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■プロフィール

sausalito(船山俊彦)

Author:sausalito(船山俊彦)
成田は新しいものと旧いものが混在する魅力的な街。歴史を秘めた神社やお寺。遠い昔から刻まれてきた人々の暮らし。そして世界中の航空機が離着陸する国際空港。そんな成田とその近郊の風物を、寺社を中心に紹介して行きます。

このブログでは、引用する著作物や碑文の文章について、漢字や文法的に疑問がある部分があってもそのまま記載しています。また、大正以前の年号については漢数字でカッコ内に西暦を記すことにしています。なお、神社仏閣に関する記事中には、用語等の間違いがあると思います。研究者ではない素人故の間違いと笑って済ませていただきたいのですが、できればご指摘いただけると助かります。また、コメントも遠慮なくいただきたいと思います。

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記事中での引用や、取材のために良く利用する書籍です。文中の注釈が長くなるのでここに掲載します。                     

■「千葉縣印旛郡誌」千葉県印旛郡役所 1913年         ■「千葉縣香取郡誌」千葉縣香取郡役所 1921年        ■「成田市史 中世・近世編」成田市史編さん委員会 1986年    ■「成田市史 近代編史料集一」成田市史編さん委員会 1972年   ■「成田の地名と歴史」大字地域の事典編集委員会 2011年    ■「成田の史跡散歩」小倉 博 崙書房 2004年 

■訂正一覧

掲載後判明した誤りやご指摘いただいた事項と、その訂正を掲示します。 【指】ご指摘をいただいての訂正 【訂】後に気付いての訂正 【追】追加情報等 → は訂正対象のブログタイトル     ------------ 

【指】2021/11/22の「此方少し行き・・・」中で菱田を現・成田市と書いていますが、正しくは現・芝山町です。                【指】2015/02/05の「常蓮寺」の記事で、山号を「北方山」としていますが、現在は「豊住山」となっています。[2021/02/06]      【追】2015/05/07の「1250年の歴史~飯岡の永福寺」の記事中、本堂横の祠に中にあった木造仏は、多分「おびんづるさま」だと気づきました。(2020/08/08記) 【訂】2014/05/05 の「三里塚街道を往く(その弐)」中の「お不動様」とした石仏は「青面金剛」の間違いでした。  【訂】06/03 鳥居に架かる額を「額束」と書きましたが、「神額」の間違い。額束とは、鳥居の上部の横材とその下の貫(ぬき)の中央に入れる束のことで、そこに掲げられた額は「神額」です。 →15/11/21「遥か印旛沼を望む、下方の「浅間神社」”額束には「麻賀多神社」とありました。”  【指】16/02/18 “1440年あまり”は“440年あまり”の間違い。(編集済み)→『喧騒と静寂の中で~二つの「土師(はじ)神社」』  【訂】08/19 “420年あまり前”は計算間違い。“340年あまり前”が正。 →『ちょっとしたスポット~北羽鳥の「大鷲神社」』  【追】08/05 「勧行院」は院号で寺号は「薬王寺」。 →「これも時の流れか…大竹の勧行院」  【追】07/09 「こま木山道」石柱前の墓地は、もともと行き倒れの旅人を葬った「六部塚」の場所 →「松崎街道・なりたみち」を歩く(2)  【訂】07/06 「ドウロクジン」(正)道陸神で道祖神と同義 (誤)合成語または訛り →「松崎街道・なりたみち」を歩く(1)  【指】07/04 成田山梵鐘の設置年 (正)昭和43年 (誤)昭和46年 →三重塔、一切経堂そして鐘楼  【指】5/31 掲載写真の重複 同じ祠の写真を異なる祠として掲載  →ご祭神は石長姫(?)~赤荻の稲荷神社 

■ ■ ■

多くの、実に多くのお寺が、明治初期の神仏分離と廃仏毀釈によって消えて行きました。境内に辛うじて残った石仏は、首を落とされ、顔を削られて風雨に晒されています。神社もまた、過疎化による氏子の減少や、若者の神道への無関心から、祭事もままならなくなっています。お寺や神社の荒廃は、古より日本人の精神文化の土台となってきたものの荒廃に繋がっているような気がします。石仏や石神の風化は止められないにしても、せめて記録に留めておきたい・・・、そんな気持ちから素人が無謀にも立ち上げたブログです。写真も解説も稚拙ですが、良い意味でも悪い意味でも、かつての日本人の心を育んできた風景に想いを寄せていただくきっかけになれば幸いです。

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静けさが寺の始まり~楽満寺
中里の楽満寺(らくまんじ)は山間の静かなお寺です。

