
この「額堂」は文久元年(1861年)に建立されました。
以前は「三重塔」前にも七代目市川団十郎が寄進した額堂がありましたが、
残念ながら昭和40年に焼失してしまいました。

くすんではいますが、龍や獅子の彫刻は見事なもので、
江戸深川の後藤勇次郎経慶の作です。



その躍動感に圧倒されます。



奉納額や絵馬が所狭しと並んでいます。
建立当初は背面が板壁で囲まれていましたが、今は四方を開放しています。
残念なことに、東日本大震災の影響で、現在は中に入れません。

正面の扁額は採色がすっかりはげ落ちて何も読めませんが、
なぜかお不動様のお姿だけは何んとなく分かります。
とても不思議で、ありがたく思えます。

願いがかなった方、信心深い方、それぞれの想いがこもった扁額の数々です。

焼失した三重塔脇の額堂を寄進した七代目市川団十郎の像です。
この団十郎は「成田山の表参道を歩く(2)」で紹介した、
天保の改革でスケープゴートにされ、「延命院」に身を寄せていた、あの団十郎です。
成田山と歌舞伎の「成田屋」との深い縁をここにも見ることができます。



青銅製の大地球儀があります。
以前は中に入って触ることができましたから、表面はツルツルになって
良く判別できなくなっています。(私も何度か触ったことがあります)
遠くて見えないので望遠で覗いて見ました。
上は多分アフリカ東岸の島々、下はアメリカです。

昭和48年まで「三重塔」のそばの鐘楼に吊るされていた梵鐘です。
今はここで静かに休んでいます。

金網に囲まれて良く見えませんが、「勝軍地蔵尊」です。
昭和15年にここに設置されました。



背面にもビッシリと扁額が掲げられています。

「額堂」の横には「天満宮」と「朝日観音堂」が並んでいます。
「天満宮」は明治20年に再建されたもので、ご祭神は菅原道真公です。

「朝日観音堂」は慶応三年(1867年)に建立され、ご本尊は朝日観音菩薩です。

「額堂」の周りには歴代貫主の句碑が並んでいます。
どれも独特の字体(草書体)で読み難いのですが、
「風凪し 雲の切れ目や皈る厂(雁?)」
「人馬絡驛 万戸の村や ことし米(?)」
の二句が何んとか読めました(?)。

額堂の向いには「開山堂」です。
成田山新勝寺の開山上人、寛朝大僧正のお姿を安置しているお堂で、
昭和13年に建立されました。


装飾の無い質素な作りですが、バランスの良い堂々とした造りです。


「成田山絵図」の石碑がありました。
風化が進み良く見えませんが、細かく彫られた精緻な絵図です。
天保四年(1833年)に寄進されたものです。
もう少し良く見えれば、現在との違いが分かっておもしろいのですが・・・。

「額堂」は成田山の中では異彩を放つ建造物です。
中には入れれば扁額の一つ一つを読んで楽しむこともできるのでしょうが、
外から腰をかがめて覗きこむのも一興です。