で、境内の諸堂が整備され、またこのとき鎌倉光明寺に因み
院号を光明院として、僧侶の初期の学問寺院とならんことを願い寺号を檀林寺と
号したといわれる。
江戸時代には3つの坊に常時数十人の青年僧が修学・修行していたと伝えられる。
尚、境内には建武2年(1335)銘を最古とする十数基の板碑が点在し、当時の繁栄を
知ることができる。」

(浄土宗千葉教区Webより)

浄土宗の寺院になってからでも700年の歴史があり、寺伝によれば1250年もの
歴史を有するお寺です。
寺の名前の「檀林」とは僧侶の勉学所のことで、このお寺も小さいながら若い僧侶の
修行場であったようです。


檀林寺ー5
檀林寺ー6

派手さはありませんが、ダイナミックな龍の彫刻です。


檀林寺ー25

板碑の形をとった説明板。
山門への階段脇にあった木製の説明板と同じ内容です。


檀林寺ー7

本堂に向かって左手にあるお堂。
何の説明もありませんが、中に如意輪観音像が安置されているのが見えるので、
観音堂なのでしょう。


檀林寺ー8

観音堂の隣にある小さなお堂には、風化でお顔の判別もつかない仏様が祀られています。


檀林寺ー9
檀林寺ー27

小さな観音菩薩像。
風化と補修痕のため、刻まれた文字は爲の一文字のみしか判読できません。


檀林寺ー10
檀林寺ー11

この石碑には深くしっかりした彫りで南無阿弥陀仏の文字が刻まれています。
側面に江戸の宮三左衛門ほか、~六郎、~兵衛門の名前と仏様が彫られ、宝永二年
(1705年)の紀年銘があります。


檀林寺ー12
檀林寺ー13

歴史あるお寺だけに、墓地には古い墓石が目立ちます。
寛文、宝永、延享、安永、寛政、文政などの年号が記されています。


檀林寺ー15

本堂から少し離れた境内の地続きに建つ民家(ご住職のお宅でしょうか?)の庭先に
大小十基の板碑が並んでいます。
近づきたいのですが、残念ながら、通路に太い竹を渡して庭へ入ることを拒否する強い
意思が感じられて、離れた所から望遠で撮影するしかありません。


檀林寺ー16
檀林寺ー17
檀林寺ー26

資料によると、一番古いものは建武二年(1335年)の十三仏の板碑で、以下暦応二年の
五仏板碑、貞治四年(1365年)の二仏板碑、応安三年(1370年)の三尊双式板碑、
応安四年(1371年)の阿弥陀三尊板碑等です。


檀林寺ー24
檀林寺ー23

帰り道に山門の脇に3基の石仏が埋もれているのを見つけました。
文字は読み取れませんが、合掌しているように見えます。

檀林寺ー14

この地は成田市との合併前には香取郡下総町でした。
「下総町史 通史近世編」を拾い読みすると、
「『郡誌によれば「仏舎利は称徳天皇の御蔵に係り』、後江戸時代に『豊後木村(杵築)
城主松平重賢日向守の喜捨するところと為す舎利塔銘あり之を詳らかにす』とある。」
「明治二十八年(一八九五)の『神社寺院取調書』には、本尊阿弥陀如来は慈覚大師
の作、腹籠は一寸二分の釈迦如来で弘法大師の作、大永二年(一五二二)に下野国
芳賀郡七井村(益子町)正法寺から移した旨記されている。」

とあります。

いずれも伝承の域を出ないので、その真偽のほどは分かりません。
また、このお寺が浄土宗に改宗したのは「徳治元年(1306年)で、良安上人による」
との記述も見えます。


檀林寺ー18

長い歴史を有する「檀林寺」は、その名の通り若い僧を育てる「檀林」であっただけに、
もっと多くの歴史的な遺物があってもおかしくないと思われますが、たまたま居合わせた
古老の話では、修復もままならない状況の中、こっそり持ち去る不届き者がいるようで、
いつの間にか見えなくなってしまったそうです。
歴史が消されてしまった思いです。
板碑を庭先に集めてセメントで固めたのも、悲しい防衛策なのでしょう。


檀林寺ー22


              ※ 「檀林寺」 成田市大菅167
                 JR滑川駅より徒歩約30分 
                 コミュニティバスしもふさ循環 大菅下車徒歩1分(本数少)
                 駐車場はありませんが、駐車スペースはあります。  

              ※ 檀林寺は以前訪ねた名古屋の小御門神社と滑川の龍正院
                 との中間地点にあります。3ヶ所回って4時間コースです。
                 小御門神社 ⇒
                 龍正院 ⇒



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

滑河町の寺社 | 08:17:43 | トラックバック(0) | コメント(2)
山中にひっそり佇む~須崎神社
今回訪ねたのは「須崎神社」です。
昨年10月14日に掲載した「須賀神社と清龍寺、道を挟んだ神社とお寺」の時の
須賀神社と同じように、当てもなく移動していて偶然出会った神社です。

須崎神社ー1

細く、曲がりくねった山道の途中に「須崎神社」は突然現れました。


須崎神社ー2

神明鳥居が重なるように2つ建っています。
手前は石造りですが、後ろは木製で控柱が付いています。
木製の鳥居が傷んだので、新たに石造りの鳥居を建てたのでしょうか。


須崎神社ー3

訪れる人もいないようで、参道には落葉が積もっています。

拝殿脇の説明板にこの神社の由来が書かれていました。
「堀籠部落の鎮守様である この地を大伯天須崎と呼ぶ 須崎神社の名地名によるもの
元亀年間四百年前此の部落に 悪病流行して死者續出 住民が恐れ香取神宮に祈願
神宮の祭主経主の命を奉紀致したもので在る 其の后二回の火災に合う 現在の社
明和八年 二百年前に再建したもので在る 創建に当り当時村の有志三仁門さんが
特別の御奉仕された事が明記されております」
(文章はそのまま)

元亀年間(1570~73)に創建されて、明和八年(1771年)に再建されたという
歴史ある神社でした。
ご祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)。

この神社の歴史をもう少し詳しく調べると、元亀三年(1572年)に創建され、翌天正元年
(1573年)に社殿が完成しましたが、文禄四年(1595年)に兵火で焼失し、慶長八年
(1603年)に再建されましたが、正徳二年(1712年)野火で再び焼失。
享保二十年(1735年)に再建され、明和八年(1771年)改築して明治時代に至ります。

