本町、上町、仲町、田町の4町は成田村時代からの門前四か町です。
今回はその田町をぶらついてみます。

スタートは成田山の東門です。
東参道を歩いてきた人たちはこの門から境内に入ります。

東門の脇に「洲之崎稲荷」があります。
周りの建物に隠れて見落としがちな場所です。

人一人が立つといっぱいになってしまう境内に、唯一あった石碑です。
「昭和十六年石坂修繕 三須重五郎」と記されています。

祠の中のキツネは怖いくらいの眼力です。

東門から東参道方向を見ています。
左側にあるのは「旅館 はま屋」です。
きっとこの場所で昔から参拝客を泊めていたのでしょう。

東門の少し先の細い路地を入ると「成田山仏教図書館」があります。
名前からは想像できないモダンな建物です。

仏教図書館脇の階段から見上げる三重塔は、傍で見るときより一層華麗な姿です。


仏教図書館への路地の一本先の路地を上ると成田小学校があります。
小学校の裏手への草むした細道の先に忘れられたような小さな墓地がありました。
かろうじて元禄、享保、文化等の年号が読めました。

東参道に戻ると「詩仙香房」というお香の店がありました。
いかにも門前町らしいお店です。
民芸品や細工を施したロウソクなども並んでいます。

公民館です。
成田図書館の分館や客席200程度の市民ホールなどがあります。

公民館の前で東参道の標識を見つけました。
以前に「成田山東参道を歩く」の項で東参道の標識は一つしか無いと書きましたが、
見落としていたことに気づきました。
成田山東参道を歩く ⇒
門前らしいお店が続きます。

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田町の山車蔵です。
田町の山車は人形がせり上がる二層式で、前面には唐破風の踊り屋台がついている
伝統的な様式です。
人形は素戔嗚尊(すさのおのみこと)です。


東参道をしばらく進むと、左側の道路から少し高い所に水子地蔵と子安地蔵が見えます。
3メートルほどの高さにありますので、車で通ると目には入りません。


水子地蔵と子安地蔵との間に数基の石仏が並んでいます。
写真上の石仏は「准胝観音(じゅんていかんのん―准堤観音と書かれることもあります)で、
6本の手の内、中央で合掌し、右手に蓮を左手に羂索(けんじゃく)を持っています。
明和四年(1767年)の建立で、何気なく立っていますが、大変珍しいもののようです。
『准胝観音は・・・・・墓地などの六観音像のその姿を見かけるが、准胝観音だけを独立して
一基とするのは少ない。沖本博氏も「房総の石仏百選」の中で本像を取り上げ、「准胝観音
は真言宗系の六観音のひとつとして造立される(天台宗では不空羂索観音となる)。単体
としての造立は少なく、千葉県下でも他に例がない。全国的にみても造立例は少ない石仏
の一つである」と述べられている。』(「成田の史跡散歩」崙書房 小倉博 著 P30)
『ヒンドゥー教の女神チュンディーの音号。初期の経典では准堤仏母などと呼ばれ、
観音の名がない。このため、准堤は観音ではないという説もあるが、日本では六観音の
一尊に数えられている。仏母は仏の母親の意味で、この観音が衆生を救済するために、
多くの仏を生み出したことを表す。』(「仏像鑑賞入門」幻冬舎 瓜生中 著 P120)

お地蔵さまの脇の階段を上ると、白髪毛(しらばっけ)と呼ばれる墓地があります。

墓地の奥には成田が生んだ女流俳人、三橋鷹女の墓と句碑があります。
「鴨翔たば われ白髪の 媼とならむ」の鷹女の句が記されています。

墓地を登り切ったところは成田山公園でした。
何度も歩いた成田山公園ですが、こんな風につながっているとは知りませんでした。

墓地と公園の境目に珍しい石碑が立っていました。
「奉納 下田耕地 三反壹畝拾歩 嘉永三年戌十月」と刻まれています。
耕作地を奉納することもあったのですね。

再び参道に戻って寺台方向に進むと左手に成田高校・中学の正門があります。
成田高校の住所は成田市成田になります。

高校の正門前はロータリーになっています。
先にちょっと進むと道路を挟んで田町側にちらっと成田高校の陸上グランドが覗けます。
ハンマー投げの室伏やマラソンの増田が汗を流した場所です。


参道を離れて根木名川方向に入って行くと、そこは住宅街でした。
「田町街区公園」がありましたが、滑り台が1つあるだけであとは雑草だけでした。
いまどきの子供たちは公園で駆け回ることなどしないのでしょうか。

根木名川にかかる「てらみばし」です。
今ではほとんど見えませんが、昔はここから成田山が一望できたのでしょう。

ぐるっと回って総門の近くに出てきました。
東門の傍と同じように、たぶん昔からあっただろうと思われる旅館が2軒並んでいます。
東門の近くに戻ってきました。
公民館を挟んで田町にゆかりのある2人の有名な女性の居住跡地があり、
説明板もかかっています。


三橋鷹女(1899~1972)は昭和の時代に中村汀女、星野立子、橋本多佳子とともに
4Tと呼ばれた女流俳人で、その表現の激しさで知られています。
代表的な句は、
鞦韆(しゅうせん)は漕ぐべし愛は奪うべし
夏痩せて嫌ひなものは嫌ひなり
この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉
などです。
鷹女の像は表参道の薬師堂の向かいにある公園に立っています。
成田山表参道を歩く(2)⇒
長谷川カタ(1890~1967)は竹久夢二の「宵待草」のヒロインとして知られています。
明治43年、夢二は前年に離婚した岸たまきとよりを戻して、2歳の息子を連れて銚子の
近くの海鹿島(あしかじま)の宮下旅館に避暑のため滞在していました。
カタの一家は秋田から宮下旅館の隣に引っ越してきていて、成田の高等女学校の教師
である姉のところに身を寄せていたカタ(当時19歳)が、たまたま訪ねて来ていたのです。
出会った二人は惹かれあい、いつしか近隣住民の噂になるほどになりましたが、夢二は
夏の終わりとともに家族と帰京することになります。
夏休みで実家に戻っていたカタも成田へ戻りましたが、その後も何度か夢二は成田に
カタを訪ねてきます。
家族のある夢二との交際を心配した父親が、急いで結婚話をまとめ、翌年夢二が成田を
訪れたときには、カタは嫁いで鹿児島に去った後でした。
悲しみの中、思い出の海辺でカタを想い、マツヨイグサに気持ちを寄せて書いた詩が
「宵待草」です。
宵待草は高峰三枝子が歌ってヒットしましたが、短い期間ではあってもほんの近くに
暮らしていたカタと鷹女の二人が言葉を交わしたことはあったのでしょうか。
宵待草は正しくは待宵草(マツヨイグサ)ですが、夢二が詩の流れの良さから、宵待草と
したと言われています。

「ナンでも図鑑」ヨイマツグサ ⇒


どこからか懐かしい「♪ト~フ~」のラッパが聞こえます。
野菜や惣菜、食品などを売る移動販売車です。
田町の住宅地には、こうした生活感のある風景がありました。

室伏広治って、成田市出身なんですね。
室伏は静岡県沼津市出身ですが、陸上の強い成田高校を卒業しました。
武蔵では、異国船を向かえて、代官・江川家の海防策と併せて飢饉の対策に貯穀策が強められています。
御地での、この寄進いろいろな背景があったものと推測し、感慨深く拝見しました。 野火止用水
嘉永年間は日本が世界の潮流にまきこまれ始めた激動の時代ですね。
この寄進にも隠れたドラマがあるかもしれません。
いつかそのドラマを発掘したいものです。