山間(やまあい)の細い道をしばらく走って、ぱっと視界が開けたところに
この寺はありました。
廃寺であることは後で調べて分かったことです。

まず目に入ってきたのがこの景色です。
仁王像ですが、屋外に立っていてしかも石像です。




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やや小柄で一見愛嬌のある丸顔ですが、なかなか厳しい表情の仁王様です。
寛保三年(1743年)の建立です(後述)。

帰ってからこのお寺に関する資料を探しましたが、殆ど見つかりませんでした。
千葉県の宗教法人名簿にも記載が無く、見つけた唯一の資料が成田市発行の
「成田の地名と歴史」にあるこの一文です。
『一坪田の小高い丘陵上に観音堂がある。ここはもと田中山宝蔵院という真言宗のお寺で
あったが、明治初期に廃寺となり、十一面観音を本尊とするこの観音堂だけが残された。
入口の石段の左右に像高約145cmの仁王像が建っている。木造の仁王像は各地にあるが、
このような石造の仁王像は珍しい。千葉県内でもこれを含めて3例が知られるだけである。
銘文を見ると、1743(寛保3)年に一坪田の北崎氏が建立したことが知られる。』
(2011年成田市発行「成田の地名と歴史」P175)

この石段の上にあるのは観音堂だったのですね。




階段の両脇には三十三観音でしょうか、ずらりと観音像が並んでいます。


階段を上りさして広くない境内に出ると、まず目に入ったのが多くの寺に見られる
「奉 讀誦普門品一萬巻」の石柱です。
明治26年の建立です。

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そして所狭しと並ぶ板碑を読むと、どれも「田中山三十三年開扉記念碑」です。
大正4年、昭和22年、昭和55年、平成25年と33年おきの4つの板碑があり、
廃寺になって以降も近隣の人々がこの観音堂を守ってきたことが分かります。

観音堂の裏手にある「奉納 日本廻国」の碑は享保七年(1722年)と刻まれています。
廻国とは諸国を巡礼して廻ることを指すようです。

「奉納 大乗妙典六十六部日本廻国」と刻まれたこの碑は正徳五年(1715年)のものです。

「奉納 六十六部供養塔 天下泰平 国土安全」のこの碑は
延享三年(1746年)のものです。

お堂の中を覗かせていただきましたが、厨子の中に十一面観音が安置されているようで、
内部はきれいに保存されています。

この石灯籠には寛保二年(1742年)と刻まれています。


境内にひっそりと立つ二体の如意輪観音。
写真上の観音様は明治23年と刻まれていました。
写真下の観音様は制作年代は分かりませんが、穏やかで気品のあるお顔です。

境内の端に子供を抱いた観音像がありました。
抱かれた子供が合掌しています。
文化元年(1804年)と刻まれています。

平成25年の33年御開扉に際して500万円かけて改修を行った記念碑。
観世音の文字が左からということが今風ですね。


開墾のために周りを少しずつ削られてきたのでしょうか、この観音堂は
畑や田んぼの中にポコンと小さな丘が残ったような景色です。
参道の階段と境内の周りは15メートルくらいの崖になっています。

崖の下に回ると、斜面にもたくさんの観音像が立っています。
これは馬頭観音です。

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この如意輪観音様はお昼寝中でしょうか。
気持ち良さそうに目を閉じておられます。

廃寺になったとはいえ貴重な歴史的文化財が残る田中山宝蔵寺。
かろうじて残った観音堂は、地元の人々に大切に守られているようです。

※ 一坪田の観音堂(田中山宝蔵院) 成田市一坪田460
京成成田駅よりコミュニティバス津冨浦ルート
前林坂下下車 徒歩約40分(ひたすら登り坂です)
駐車場なし(スペースはあります)
珍しい石の仁王像。なかなか愛嬌のあるお顔ですね。
石の仁王像は石岡の近くにもありますが、国東半島にたくさんあるようです。
それにしても色々な石像があり、ここが廃寺だとは・・・。
六部廻国の碑もたくさんあるんですね。
面白いです。
全く偶然に見つけた廃寺ですが、とても趣のある場所でした。
六部廻国についてはこの寺で初めて知りました。
これから何度も訪ねて、一つ一つの石仏について調べるつもりです。
勉強させていただき、ありがとうございます(^○^)
この廃寺の如意輪観音も、名のあるお寺に置かれていれば、それなりに評価されるものになったでしょう。(でも、こうした廃寺にあるからこそ、趣が感じられるのかもしれません。)