「大栄町史・民俗編」(大栄町史編さん委員会編 大栄町発行)によれば、須崎神社は
堀籠地区の産土様(ウブズナサマ―村の神様)で社格は8級とあります。(P154)
毎年神社庁に納める負担金は社格によって決まっていて、8級は最下級の兼務社です。


須崎神社ー4

拝殿は開け放たれて、吹きさらし状態です。


須崎神社ー7
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須崎神社ー8
風雨に晒されて大分傷んだ古いお神輿が無造作に置かれています。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須崎神社ー5
須崎神社ー6
「願主 當村善男女」と記された、天明元年(1781年)の宝塔。 


須崎神社ー9

神額には「赫日流輝」(かくじつきをながす)と書かれています。
これは夏の暑い日が強く光を放っている様を表す言葉で、中国の魏晋南北朝時代の
文学者・陶淵明の詠んだ漢詩です。
漢魏六朝と言われる漢詩の詩体の一種で、韻律や文字数に制約のない、自由な形式です。

どうしてこの漢詩がここに掲げられているのかは分かりませんが、明治の戦役記念という
文字が見えますので、地元出身の兵士を顕彰して掲げられたようです。


須崎神社ー10
須崎神社ー11
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・須崎神社ー12
本殿は部分的に補修が行われています。
再建されてからも240年以上経っていますから、傷みも激しかったのでしょう。

本殿の周りを囲むように、沢山の祠が並んでいます。
明治41年に浅間神社(ご祭神・木花咲姫命)、鳳凰・吾妻神社(ご祭神不明)、八幡神社
(ご祭神・誉田別命)、天満神社(ご祭神・菅原道真)を合祀したという記録があります。
(大栄町史)


須崎神社ー13

「天満宮」です。
大正11年と記されています。

須崎神社ー14

「駒形神社」です。
大正9年と記されています。

須崎神社ー15
須崎神社ー16

崩れて判別できないものもあります。

須崎神社ー17

「八幡大神」です。

須崎神社ー18

千木は垂直切り、鰹木は3本です。


須崎神社ー19
須崎神社-20

境内の脇に荒れ果てた名も無い祠がありました。
中には小さなキツネの置物が・・・。
稲荷神社だったのでしょうか?


須崎神社ー22
須崎神社ー21

裏山の中に何やら祠のようなものが見えます。
近づいてみるとやはり小さな祠でした。
辛うじて「石宮」の二文字が読めました。
石宮神社という名の神社は松江や磐田、新潟などにあるようですが、あまり関連が
あるとは考えられません。
大木の根元で半分土に埋まり、幹にものみ込まれそうな姿は、玉造の六角堂にある
「木隠れ観音」を思い出させます。
宝徳寺観音堂 ⇒


須崎神社ー26
須崎神社ー27

鳥居の下に種字が彫られた欠けた板碑が2基。
一つは割れて倒れています。
きちんと調べれば、興味深い歴史が浮き出てくるかもしれません。


須崎神社ー28

参道の手前に二つの道祖神が並んでいます。
文化四年(1807年)と読めました。


須崎神社ー23
須崎神社ー25

堀籠は成田市の外れ、すぐ先は香取市と神崎町との境です。
江戸時代には「大白天」と称していましたが、明治6年に「須崎神社」と改称しました。
山中の鬱蒼とした森に包まれ、日陰で湿気の多い須崎神社ですが、調べれば
まだ何かが出てきそうな興味深い神社でした。


須崎神社ー29


              ※ 「須崎神社」 成田市堀籠840
                京成成田駅中央口より千葉交通バス 佐原行き 
                桜田権現下車徒歩約30分



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

大須賀村の寺社 | 07:01:41 | トラックバック(0) | コメント(2)
台方の超林寺
以前に紹介した「麻賀多神社」の傍に「超林寺入口」の小さな看板があります。
今回は麻賀多神社訪問の時から気になっていた、この「超林寺」に向かいました。

超林寺ー1
超林寺ー2

麻賀多神社の先を下って行くと、山に包み込まれるように「超林寺」があり、その前には
田んぼが広がっています。


超林寺ー3
超林寺ー5

「超林寺」は「麻賀多山信竜院超林寺」と号する曹洞宗のお寺です。
ご本尊は「釋迦牟尼佛(釈迦如来)」で、文明十三年(1481年)の建立です。

「成田市史近代編資料集1旧町村誌」の中に、超林寺に関する記述がありました。
「當寺開基千葉家始祖輔胤公 臺方龍谷ニ隠棲ノ際 超林道場ヲ建立シテ、
常州大雄院五世貴田周裔和尚ヲ 開山ニ請シタリ。 時ニ元享元年ナリ。
故ニ公没後ノ法名 超林寺殿一置シアリ。 尚境内ニ千葉家墓碑現有セリ。
當寺ハ曹洞宗小本寺格ニシテ、現ニ二ヶ末寺ヲ有スルノミナラズ、古来
臺方一円下方ノ大部分ハ當寺帰依檀徒タリ。」 
(P200 公津村史)

輔胤公(すけたねこう)とは、室町時代中期から戦国時代初期の武将で、印旛郡印東庄
岩橋村を所領としていたことから、岩橋輔胤と名乗っていました。
(なお、この輔胤が千葉家の当主であったかどうかについては諸説があるようです。)
また、臺方(だいかた)、下方(しもかた)は超林寺周辺の地名です。


超林寺ー6
・・・ 本堂横の「妙覚院」 超林寺ー7


超林寺ー10

本堂の手前に2基の板碑があります。


超林寺ー8

下総式板碑で、元享二年(1322年)の紀年銘があるとされています(今は判読できません)。
刻まれている種字は「阿弥陀如来」を表しています。


超林寺ー9

成田市指定有形文化財の「平貞胤供養碑」。
案内柱には「今は判読できないが観応二年(1351年)の記年銘がある」と書かれています。
平貞胤(千葉貞胤 1292~1351)は千葉氏第11代当主で、南北朝時代に鎌倉幕府側に
ついて楠木正成と戦い、後に新田義貞が挙兵するとこれに与し、さらに北朝方に寝返るなど、
激動の時代を生き抜いた武将です。


超林寺ー11

2基の板碑に並んで宝篋印塔が建っています。
宝篋印塔は通常、供養塔や墓碑塔として建てられます。
辛うじて「第十四世~」とだけ読めますので、御住職の墓碑塔なのでしょう。


