小高い丘を背にした祥鳳院(しょうほういん)があります。

山門前の石碑には、「奉 讀誦大乗妙典一千部」と刻まれています。
その下に「蘭香自秀庵主」「智照妙○○尼」と記され、
最下部には寄進者であろうと思われる「小倉氏」と記されています。
横には「不許葷酒入山門」と刻まれています。
これは結界石と呼ばれるもので、酒気を帯びたり、ニラのような臭いものを食べた者は
入山することを許さないという意味です。
同じ曹洞宗のお寺で、成田山の東参道にある永興寺にも同じ文字の石碑がありました。
⇒ 永興寺の結界石
山門の手前、左右にお地蔵様が立っています。
向って右のお地蔵様には三界萬靈と刻まれていて、
はっきりとはしませんが、文政十年(1827年)と読めます。
台座には「さくら」「なめ川」の文字がみえます。

左のお地蔵様には法華経一千部供養塔と刻まれていて、
台座には、「北なめ河」「西なり田」の文字がみえます。
道標を兼ねていたのでしょうか。
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大きくはありませんが、しっかりとした山門です。
屋根には鯱鉾と葵の紋が見えます。


見上げると柱の上に立派な彫刻が・・・龍かと思いましたが、獅子のようです。

右側の獅子は毬を抱えています。
細かい網目まで彫られています。

祥鳳院の山号は竹縣山、曹洞宗のお寺で、ご本尊は薬師如来です。
「寺伝によれば、寛平年間(889~897)に平良将が密岩を開山として創建した真言宗寺院
であったが、1498(明応7)年に助崎城主大須賀信濃守が堂宇を再建し、明堂盛哲を招いて
曹洞宗に改宗したとされる。」 (成田市発行 「成田の地名と歴史」P277より)
平良将(たいらのよしまさ)は平安時代の武将。
桓武平氏の基礎を作った人物で、平将門の父です。
江戸時代には幕府から朱印地十石を賜った格式の高いお寺なので、
山門の葵の紋の理由はここにあるのでしょう。

境内にさりげなくあるこの木造の建造物には何の説明もありませんが、
形からして多分宝篋印塔ではないかと思います。
滑川の「龍正院」にある「銅造宝篋印塔」に良く似ているからです。
⇒ 龍正院の宝篋印塔

この宝塔は寛政十二年(1800年)のものです。

鐘楼は見当たりませんでしたが、この寺が所蔵する梵鐘は県の指定文化財で、
乾元二年(1303年)に船橋の二宮神社の鐘として鋳造されたものが、
後にここに移されたと説明板にあります。

本堂の裏手は小高い丘になっていて、その丘の一角に墓地があります。


古い墓石には天和三年(1683年)、寛政六年(1794年)などの年号が読めます。

質素な佇まいの本堂ですが、屋根にはめ込まれた紋章が気になりました。
桐の紋はすぐ分かりましたが、遠くからなのでもう一つが分かりません。
麻のような、桔梗のような・・・。
帰ってから調べたところ、曹洞宗の寺紋が竜胆(りんどう)であるので、
多分、竜胆車紋だろうと思います。

「普門品供羪塔」「観音講」と記された石板。
普門品とは観世音菩薩の略称です。

明治25年に建てられた「羽黒山 湯殿山 月山、秩父・西国・阪東百番供養塔」。

手前の仏様の台座には「供養塔」とあり、安永五年(1776年)と記されています。


前には広がる田園を、後ろには小高い丘を配する祥鳳院は、
土室の地にしっかりと根を張っているようです。
田んぼの先に見える小高い丘は、このお寺の堂宇を再建した
大須賀信濃守の居城があった助崎城祉です。
ついでに足を延ばしてみました。


今や鬱蒼とした森で何もありません


※ 竹縣山祥鳳院 成田市土室522
JR久住駅から徒歩40分
久住駅から赤萩経由大室循環バス祥鳳院下車(本数注意)