楽満寺ー10

山号は瑞栄山、「如意輪観音」をご本尊とする、臨済宗妙心寺派のお寺です。

『同寺の縁起によると結跏趺坐の姿をしている本尊は、奈良の稽主勲・稽文会父子が
刻んだもので鎌倉幕府第3代源実朝の夫人禅尼如実の持仏であった。1226(嘉禄2)年
禅尼の没後、像は国一禅師の手に移り、禅師がこれを笈に入れて背負って香取神宮に
参詣しようとしたとき、この地に物静かさに感動し、一宇を建てて本尊としたのが始まり
とある。』
 (成田市発行 「成田の地名と歴史」P389)

なお、国一禅師を開祖とすることには違いはないのですが、建暦二年(1212年)に
開山したとする説も多くみられます。(寺伝では建暦二年となっています。)
建暦二年は鴨長明が「方丈記」を完成させた年です。


楽満寺ー1

仁王門前の広場に「しもふさ七福神」の恵比寿様が迎えてくれます。


楽満寺ー3

仁王門の前には子育・水子地蔵が。


楽満寺ー4

この手水盤には安政五年(1858年)に奉納されました。


楽満寺ー5

重厚で立派な仁王門です。


楽満寺ー6
楽満寺ー7

ユニークな表情の仁王様です。
今にも何か喋りそうな感じがします。


楽満寺ー8 仁王門の彫刻の中に何かが・・・
 巣立ちが終わった鳥の巣でした  楽満寺ー9

楽満寺ー10

このお寺は千葉氏の庇護を受けて栄えていたのですが、国府台合戦に巻き込まれて
伽藍を失い、衰退してしまいました。
その後、宝永年代になって融峯祖円住職により再建されました。


楽満寺ー11

仁王門を入って右手にある鐘楼。


楽満寺ー14

山門から本堂へ向う左側に立つこの仏像は如意輪観音です。


楽満寺ー37

こちらは釈迦如来のようです。
軽くうつむいて何をお考えなのでしょうか。


楽満寺ー15
楽満寺ー26

大きく扉が開かれた本堂の正面に、ご本尊の如意輪観音様が見えます。
失礼とは思いましたが、思わずシャッターを切りました。


楽満寺ー34

本堂の内部に掲げられている「女人観音拝み絵馬」。


楽満寺ー33 外壁にも観音様を拝む女性たち
構図は少しずつ違いますが何枚も 楽満寺ー40


楽満寺ー16

本堂の階段脇にある「おびんずる様」です(後ろの頭巾と衣を被った像)。
お釈迦様の高弟の一人、ビンドラパーラドバージャで、この像にさわってから
自分の体の悪いところを撫でると、病が治ると言われています。


楽満寺ー17

古いお社で掲額も読みにくくなっていますが、「南無大師遍照金剛」と読めます。


楽満寺ー19

本堂脇には小さな菩薩像が並んでいます。


楽満寺ー46
楽満寺ー47

菩薩像の先、墓地に向う坂の上り口に松尾芭蕉の句碑がありました。
「ほろほろと 山吹ちるや 瀧の音」。
周りを見渡しても滝らしきものはありませんが、この句碑の後ろにわずかに水が
流れ落ちれいる個所がありました。
昔は水量が多く、小さな滝のようであったのでしょうか。


楽満寺ー22
楽満寺ー31

裏手に長く伸びる石段がありました。
登り口に小さな手水舎があり、手水盤には明治42年と記されています。


楽満寺ー24
楽満寺ー30

登り切った所には三十三観音がありました。
中央にある大きな石碑には「瑞榮山 霊感講 三十三観音 新設記念碑」と記され、
明治30年の建立です。
石段には苔が生え、一部は崩れていて、ここまで登ってくる人はいないようです。



楽満寺ー28
楽満寺ー39

「中里の観音様」と呼ばれて、安産子育て祈願のお寺として信仰を集めているこのお寺には
毎年3月26日から16日間にわたって数十町村の観音巡拝を行う「札打ち」や、
利根川沿岸の近隣町村を観音様の分身を背負って巡る「背負い観音」などの
珍しい行事があります。

この場所の静けさに打たれて国一禅師が開山したように、
800年後の楽満寺は今も静けさの中に佇んでいます。



楽満寺-45


               ※ 瑞栄山楽満寺 成田市中里309
                  JR滑河駅から徒歩約40分 駐車場あり



テーマ:千葉県 - ジャンル:地域情報

小御門村の寺社 | 12:40:43 | トラックバック(0) | コメント(0)
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