超林寺ー12

この多層塔は台座部分が平成13年に新しくされました。


超林寺ー13

「御開山貴田周裔大和尚」像。


超林寺ー14
超林寺ー15

屋根を見上げると、見慣れない瓦組みです。
大棟瓦と言うのでしょうか、棟込瓦と言うのでしょうか、良く分かりませんが、薄く細長い瓦が
何層にも並んでいます。
見えている紋は梅のようです。
曹洞宗のお寺は竜胆と桐の紋のはずですが・・・


超林寺ー16

境内の左側に大小4基の石碑が建っています。
左端の一番大きな碑は昭和63年に建立の「客殿庫裡建立記念碑」です。
そこにはこう記されています。
「当山は本寺常陸国日立市宮田町杉室天童山大雄院より千葉輔胤公が文明十年
(一四七八年)室町時代に開基し、大雄院五世貴田周裔大和尚により開山される。
御本尊は釋迦牟尼佛であります。現在に至る迄檀信徒の厚き護持により禅寺として
幾多の天災地変もありましたが法灯を守り続けてきました。~」


隣は大正4年の「報恩」と刻まれた石碑で、「菊地全應老師報恩碑」と記されています。
三番目の小さめの碑は明治33年の「功徳碑」、一番右には「永代燈明料」とあります。


超林寺ー18
超林寺ー19超林寺ー20・・・・・

このお堂の名前は私には読めません。
漢和辞典で懸命に探しましたが、この文字は見つかりませんでした。
雨の下に弓が3つ並んでいます。
一番近いと思われるのが「靈」か「霛」なのですが・・・。
2体の仏様はいずれも左手に数珠を、右手に経典のようなものを持っています。

※ このブログをお読みいただいている方から、以下のようなご指摘をいただきました。
「読みは”Ling(りん)”、中国古語のようです。 意味は精神とか魂を示す古代釈尊由来
のようで、現在の中国語の主体を成す、当時より簡便なモノとは違い、より原仏教に近い
文字のようです。」
ありがとうございました。 すっきりしました。



超林寺ー21

昭和59年に建立された「慈母観音」。
慈母観音にはいろいろな形がありますが、この観音様は子供を軽々と抱き上げて
すっくと立った像です。


超林寺ー22
超林寺ー31

斜面に古い墓地があります。
延宝、延享、享保、天明などの年号が見えます。
斜面に向かって立ち、通路には背を向けた石仏には「如意輪観音」が多く見られます。


超林寺ー24

お寺の前、田んぼに向かっては新しい墓地が広がっていますが、その一角に古い石仏が
集められています。
貞享、文化、文政などの年号が読めます。


超林寺ー25
超林寺ー26

ふと視線を感じて振り返ると、ネコが道端に座っていました。
じっとこちらを見つめて、何か言いたそうです。


超林寺ー27

その傍にこんな看板が・・・。
なるほど、おっしゃる通りです、良く分かりました!
ネコの腕に「自然保護」の腕章が見えたような、見えないような・・・。


超林寺ー17
超林寺ー23

「超林寺」は近くの「麻賀多神社」や「宗吾霊堂」に隠れてあまり知られてはいないお寺です。
きれいに手入れされた境内には530年を超える歴史とともに、檀徒に守られている雰囲気
が感じられます。
「麻賀多神社」 ⇒
「宗吾霊堂」 ⇒


超林寺ー33


                 ※ 「超林寺」 成田市台方10-2
                   京成宗吾参道駅から徒歩約30分
                   京成公津の杜駅からコミュニティバス 北須賀ルート
                   麻賀多神社下車 徒歩5分



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公津村の寺社 | 07:00:43 | トラックバック(0) | コメント(3)
日本武尊と弟橘姫~吾妻神社
新年おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。


今回は成田ニュータウンの中にある「吾妻神社」を訪ねます。

吾妻神社ー8

「吾妻神社」は「吾妻塚」と呼ばれる古墳の上に建てられています。
「吾妻神社」の由来について、説明板を引用しますと、
「吾妻神社は、第十二代景行天皇の皇子である日本武尊と妃の弟橘姫の二神を祭神として
ています。日本武尊が東征の折り、ここ下総に至り、印波湖(印旛沼)を渡って北上し常陸に
軍団を進めるとき、かつて、相模の走水から対岸の上総へ渡る際に、波が荒れて船を進め
ることができませんでした。その時、妃の弟橘姫が、海神の怒りを鎮めようと自ら身を投じて
海難を救いました。その健気な姫の面影を偲び、尊は、この地にも塚を築いて遺品を納め、
祠を建てて姫を祀ったのがこの神社の創めと伝えられています。」

吾妻塚とは、弟橘姫の遺品を納めた古墳のようです。


吾妻神社ー9

日本武尊については諸説あり、中には雄略天皇をはじめとする何人かの英雄を統合した
架空の人物であるという説もあります。
私は、伝説には僅かであっても事実が含まれていると考えています(その方が夢があって
良いですよね)。
伝説に基づいて神社の由来にある創建の年代を推測すると、日本武尊の東征が景行天皇
四十年(290年)とされていますから、その頃、実に1700年以上も前になります。


吾妻神社ー10
吾妻神社ー13

約100年くらい前に建て直された小振りな本殿は、石柵に囲まれて保護されていますが、
残念ながら少々荒れた感じがします。

「時を経て、大正に初期に塚の周辺も荒れ、塚上にあった祠も損壊したため、氏子らの協力
を得て塚を築き、お宮を新たに建てて日本武尊を合祀しました。以来、夫婦和合、家運繁昌
の神さまとして崇敬をあつめ、近郷近在からの参詣客が年ごとに増えました。 古老の話に
よると、縁日の時には、南側に伸びていた約五十メートル程の参道に、数十軒の出店が立ち
並び大層賑わったといいます。」

(説明板より)

50メートルもあった参道は今はありません。
鳥居も無い社殿の前を細い道が横切り、立ちふさがるように住宅が立ち並んでいます。


吾妻神社ー11
吾妻神社ー19
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾妻神社ー18
狛犬の表情もどこか愛嬌があります。


