弘仁三年(812年)弘法大師の開山と伝えられる歴史あるお寺です。

『当寺の創建は古く、たび重なる火災により確たる記録を失なっているが、古来より
阿弥陀信仰の霊場として広く知られ、天台・真言・浄土宗兼学の道場として隆盛した
大伽藍であった。
寺伝によれば、弘仁3年(812)弘法大師弘通のため、大和国法隆寺に御参籠せしとき、
夢に高僧紫雲に乗じて現われ、聖徳太子彫刻せらる三尊の仏を守護して東国に下降し、
広く衆生済度せよとの霊告あり。
大師ただちに東国に降り、下総の並木城下に着いたおり、城主神崎多五郎入道政吉、
夢告により大師に拝することを得る。政吉、大師の請いにより大檀主となり、一三の霊水
ある当山に根本多宝七堂伽藍を創建し、太子彫刻せる三尊を本尊とする。』
(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)
大伽藍があったとは思えないこじんまりとしたお寺です。
御本尊は千葉県指定文化財の「阿弥陀如来及び両脇侍像」。

リンク ⇒千葉県ホームページ・文化財紹介ページ 迎接寺「阿弥陀如来及び両脇侍像」
木造の仏様で、「阿弥陀如来」を中尊として左脇侍が「観音菩薩」、右脇侍が「勢至菩薩」。
その特徴から、平安時代末期または鎌倉時代初期の作とされています。
寺伝による聖徳太子が彫った三尊仏だとすると年代が合いませんが、
800年以上前の制作です。

『良喜上人住すると帰依する者多く、新たに洪鐘を納めるにより浄土宗の道場となるも、
後に兵火にあい伽藍衰微する。
天文2年(1533)村人に請われ、良迦上人の弟良晃上人が中興となり、浄光院と改号する。
良晃上人のあと良興上人・良賢上人・良勤上人住し、宗風大いに振るい寺門栄える。
塔頭7ヶ院あり、明治6年(1873)に廃された。
当時域内に六堂・五木・十三井あった、と伝えられている。』
(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)
歴史ある寺ですが、度重なる火災や兵火にあって盛衰を重ねてきました。

山門は傷みが激しく、風化により木が痩せて隙間が目立ちます。

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特に派手な装飾は施されていませんが、中央には虎と思われる彫刻がありました。

山門から本堂へ向かう細い参道は左は山、右は杉並木で100メートルはありそうです。

参道脇に色あせて傾きかけた鬼舞面の説明板がありました。
迎接寺には長徳年間(995年~999年)から伝わる鬼舞の民俗芸能がありましたが、
昭和22年を最後に今は鬼舞は行われず、舞に使われる面が収蔵されているそうです。
当寺「鬼面判談法会」の記録は、永禄7年(1564)より弘化5年(1848)の間に10回、
33年に1度宛欠さず修行している。
法会修行日数は晴天10日間、江戸末期になり7日間になっている。この間、
延享3年(1746)、明和5年(1768)、寛政11年(1799)に火災にあう。
この3度の火災により伽藍・旧記等ことごとく焼失するも、本寺大沢山円通寺に有った
冬父山本尊並鬼面略縁起・判談法会次第等の記録を書写し、これにより判談法会を
上演したという。尚、最近では、大正5年(1916)、昭和22年(1947)に修行されている。
(「千葉県浄土宗寺院誌」(昭和57年刊)冬父山迎接寺 三世院または淨光院03.03.10より)
板面が汚れていて見にくいのですが・・・





千葉県のホームページの中でこの鬼舞面の1つを見つけました(赤鬼面)。

リンク ⇒ 千葉県ホームページ・文化財紹介ページ 迎接寺「鬼舞面」
この鬼舞の発祥年代は不明ですが、言い伝えによれば、この地に住んでいた僧・源信が
死の淵をさまよった際に見た地獄や極楽の様子や阿弥陀如来による救いと悟りの世界を、
人々に伝えるため長徳四年(998年)に面を彫ったのが始まりです。

本堂手前の蓮池には大きな鯉が泳いでいましたが、背ビレが水面上に出てしまうほど
水量が少なく、泳ぎにくそうでした。

本堂前にある菩薩像。

本堂の横にあるこの石碑は風化が激しく、「門人建立」の文字だけが読み取れました。

本堂の裏手は熊笹や竹が密生する山です。


屋根に大きく「水」の文字が書かれています。
どんな意味があるのでしょうか?
弘法大師には水に関わる伝説が多く残っていますが、これに関係あるのでしょうか。
それとも冒頭の千葉県浄土宗寺院誌からの引用にある「一三の霊水」に絡むのでしょうか。
※ 懸魚(けぎょ)の一種で火伏せのまじないだろうとのご指摘をいただきました。
なるほどです。 ありがとうございました。 10.05)


境内の片隅にひっそりと咲くホトトギスと曼珠沙華。



山門の脇の斜面を登るとたくさんの古い墓石が並んでいます。
いくつかの墓石から宝暦とか寛政とかの年号が見えますが、ここまで登ってくる人は
今ではいないようで、雑草の生い茂る斜面には道はありません。


この寺のある冬父(とぶ)は平成22年の統計で世帯数はわずかに7世帯、
人口24人しかいないさびしい山間地です。
『1844(弘化元)年の家数6軒、人数28人、馬3頭。1856(安政3)年の家数6軒、
人数28人、馬5頭。1865(慶応元)年の家数7軒、人数32人、馬5頭。』
『1882(明治15)年の「冬父村沿革歴史」には、「天保ノ晩年、殆ト衰却シテ、当今六戸ヲ
現存セリ・・・県下無比ノ一小村」と記されており、小さい村であった。』
(成田市発行「成田の地名と歴史」(2011年)」143P)
という記録にあるとおり、この地はもともと小さい村であったようです。
鬼舞の伝統も途絶えて久しい迎接寺。
かつては大伽藍があったと言われても、今は想像もできない景色です。
昔のお寺の場所は別のところだったのでしょうか。
それとも、狭い山道の片側にあるわずかばかりの田畑が、もとは境内であったのでしょうか。
歴史が埋もれている迎接寺。
時間の流れが人々の記憶からこのお寺を消してしまいそうです。

※ 「冬父山 迎接寺」 成田市冬父86
滑河駅より徒歩約50分
分かりにくい場所なので良く地図で調べてからお訪ねください
(道が狭く、車はお勧めできません)
千葉県の公園・観光スポットというサイト管理人の
すらっぷしょっとと言います。
相互リンクの件、こちらこそ宜しくお願いします!
sausalitoさんのサイトは、一つ一つの記事がとても詳しいですね!
成田市にはよく行くので、sausalitoさんのサイト参考にお出掛けしてみようと思います!
これからもよろしくお願いいたします。
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