
「円融寺」は寺台インターのすぐそば、交通量の多い国道51号線沿いにあります。
天台宗のお寺で、山号は長栄山。
ご本尊は「釈迦如来」です。

『「千葉県印旛郡誌」では永禄十一年(1568)の開祖としているが、「佐倉風土記」には
「永観中、顗栄法印開基」とあり、このことから、平安時代中期の永観年間(九八三~八五)
に、顗栄なる僧によって開基されたが、一時衰微し、永禄十一年に中興開山となったものと
考えられる。』
(「成田 寺と町まちの歴史」 聚海書林 小倉 博 著 P267)
古いお寺はたくさんありますが、千年の歴史があるお寺となるとなかなかありません。
江戸時代には近隣に多くの末寺を有していたようで、土屋の薬王寺もこの寺の末寺です。
薬王寺 ⇒

門前に並ぶ墓石や石仏群。

この如意輪観音様はお顔がありません。
削られたのか、風化で欠落したのか・・・。
元禄十一年(1698年)と記されています。

境内に入ってすぐ左に建っている宝塔。
相当古いもののようですが、残念ながら文字は読めません。

この手水盤も古そうですが、年代は分かりません。

この「讀誦普門品供養塔」には一萬巻とか六十六巻とかの巻数がありません。


小さな板碑が並んでいます。
私には読めませんが、種字が刻まれていて、何やら由緒ありそうなので帰宅後調べました。
『本堂の手前左側に、元徳三年(1331)銘と暦応四年(1341)銘の下総板碑が建っている。
元徳三年のものは、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の弥陀三尊(「阿」を入れないで読む
ことが多い)の種字を刻んでいることから、弥陀三尊種字板碑と呼ばれる。一方、暦応四年
のものは阿弥陀如来の種字だけなので、弥陀種字板碑となる。』
(「成田の史跡散歩」 崙書房出版 小倉 博 著 P267)

2基の板碑の奥には「奉讀誦普門品一萬巻」の石碑が建っています。

板碑に並んで立っているこの仏様は宝永年間(1704~10)に造られたものです。

板碑の裏側の木陰にはひっそりと立つ菩薩像がありました。

板碑の向かい側にある小さな池。


本堂には目立った装飾はありません。
この本堂に納められているご本尊の「地蔵菩薩像」に関して、興味ある記述を見つけました。
『「年代日記」という古書に、同寺の地蔵菩薩像は江戸の真田采女の守り本尊で、
宝永年間(一七〇四~一一)に采女逝去のとき、円融寺住職定順が有縁の衆なるに
より同寺に収まったもの、といった記載がある。』
『この真田采女とは、一〇〇〇石の旗本真田信音で、真田幸村の兄で関ヶ原の合戦
の折に徳川方についた真田信之の、曾孫にあたる人物である。』
(成田の史跡散歩 小倉 博 著 倫書房出版 P266)
歴史は意外な人物や事件を結び付けてくれます。

墓地の一角に「竪者~」と刻まれた墓石群がありました。
この「竪者」(りっしゃ)という呼称は土屋の薬王寺にもありました。

右の仏様の制作年代は分かりません。
左の「馬頭観世音菩薩」は享和二年(1802年)の制作です。

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国道に面していますので車が引っ切り無しに通ります。
寺台インターを佐原方面に向かう下り口のすぐそばにあり、何本もの道が交差する
場所のため、歩くには注意が必要です。


国道の騒音が届かない本堂奥の墓地には赤トンボが群舞しています。
千年以上の長い歴史が眠っている円融寺ですが、その歴史を感じさせるものが
意外に少ないお寺でした。

※ 「長栄山円融寺」 成田市山ノ作1091
京成成田駅より千葉交通バス 佐原粉名口行き 山ノ作下車2分