吾妻神社ー12

本殿の千木は水平切り、鰹木は4本で、女神(弟橘姫)が祭られていることを示しています。

「また、無事に上総の地に着いた尊は、姫が身を投げた海辺に立ち「君さらず袖しがらみ
に立つ浪の その面影を見るぞ悲しき」という歌を詠み、その歌が地名の由来になったという
木更津市にも、姫の故事に因んだ本宮とも言うべき吾妻神社があります。」
 
(説明板より)

日本武尊は木更津に上陸して房総半島を北上したのですね。

「日本武尊(ヤマトタケル)東国征伐の折、相模(現在の神奈川県の一部)から上総(現在の
千葉県の一部)に渡ろうとしたとき、海上で嵐に襲われ、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海に
身を投じることで嵐を鎮め、数日後に海岸に御袖が流れ付いたので、この御袖を納める社を
建立したのが創祀と伝えられています。また、吾妻という地名は、日本武尊(ヤマトタケル)が
弟橘姫(オトタチバナヒメ)をしのんで「吾妻はや(我が妻よ)」と言った故事に由来するとされ
ており、吾妻神社には、弟橘姫(オトタチバナヒメ)が祀られています。」

(木更津市ホームページより)
こちらの神社の所在地も、木更津市吾妻です。


吾妻神社ー14
吾妻神社ー15

本殿の裏側に合祀された「猿田彦神社」があります。
隣接する宅地の一部を切り取ったような狭い場所です(と言うより、宅地が神社用地に
食い込んだと言う方が当たっているいるようですが・・・)。


道を挟んだ西側に気になる丘があります。
吾妻神社の説明板にもこう書いてあります。
「日本武尊は、大和政権による国内統一に献身した古代日本における伝説上の勇者と
してよく知られており、数多くの、物語に登場します。神社の西側にある古墳は天王塚という
前方後円墳ですが、この地域一帯は、昔から公津が原とよばれ大小様々な古墳がたくさん
ありましたが現在は、四十基が千葉県指定史跡として保存されています。」


吾妻神社ー1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・吾妻神社ー3
吾妻神社ー2

登った先には「浅間大明神」の祠がありました。


どうやら裏から登ったようで、前方に「八坂神社」の祠と鳥居が見えました。

吾妻神社ー4

右は平成26年、左は大正7年の建立です。
ご祭神は「素戔嗚尊(すさのおのみこと)」(牛頭天王)です。


吾妻神社ー5

鳥居は浅間大明神の反対側にあり、こちらが正面のようです。
ここは公津原古墳群の21号(天王塚)です。


吾妻神社ー16

再び浅間大明神の横を通って吾妻神社に戻ります。

2つ並んだ常夜燈は大正5年に寄進されたもので、説明板にあった再建時のものです。


吾妻神社ー20

天王塚との間に、ポツンと置かれた道祖神。
大正5年と刻まれていますから、これも再建時に建てられたものです。


吾妻神社ー17
吾妻神社ー21

お年寄りが一人、丁寧に境内を掃き清めていました。
住宅街の中で、ともすれば邪魔者扱いされかねない存在を、こうした人が守っています。

「吾妻」の地名は、日本武尊が亡き妃の弟橘姫を偲んで、「吾妻はや」(我が妻よ)と呼び
かけたことに由来し、また東国を「東」(あずま)と言うようにもなったと言われています。

「神社の北方には、昭和三十七年、東日本で初めて発見された八代玉作遺跡があり、
成田ニュータウン内の発掘調査成果と併せて、この地域が吾妻神社の由来を裏付ける
ように大和政権による東国進出の道筋であったと言うことができます。」

(説明板より)


吾妻神社ー22


            ※ 「吾妻神社」 成田市吾妻3-41
              北総線成田湯川駅から徒歩約30分
              JR成田駅西口より千葉交通バス 成田湯川行き 
              吾妻神社下車徒歩3分
                            
                             

テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

公津村の寺社 | 07:00:00 | トラックバック(0) | コメント(6)
1400年前の雷鳴~雷神社
「雷神社(らいじんじゃ)」は小橋川に架かる「雷神橋」の前にあります。
(正しくは、雷神社の前にあるのが雷神橋ですね。)

雷神社ー1
雷神社ー2

鳥居は昭和58年に建てられました。

小橋川は郷部を水源として新妻で根木名川に合流する全長4.8キロの川です。


雷神社ー3 遠くに見えるのは北総線
階段では猫が日向ぼっこ 雷神社ー4

雷神社ー5

急階段の上にちらりとお社が見えます。


雷神社ー6

第三十四代舒明天皇(593~641)が行幸の途中にこの地を通った時、山頂の古松より
一つの雷鳴が響きました。
これを聞いた天皇はこの雷鳴に深く感ずるものがあり、その古松の下に一祠を建てられ
たのが、この神社の始まりだと伝えられています。
伝承通りとすれば約1400年の歴史があることになります。
ご祭神は「大雷神」で、疫病除けの神様として近隣の信仰を集めています。


雷神社ー7

神額は陸軍大将・立花小一郎の書です。
立花小一郎(1861~1929)は、日清戦争では第1軍参謀、日露戦争では第4軍参謀副長
を務めるなど、輝かしい軍歴を持ち、福岡市長を務めた後、貴族院議員となった人物です。
この神額を書くに至った経緯は分かりません。


雷神社ー8
雷神社ー11

本殿は質素な造りです。


雷神社ー9
雷神社ー17
雷神社ー10 享保十一年(1726年)

本殿の裏に2つの祠。
いずれも「雷神宮」と記されています。


雷神社ー12  山口雷神社竣工記念碑(平成6年)
雷神社ー13   平成5年の記念植樹

雷神社ー14
雷神社ー15

「『成田詣』という道中記には「雷の宮へ参り候、抑是は山口村の一の宮にて峨々たる
老松隠森渠々として枝を交え、社頭の石坂を登りて渇仰弥増」と記し、雷神社の森の
すばらしさを表現している。」

(「成田の地名と歴史」成田市発行 P389)

いまは樹木も少なくなっていますが、古木の生い茂るこの小山は当時の面影を残しています。

なお、「成田市史近代編資料集1旧町村誌」中に納められている「下総国下埴生郡山口村誌」
(明治17年)に、雷神社について次のような記述があります。(214P)
「字雷アリ、地坪四拾九坪。 祭神ハ大雷神ナリ。 境内ノ土地醎気ヲ帯ビ海塩ノ如シ。」
塩害があるような場所ではありませんので、太古にこの一帯が海だった名残でしょうか?
そんな土壌に見事な森が育つものなのか、記述に誤りがあるのか、何らかの理由で一時的に
醎気(かんき-辛い・塩辛い)を帯びたのでしょうか?


