
「寶應寺」は曹洞宗のお寺で、山号は「如意山」。
ご本尊は14世紀の作とされる「地蔵菩薩」です。
『寺伝によれば大須賀川対岸の松子城初代城主大須賀胤信が、1202(建仁2)年に
僧古雲朴をもって創建したとされ、同家代々の菩提寺となっている。』
(成田市発行「成田の地名と歴史」P367)
800年以上の歴史があるお寺です。
四文字名が普通の禅宗の僧侶名としては、「古雲朴」という三文字名は珍しいものですが、
一字を欠字にして偉大な僧という尊敬の念を表すことがあるようです。
この寺は幾度か宗派の改宗を行ってきました。
前掲の「成田の地名と歴史」によれば、当初は浄土信仰や天台密教の寺院で、その後
臨済宗に、そして大永年間(1521~1527)に曹洞宗に改宗したそうです。
お寺が改宗することなど考えてもみませんでしたが、結構あることのようです。

細い道から入ると左に明和六年(1769年)と記された宝塔があります。

右側にあるどっしりとしたお地蔵さまの制作年代は分かりません。

慈母観音。


この板碑には線描の観音様が彫られています。
裏面にはびっしりと漢文が・・・難しくて良く分かりませんが、大正6年に76歳で亡くなった
恩師を慕う弟子たちが建立したもののようです。

「奉 讀誦観音経貮萬巻供養塔」。
大正13年に建てられたものですが、これまで壱萬巻は多くのお寺で目にしましたが、
貮萬巻は初めてです。

山門の先にもう一つの山門(?)があり、その先に本堂が見えています。

山門の右手前には、曹洞宗のお寺には必ず見られる結界石。
寛政十年(1798年)と記され、4人の戒名が刻まれています。

左手前には天保四年(1833年)と記された「奉 順禮西國三拾三所観世音菩薩」の石柱。



二つ目の山門です。
立派な山号の「如意山」の扁額です。
なぜ山門が二つもあるのでしょう?
開放的な造りは一見、鐘楼のようにも見える門です。


裏手の山には墓地があり、墓石には元禄や宝永などの年号が刻まれています。
傾き、半分埋まったこの観音像には延宝八年(1680年)と記されていました。
340年もの間、この場所にお座りになっていたのでしょうか。


墓地の一角にこの地の豪族、大須賀一族の墓を見つけました。
比較的新しく見える「大須賀家累世之墓」とある墓石を除くと、どれも風化が激しく、
刻まれた文字は読めません。
大須賀氏は天正十八年(1590年)の秀吉と北条氏との戦で北条方に与し、
敗れて滅亡しました。
この地で権勢を誇った大須賀氏の今は、朽ち果てた墓石しか無いのでしょうか?


本堂の横や裏手、そして山門の前など、あちこちに水が浸み出しています。
裏山に浸みこんだ雨水なのでしょう、湧水とまでは言えない形で流れ出ています。

本堂の屋根には曹洞宗のお寺に共通する桐と竜胆車の門が見えます。
そして本堂正面には大須賀家の家紋である九曜紋が掲げられています。

『大須賀氏の滅亡により一時荒廃したが、1761(宝暦11)年に現在の本堂や
山門などが再建されている。』
(成田市発行「成田の地名と歴史」P367)

お寺と地域との結びつきは、昔は今より非常に強いものがありました。
この寶應寺も明治8年に開校した伊能小学校に敷地を貸していました。
境内に子供たちの歓声が響いていたことでしょう。
(後に小学校は別の場所に移り、明治41年大須賀小学校の第一分教場となりましたが、
大正8年に廃校となりました。)



境内には芙蓉の株がたくさん植えられています。
大須賀一族の夢の跡、寶應寺。
秋の陽に色づき始めた山門前の大銀杏が、ギンナンの実を落とし始めています。

※ 妙見院寶應寺 成田市伊能2619
京成成田駅より千葉交通バス 佐原粉名口車庫行き
伊能二区下車 徒歩15分 駐車場あり