今回は7月4日から6日まで行われた成田山の「祇園祭」の様子をお伝えしましょう。
成田山の「祇園」は、「奥之院大日如来」の祭礼と湯殿権現社の祭礼が、
一つになって行われるものです。
特に「奥之院」の祭礼は祇園会(ぎおんえ)と呼ばれ、この祭礼の間だけ扉が開かれ、
安置されている「大日如来」を拝むことができます。
享保六年(1721年)には祇園祭の記録があるので、300年近くの歴史ある祭礼です。
今年は7月4日から7日までの3日間、開催されました。

湯殿権現社の祭礼は旧暦6月8日に行われたので、
「成田の八日祭り」と呼ばれていたようです。
江戸時代になって同じ日に行われていた大日如来の祭礼と合体し、
祇園祭の形が整いました。
明治になって暦の関係から祭日は7月8日となり、年々盛んになるとともに
宵宮、本祭り、後宮の3日間となったのです。
現在は7月の8日に直近の金曜日を宵宮として、土曜・日曜の3日間に行われています。
少子化の影響から、山車の引き手の若者の確保が難しくなってきたことが
その理由で、週末に行うことで県内外からの観光客がさらに増えることになりました。

季節がら毎年祇園祭には雨が付きものでしたが、今年は特にこのところの
不規則な天候にたたられてのスタートとなりました。
薬師堂前を西参道に入り裏参道に続く長い坂道をゆるゆると屋台が下って行きます。
祭礼の始まりに際して大本堂前に各町内の山車と屋台が集合するためです。
折から強まった雨脚に私も車中からの撮影となりました。

雨を予想してあらかじめビニールで覆いをしていますが、吹き込む雨に
お囃子連も意気が上がらない様子です。

ようやく境内に入ってきました。
屋根に上った若衆も気合いが入ってきました。
まだ祭礼の始まりまでには時間がありそうなので、
「奥之院」の大日如来様を拝みに行くため、「額堂」の前を通り、「光明堂」裏の
「奥之院」に向います。

途中に「清瀧権現社」に置かれている成田山の御神輿が表に出されていました。
あと2時間もすれば威勢の良い掛け声とともに境内から各町内を練り歩くことになります。


いつもはしっかりと閉じられた奥之院の扉が開かれています。
ここからは撮影禁止です。
中は奥行き約10メートル、高さは約160センチほどの洞窟で、
その先のやや開かれた空間に大日如来様が安置されています。
穏やかなお顔の如来様は、不動明王の本地仏です。
仏教のことは良く分かりませんが、尊い仏様を暗い洞窟の中に置いておくのには
どんな理由があるのでしょうか。

これは7月3日(宵宮の前日)の奥之院です。
いつもの通り、扉は閉まっています。
この扉が開かれるのは祇園会の間だけです。
今年は7月4日から9日まで開かれています。




降り止まぬ雨の中、境内には次々と山車と屋台が入ってきます。
今日だけは、お不動様に背を向けて本堂から見物する人が大勢います。

山車と屋台が揃ったところでお坊さんが各町内の山車と屋台について解説をし始めます。
マイクがあるとは言え、それぞれの由来やお囃子の内容、若者頭についての紹介は、
さすがお経で鍛えた喉で、境内の隅々まで届きます。

御神輿を先導するお稚児さん達がお不動様にご挨拶をすると、大きな拍手が巻き起こりました。


いよいよ今朝ほど清瀧権現社前に置かれていた御神輿が登場します。
歓声が湧き、祭りの雰囲気が盛り上がってきました。
この御神輿は各町持ち回りで担いでいましたが、最近の少子化傾向から担ぎ手が不足し、
現在は成田山の従業員と有志によって担がれるようになっています。

大勢のお坊さんが本堂の階段を下りてきます。

ご高齢の橋本照稔大僧正も、祭りの安全の祈願のためにお出ましです。


全員での安全祈願、鏡開きと行事は進み、いよいよ市中へ繰り出します。
成田山では行事のたびに「東日本大震災」の犠牲者への哀悼と
地域の早期復興を祈願しています。
今回も鏡開きまでの間にこの件に何度も触れていました。


あいにくの天候ですが、もう参道や駅前のスポットには
大勢の見物客が集まっていることでしょう。
山車と屋台、そして御神輿は裏門から参道へと向います。
※ 町中の様子は明日に・・・