雷神社ー18
雷神社ー19

眼下を我孫子に向かう成田線が走っています。
下総松崎(しもうさまんざき)駅を出て成田に向かっています。


雷神社ー20
雷神社ー26

雷神社という名前は多くあるようですが、そのほとんどは雷(いかずち)と読むようです。
雷(らい)と読むこの神社は、(伝承によれば)1400年の歴史を刻むわりには地味な
存在です。
狭いながらもきれいに掃き清められた境内には、冷たい北風が吹きつけて、
近くを走る電車の音も届きません。


雷神社ー27


               ※ 「雷神社」 成田市山口1205
                  北総線成田湯川駅から徒歩約20分

                         新年は1月5日(月)から更新の予定です。
                           皆様良いお年をお迎えください。




テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

八生村の寺社 | 07:12:58 | トラックバック(0) | コメント(6)
歴史の重み、「大須賀大神」
今回は伊能にある「大須賀大神」を訪ねます。

大須賀神社ー1

「大須賀大神」は弘仁元年(810年)の勧請と伝えられています。
1200年の歴史を持っているこの神社は、当初は近くの別の場所(神代)にありましたが、
火災にあってこの場所に移転してきました。


大須賀神社-3

手水盤には享保十四年(1729年)と刻まれていました。


大須賀神社ー8

ご祭神は天児屋根命(あめのこやねのみこと)。
春日権現と呼ばれることもある祝詞の神様で、出世の神様とされています。
天照大神、武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(くつぬしのみこと)を合祀していて、
郷社の格を持つ近隣村社の総鎮守です。

「境内はかつて祭礼ともなると1万を超える人が訪れたという広さで、いたるところに
合祀された祠がある。」
(「大栄町史・民俗編」 大栄町史編さん委員会編 P155)


大須賀神社ー7

鳥居の下に昭和12年の「拝殿鳥居間参道敷石」と記された寄進の碑が建っています。


大須賀神社ー9 昭和32年寄進の狛犬
足元に子犬(?)がいます 大須賀神社ー10


参道の左手にはずらりと石碑が並んでいます。

大須賀神社ー16

「護国碑」は昭和27年に建てられ、徳富蘇峰の書になります。
「蘇峰九十叟」と記されていますが、昭和27年には蘇峰はちょうど90歳になっていました。
叟とは翁という意味でしょう。
蘇峰は高名な思想家ですが、自由民権から富国強兵までの振幅の激しい思想家でした。
「不如帰」で知られる徳富蘆花は実弟になります。


大須賀神社ー12

「忠魂碑」は海軍大将・東郷平八郎の書です。
日清・日露両役戦没者の慰霊のために、明治39年に建てられました。
東郷平八郎(1848~1934)は日露戦争での日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を
撃破したことで世界中の海軍から尊敬を集めた軍人で、陸軍の乃木希典大将とともに
軍神として崇められました。
東京・渋谷、福岡・福津、埼玉・飯能に「東郷神社」があります。


大須賀神社ー13

「凱旋記念碑」も東郷平八郎の書で、明治39年に建てられました。


大須賀神社ー14

「戦役記念碑」は陸軍大将・田中義一の書で、大正11年の建立です。
田中義一(1864~1929)は軍を退役後、政界に進み、第26代内閣総理大臣を務めた
人物で、政治家としての評価は分かれますが、気さくな人柄で知られています。
戦後の内閣総理大臣・吉田茂は、この田中義一を師と仰いでいました。


大須賀神社ー15

「招魂碑」は昭和28年の建立で、宇垣一成謹書と記されています。
裏面に日露戦役、日支事変、太平洋戦争の戦没者を慰霊するためと書いています。
宇垣一成(1868~1956)は陸軍大将で、陸軍大臣、朝鮮総督などを歴任しました。
軍部出身ながら当時の軍部の独走に批判的で、何度も軍部に対する抑止力を期待されて
首相に推されましたが、いずれも軍部強硬派に阻まれ、ついに首相にはなれませんでした。



大須賀神社ー17
大須賀神社ー21

本殿の千木は垂直切り、鰹木は5本で、ご祭神が男神であることを表しています。


大須賀神社ー22
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・大須賀神社ー23
大須賀神社ー11

拝殿の装飾はさほど多くはありませんが、見事な彩色に彩られています。


大須賀神社ー19
大須賀神社ー20

本殿裏の天満宮と三峯神社。


大須賀神社ー24

拝殿の右手にある疱瘡神、八坂神社、金毘羅宮。


大須賀神社ー25

比較的新しい祠が三つ並んだ裏側に、古い祠が置かれています。
金毘羅宮は寛政5年(1793年)と読めます。


大須賀神社ー26拝殿前の防火用の大釜
大須賀神社ー27明治14年奉納の賽銭箱


大須賀神社ー29

裏山は鬱蒼とした林です。
その中にポツンと白山神社が建っています。

大須賀神社ー30

境内の一角に能舞台があります。
ここで民俗芸能の「伊能歌舞伎」が上演されます。

「伊能歌舞伎」は、元禄十年(1697年)に始まったと言われています。
昭和40年を最後に上演されなくなっていましたが、平成に入って復活の気運が高まり、
「伊能歌舞伎保存会」が設立されて平成11年に復活し、今では近隣の各地で公演を行う
までになっています。

大須賀神社-38
地芝居ポータル提供「伊能歌舞伎」⇒

大須賀神社ー34
FEEL成田 伊能歌舞伎 2013.4.2 ⇒

昭和40年以降上演が途絶えたのは、火災によって衣装が焼失したり、役者は若衆
(16~25歳までの男子)のみがなれるという決まりが、少子化の影響もあって役者
不足を招き、また時代と共に娯楽が多様化するなかで、上演が難しくなったためです。
一度途絶えた民俗芸能を復活させるには、大変な苦労があったことでしょう。
現在は市の指定無形文化財となっています。


大須賀神社ー33
大須賀神社ー31

1200年の歴史がある「大須賀大神」。
その歴史を記すものはほとんど残っていません。
しかし、社殿をはじめ裏山の深い森や、境内の静かな佇まいは、時の重みを
感じさせるに十分な雰囲気です。


