
「芝山仁王尊」として知られる「天応山観音経寺」は天台宗の寺院で、
ご本尊は「十一面観世音菩薩」。
上総国薬師如来霊場の28番、結願寺です。
仁王門の仁王様は、火盗除けのご利益があることで知られ、
江戸時代には“江戸の商家で芝山のお札を貼らない店(たな)はない”と言われ、
成田山にも負けないほどの参拝客を集めていました。


本堂正面の見事な彫刻と大屋根
天応元年(781年)光仁天皇の命により、東征大使としてこの地に来た
藤原継縄が、十一面観音菩薩を安置したのが寺の始まりです。
中世には豪族千葉氏の庇護を受けて大寺となりましたが、
後に徳川幕府から十万石の格式を持つ「伴頭拝領寺院」として、
関八州及び出羽。陸奥を加えた管内十州の天台寺院を統括するまでになりました。


参道からの長い石段です。
石段の途中に開けた場所があり、大師堂や客殿が建っています。




仁王門は圧倒されるような堂々とした建物です。
明治2年に起工し、明治15年に完成するという長い年月をかけて再建されました。
総檜造りで、仁王様は畳の間の奥に祀られるめずらしい仁王門です。


吽形像

お顔は隠れていて見えませんが、筋骨隆々のお姿です。

江戸の錦絵に描かれた芝山の仁王様です。
“泥棒がまさに大切な家財を持ち出そうとした時、壁に張った仁王様が動き出して
泥棒を睨みつけたので、驚いた泥棒が腰を抜かして捕まってしまった”という図です。
火盗除けのご利益が広く信じられていたことの証拠ですね。

( 観音経寺ホームページ ⇒ )
平成19年から2年間かけて行われた解体修理で、躰内に書かれた墨書から
次のようなことが分かりました。
至徳二年(1385年) 鐘楼門建立
嘉慶二年(1388年) 仁王像建立
応仁二年(1466年) 大風により鐘楼門、仁王像が損傷
文明二年(1470年) 仁王像の修理(阿形像のみ)
永正十七年(1520年) 阿吽両像を解体修理


さらに階段を登ると手水舎と香閣の向こうに本堂が見えてきます。
享保六年(1721年)の建立です。
空港を離陸した旅客機が轟音を立てて本堂の上を飛んで行きます。

( 観音経寺ホームページより)
本堂の天井には狩野常光による天井画が描かれています。


境内の右手には三重塔が建っています。
寛政九年(1797年)に再建が始まり、天保七年(1836年)に完成しました。
高さは24.98メートル、派手な装飾こそありませんが、重厚な安定感のある造りです。

三重塔の奥には山王社と芝山天神があります。
山王社の建立は寛政八年(1796年)とも元禄十三年(1700年)とも言われています。
華やかな装飾が施され、子授けの神様として信仰を集めています。


さらに奥まった所には墓地があり、その入口に2体の石仏が立っています。
台座には「秩父一番四萬部寺」と「阪東一番杉本寺」と札所の一番寺の名前がありました。
秩父札所の一番、四萬部寺(しまぶでら)には何度も訪ねたことがあり、
ここでその名前を見ると、懐かしいような不思議な気持ちがします。
境内には小さなお社が点在しています。


黒龍大王神は、昔境内の見せ物小屋の大蛇が死んだ時、興行師の夢枕に
龍神が立ち、ここに安置せよとのお告げを得て建てられたと言い伝えられてます。
芝山稲荷は享保四年(1719年)の建立です。

不動堂は昭和29年、岐阜市の安田賢三氏が、子息の菩提を弔うために再建されたお堂で、
安田家の守り本尊であった不動明王が祀られています。
お寺のホームページに興味深い話しが書かれています。 要約すると、
『安田氏のご子息が病に倒れ、「自分はもうこの世を離れねばならないが、不動明王の
行かれる場所が決まる迄は離れられない」と言うので、行者に大神に伺を立てさせたところ
「吾、上総国芝山より出しもの。疾く疾く行きて元の座に安置せよ」とお告げがあったので、
不動明王を奉納した。』
その後ご子息は他界されましたが、遠く離れた地を結ぶ不思議な縁が感じられるお堂です。



本堂の脇には「はにわ博物館があり、近隣から出土した埴輪をはじめ、
貴重な資料が展示されています。(有料・600円)


鐘楼は傷みが激しく、補修工事が必要です。
浄財を求める張り紙をしていますが、しばらくの間は仮住まいです。

両山講の石碑です。
両山講とは、成田山新勝寺と天応山観音経寺の両方を参詣する講中で、
江戸の火消し「新門辰五郎」に遡ると言われています。


飛行機の轟音が絶え間なく響き、境内の静寂を破ります。
仏様も仁王様も、これではお休みになれませんね。
伝統ある名刹も、時代の流れには逆らえません。
※ 観音経寺(仁王尊) 山武郡芝山町芝山298
芝山鉄道芝山千代田駅またはJR総武線松尾駅からバス20分