大須賀神社ー37


            ※ 「大須賀大神」 成田市伊能345
              京成成田駅中央口より千葉交通バス 吉岡経由佐原行き
              大栄郵便局下車 徒歩5分







テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

大須賀村の寺社 | 08:27:00 | トラックバック(0) | コメント(0)
磐裂神社~「おびしゃ」と「ウナギ」
今回は奈土の磐裂神社(いわさくじんじゃ)を訪ねます。

磐裂神社ー7

珍しい名前の神社ですが、創建年代やご祭神の記述がなかなか見つかりません。(※)
同じ名前の神社が栃木の日光にあり、ご祭神は磐裂命と根裂命の二柱とありますし、
同じく栃木県の下都賀郡壬生町にある「磐裂根裂神社」のご祭神も同様なので、
多分ここの「磐裂神社」のご祭神も「磐裂命」「根裂命」の二柱だと思われます。

「イワサク(イハサク)・ネサクは、日本神話に登場する神である。
『古事記』では石析神・根析神、『日本書紀』では磐裂神・根裂神と表記される。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった
火神カグツチの首を斬ったとき、剣の先についた血が岩について化生した神で、
その次に石筒之男神(磐筒男神)が化生している。」

(ウィキペディア「イワサク・ネサク」の項より)

(※「成田の地名と歴史」にはご祭神を磐裂神とし、松子城主の大須賀氏が城の
鬼門除けのために、伊勢国の朝熊山から勧請した、という記述がありました。)


磐裂神社ー3

道端のちょっと引っ込んだところに急階段があり、その上に鳥居が建っています。
坂道の途中なので、下を向いて歩いていると見落としてしまいそうです。


磐裂神社ー5

階段の上の鳥居の脇に「大願成就」と記した昭和20年1月の石碑が建っています。
右上の部分が欠けていて、何の大願成就なのかは分かりませんが、敗色濃い戦争
末期のころに、どんな「大願」があったのか、想像もできません。


磐裂神社ー20
磐裂神社ー19

質素な拝殿ですが、2月に行われる神事の「奈土のおびしゃ」(後述)が行われる場所です。

神額は陸軍大将林銑十郎の筆になるものです。
林銑十郎は石川県金沢の出身で陸軍大学校長、近衛師団長等を歴任し、昭和12年に
内閣総理大臣となった人物。
林と奈土というこの土地、この神社とのつながりはどんなものだったのでしょう?
林が陸軍大将になったのは昭和7年、12年2月初めには総理大臣になっていますから、
昭和7年~11年の間に書かれたことになります。


磐裂神社ー21
磐裂神社ー22
磐裂神社ー23

本殿は小振りながらなかなか質感のある造りで、千木は垂直切り、鰹木は3本で、
ご祭神が男神であることを示しています。


磐裂神社ー8  常夜燈は昭和9年の寄進
磐裂神社ー9

風化で良く読めませんが、皇太子・・・と記されていますので、今上天皇の誕生(昭和8年
12月23日)を祝賀して寄進されたのでしょう。


磐裂神社ー10・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・磐裂神社ー11
拝殿右手の天王社と手水舎。
天王社は牛頭天王・素戔男尊をご祭神としています。

磐裂神社ー12
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・磐裂神社ー13

狛犬の台座は昭和48年に寄進されていますが、狛犬はもっと古い年代のもののようです。


この神社には境内のあちこちに合祀された神社の小さな祠があります。

磐裂神社ー14
拝殿の左側にある「阿夫利神社」

磐裂神社ー15
本殿左手にある奥から天満宮、淡島神社、月山神社
天満宮は文政十二年(1829年)と記されています。

磐裂神社ー16
疱瘡神社
文化五年(1808年)と記されています。

磐裂神社ー17
金毘羅大権現

磐裂神社ー18
稲荷大明神


さて、聞き慣れない「おびしゃ」について説明しましょう。
歩射、奉社、備社などとも書かれ、昔から村人が集まって五穀豊穣や家内安全、子孫繁栄、
悪疫退散などを祈願する、正月行事が起源です。

「奈土のおびしゃ(御武射)」は、「磐裂神社」で約150年前から行われてきた祭礼で、
毎年2月13日に行われてきましたが、近年はその前後の日曜日に行われるようです。
珍しい行事ですので、進行について大栄町史編纂委員会編の「大栄町史・民俗編」から要約
して説明してみます。(大栄町は平成の大合併により現在は成田市になっています)

まず、「おびしゃ」の2日前に当番(官主と言います)とハタラキと呼ばれる女性が、各戸から
儀式に使うもち米を5合ずつ集めてまわります。
前日には官主の使いが「明日、御神酒あげとうございますので、おこしください」と各戸を
ふれてまわります。
当日は午前中に磐裂神社の神殿にて、地域の各班持ち回りの新旧官主、区長、組長など
の役員が集まって神事を行い、その後現官主の家で祭礼が行われます。
酒がふるまわれ、庭先では獅子舞が奉納されます。

磐裂神社ー1
磐裂神社ー2
奈土のおびしゃ(成田市観光プロモーション課提供) ⇒

最後に旧官主が新官主の衿に「御幣の依り代(ごへいのよりしろ)」を差し込みます。
「御幣」とは神事に用いられる2本の紙垂れを竹や木の幣串に挟んだもので、「依り代」とは
神様が依り付くものという意味です。
これ以降は新官主は自宅に戻るまで一切しゃべってはいけない決まりがあります。
その後近くの三叉路の路上で新官主と旧官主が盃を交わして、神様が新官主の班に移り、
儀式が終わります。

「おびしゃ」と呼ばれる行事は北総の各地に見られますが、古くからの形式を守っている
「奈土のおびしゃ」は珍しく、県の無形民俗文化財に指定されています。


磐裂神社ー27

境内からやや離れた道端に道祖神と思われる小さな石碑が立っています。
かろうじて「南 いのう たこ」と読めます。
道祖神が向かっている方角が違いますから、どこからか移設されたのでしょう。


磐裂神社ー24
磐裂神社ー26

普段は訪れる人も無い磐裂神社。
近隣では「虚空蔵様(こくうぞうさま)」とも呼ばれていて、奈土の人々は「虚空蔵様の使い」
とされるウナギを決して食べないそうです。
成田山はウナギが名物の一つですが、奈土の皆さんはどう思っているのでしょう?
奈土を離れれば食べても良いのでしょうか?
でも、信心とはそういうものではありませんよね。
(南房総の大多喜町のある地区でも、同じ理由からウナギを食べない風習があるようです)

昔ながらの様式を守って行われる「おびしゃ」、そして、「ウナギを食べない」風習など、
奈土の地は、成田でも珍しい伝統の集落です。


磐裂神社ー28


           ※ 磐裂神社 成田市奈土738
              京成成田駅前よりコミュニティバス津冨浦ルート 奈土下車徒歩10分



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

大須賀村の寺社 | 08:37:09 | トラックバック(0) | コメント(0)
長沼城址と稲荷神社、そして福沢諭吉
今回は5月に傍を通り過ぎた「長沼城址」を訪ねます。

長沼城址ー1

小高い丘の上にある長沼城址の斜面に、貼りつくように稲荷神社が建っています。
階段は相当に急な勾配で、この場所からお社は見えません。(81段あります)


長沼城址ー2

階段の登り口にある手水盤には天明二年(1782年)とありました。


長沼城址ー6

手水盤のある場所は小さな台地になっていて、「長沼下戻記念碑」(大正7年)、「福沢諭吉
功績記念碑」(大正15年)、「干拓頌功之碑」(昭和54年)の3基の記念碑が並んでいます。

なぜ、この地に「福沢諭吉」の名前が出てくるのでしょう?
通称「長沼事件」または「長沼訴訟」と言われることの経緯を「成田市史」(成田市編纂)の
記述などを参考に要約すると、次の通りです。

長沼村に隣接する地に長沼という約70万坪の瓢箪形の沼があり、村は江戸時代の昔から
この沼から得られる恵みに頼っていました。
いろいろな経緯を辿って、延宝五年(1677年)からは年貢を納めることと引き換えに、長沼
の漁猟採藻権は実質的に村の専有権となりました。
「運上高は一ヵ年に米八石四斗、すなわち一俵に三斗五升入りで二四俵であった。
同年、荒海磯部両村は長沼村に下猟銭を支払うことによって入猟できるようになった。
次いで正徳三年(1713)長沼村は年貢割付状に沼高を記入させることに成功し、ここに
長沼村は長期安定的に沼に関する権利を手中に収めた。」

(「成田市史 近世編資料集三 産業・文化」 P9~10)

近隣の村にとっては、長沼は地域の排水が流れ込む遊水池として重要な役割を持っており、
長沼村の独占状態に不満を持っていましたが、明治5年に維新以後の混乱に乗じて沼の
国有化を当時の印旛県に申請し、県はこれを受理したため、長沼村は独占権を失いました。
沼に頼ってきた長沼村は困窮し、県へ利権の回復を請願しましたが認められません。
村の代表の小川武平は、かねてより心酔している福澤諭吉を訪ね、事の解決を依頼します。
面識もない諭吉を訪ねる武平も、そんな武平に気軽に会う諭吉も大したものです。
当時はそうした時代だったのでしょうか・・・。
武平の話を聞いて長沼村の利権回復運動に共鳴した諭吉は、請願書の作成や、当時の
政府高官に働きかけて支援しました。

明治30年1月に小川武平ほか3名が福沢邸に年始あいさつに訪れた際に、諭吉と交わした
会話記録が残されています。
長沼村の現状についての諭吉の質問に対する武平の答えの要旨はこうです。
「300年前の長沼村は僅か14戸の寒村でした。明治の初めには114戸になっていますが、
これは長沼の恵みがあったからです。田畑は300年間にほとんど増えておらず、もっぱら
漁業で生計を立ててきました。最近では養蚕にも力を入れていますが、沼から採れる藻など
が良い肥料となって桑が良く育つからです。」
諭吉の働きかけもあって、明治30年6月に県知事の阿部 浩によって「沼地下戻命令書」
が発せられ、ようやく長沼村の利権が回復しました。

この争いに関しては、近隣の村々にももっともな言い分がありますが、各地で養蚕を奨励して
いた諭吉が、養蚕に力を入れていた長沼村に協力したとも言われています。
現在長沼は全てが干拓されて、一面の水田地帯となっています。


長沼城址ー7

城跡に向かう中腹に「稲荷神社」があります。
ご祭神は「保食之命」(うけもちのみこと)で、文久三年(1863年)に京都の伏見稲荷より
分神勧請されました。
「保食之命」は食物の神様で、神話に次のように出てきます。
「天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊
が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から
魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。
月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。
それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。
それで太陽と月は昼と夜とに別れて出るようになったのである。」
(ウィキペディア「保食神」)

なるほど!と思わず頷いてしまいそうな神話ですね。


長沼城址ー8

拝殿の中には小さな石の祠が隅に置かれているだけです。
向こう側に本殿が透けて見えています。


長沼城址ー10
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長沼城址ー12
                         ・・・・・・・・・・・
150年を経て、さすがに傷みが目立ちますが、しっかりとした骨組みのお社です。


長沼城址ー13

神社の脇を城跡に向かう急坂の途中にある祠には、文久元年(1861年)とありました。
稲荷神社が建立される前からここにあったのでしょうか。


長沼城址ー15

なかなか険しい地形です。


長沼城址ー17
長沼城址ー18

登ってみると、この城跡は意外に広い台地です。


5月ー9
                                              (本年5月に撮影)
城があった頃は、長沼に突き出た島のような地形であったのでしょう。
この城は長沼氏の居城で、最後の城主の長沼五郎武俊が天正九年(1582年)の
竜台合戦で討死して廃城となりました。

竜台合戦とは、天正九年に滑川城主の小田左京太夫政治が、長沼城の長沼五郎武俊らと
助崎城の内田信濃守を攻めたことが発端です。
一進一退の戦いは内田氏と同盟を結んでいた常陸の足高城主岡見宗治の差し向けた援軍
により、小田方が劣勢となり、利根川近くの竜台城において小田方の諸将がことごとく討死
して終わった合戦です。
その戦いは4カ月にも及びました。


祥鳳院ー25
                                              (本年9月に撮影)
祥鳳院から見る助崎城址です。


長沼城址ー19

木々の間から見える下の景色はのどかな田園風景です。


長沼城址ー20
 堀の跡のような人工的な地形が見えます 長沼城址ー21
長沼城址ー23
「縄張構造としては、長軸120m、短軸60mほどの土塁で囲まれた平坦面を
居住空間とし、斜面部に横堀と腰曲輪を配して防御性を高めている。角部の
腰曲輪には仕切りの土塁を設け、容易に回り込めないよう工夫が凝らされている。」

(「成田の地名と歴史」成田市発行 P323)


長沼城址ー30
長沼城址ー26
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・長沼城址ー27

展望台があったので登ってみました。
この眺望ならば、確かに城を構えるには絶好の場所です。


長沼城址ー28
長沼城址ー29

台地の北西側に一段高くなっている場所があり、その上に祠があります。
大きな方の祠は金比羅大権現です。
文化元年(1804年)と記されていて、側面には鰐が彫られていました。
(実ははじめは「象」だと思って「象」と書いたのですが、Romanさんからのコメントで気付
かされて、改めて調べた結果「鰐」だということが分かりました。ありがとうございます。)


長沼城址ー32

この長沼城址は現在は「長沼市民の森」となっています。
何もない場所ですが、つわもの共の夢の跡をのんびりと散策するには
良いかもしれません。


長沼城址ー41


               ※ 長沼城址(稲荷神社) 成田市長沼2189
                  JR久住駅より徒歩約45分
                  京成成田駅東口よりコミュニティバス豊住ルート
                  長沼保育園下車 徒歩5分(1日に5本)



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

豊住村の寺社 | 08:34:39 | トラックバック(0) | コメント(4)
何の因果か塀の中、「東峰神社」
東峯神社ー31

側高神社のある空港の第2ゲートを出て、一般道を佐原方面に向かう県道44号線に入る
抜け道の途中に「東峰神社」はあります。
取香の側高神社 ⇒

この抜け道に面して空港反対派の土地が残っており、一時は空港反対闘争の象徴的な
場所となっていたこともあって、常に機動隊の監視下にあります。
利用するのは地元住民や空港関係者に限られているので、あまり交通量はありません。
この道は第2滑走路への誘導路の真下をくぐるので、警備上の問題から道の両脇には
高い塀が続いています。


東峯神社ー30

この塀に囲まれた一角に「東峰神社」と書かれた小さな標識が立っています。
「この先行止まり」とも書かれていて、入って行く狭い道にも高い塀が・・・
興味はあるものの、いつも素通りしていました。


東峯神社ー1

今回は思い切って「東峰神社」を訪ねます。

神社への道は曲がっていて先が見えません。
見えるのは威圧感のある塀のみで、奥には機動隊が待っているかも知れません。
入って行くにはちょっと勇気が要ります。


東峯神社ー2

圧迫感のある塀の道を100メートルほど進むと、「東峰神社」はありました。


東峯神社ー3

「東峰神社(とうほうじんじゃ)」のご祭神はちょっと珍しい「二宮尊徳」。
以前、津田沼町(現習志野市)にあった「航空神社」を昭和28年に遷座したもので、この
「航空神社」は民間航空のパイオニア、伊藤音次郎氏が昭和12年に伊藤飛行機研究所内
に空難者を祀るために建立した神社です。
戦後伊藤氏は成田市の東峰地区に入植、航空神社も移設されて「東峰神社」となりました。
戦後になってから入植が行なわれた東峰地区には神社がなかったため、ここが住民たちの
祈りの場所となってきました。


東峯神社ー4

手水盤に水はありません。


東峯神社ー5

「皇紀二千六百年記念」と記された板碑。
「皇紀」とは神武天皇の即位紀元で、2600年は昭和15年でした。
社友會とも記されていますから、多分伊藤飛行機時代に建立されたものを移設
したのでしょう。


東峯神社ー22

いつのころに載せられたのか、10枚ばかりの1円玉が頭上で錆びついている狛犬は
困ったような、怒っているような表情です。

東峯神社ー6
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー7
左の狛犬はこんな場所に嫌気がさして逃げ出したのでしょうか・・・。

東峯神社ー9
東峯神社ー21

「東神社」と記された石柱の裏側には、セメントが埋め込まれた
「航空神社」の文字が・・・
津田沼町から持ってきて、裏側に新しく「東神社」と彫ったのでしょうか?
それにしては石柱が新しいような気がします。
ここに遷座した時は「航空神社」のままで、しばらくしてから入植者たちの拠りどころと
なるよう、地名をとって「東峯神社」に変えたのかもしれません。

東峯神社ー14

「東神社」か「東神社」か・・・
「峯」とあるのはこの石柱のみで、この辺りの地名は「東峰」、鳥居の額束も「東峰」です。


航空博物館ー21

ちなみに、こちらは航空科学博物館の敷地内にある「航空神社」です。
航空科学博物館 ⇒


東峯神社ー10
東峯神社ー11

質素な社殿には神額もありません。
千木は水平に切られ、堅魚木は三本です。
二宮尊徳は男性ですが、千木は水平に切られて女性神を表しています。
例外もあるようですし、堅魚木は男性神の奇数なので、まあ、堅いことは言わない、言わない。


東峯神社ー13
東峯神社ー17

2基の常夜燈の間はコンクリートで舗装してあります。
2004.4.15と棒で落書きしたような日付が残っています。


東峯神社ー24

ぐるりと神社を囲む塀のあちこちに、金網を張った覗き窓のような場所があります。
狭い神社への道に入らずに、空港の敷地側から監視できるような工夫です。


東峯神社ー18
東峯神社ー15
東峯神社ー25

神社の屋根をかすめるように第2滑走路に着陸する旅客機が飛んでいます。
轟音が小さな社殿を襲います。

東峯神社ー27
・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー28
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東峯神社ー29
明け方に神社の入り口に立つと、九十九里浜側から飛んでくる旅客機が、この角度で
数分おきに侵入してきます。


東峯神社ー26
東峯神社ー23
東峯神社ー19

本来ならば空の安全を祈願する象徴的な神社として、人々の信仰を集めたであろうに、
何の因果か、空港敷地内にポツンと取り残され、訪ねる人もいない「東峰神社」。
境内に咲く山茶花の花が健気に咲いています。


東峯神社ー32


             ※ 東峰神社 成田市東峰
                空港第2ビルから千葉交バス 栗源行き 新田下車徒歩2分
                空港第2ビルから徒歩約45分
                バスは本数が少なく、徒歩では歩道が整備されていないので、
                車で行かれることをお勧めします。  特に駐車スペースは
                ありませんが、何とか2台程度は止まれます。



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

遠山村の寺社 | 08:51:06 | トラックバック(0) | コメント(4)
前のページ 次のページ