
国道408号線が利根川に架かる長豊橋に向かって大きく右にカーブするあたり、竜台車庫
のバス停のちょっと先に「おはつ稲荷」はあります。
細い道を左に入って行くと、鮮やかな朱色のお社が見えてきます。
鳥居は平成16年に建立されました。


この神社は成田市の宗教法人一覧には名前が無く、「成田市史 中世・近世編」中の「成田
市域の主な神社表」にも見当たりません。
「千葉県神社名鑑」や「全国神社名鑒」にも記載がありません。
唯一、「千葉縣印旛郡誌」中にある「豊住村誌」に、「其の他神社」として以下のような簡単な
記述があります。
「稲荷神社 龍台村字堤通 祭神 蒼稲魂命 延保元癸丑三月觀請 社殿間口一間三尺
奥行一間 境内坪数七〇 氏子八一人 管轄廰まで十一里四町八間」
蒼稲魂命(ウカノミタマノミコト)は穀物の神様で、稲荷神社の多くがご祭神としています。
ここには延保元年に勧請されたと書かれていますが、「延」が先に付く元号は、延暦、延喜、
延長、延久、延応、延慶、延元、延文、延徳、延宝、延享の十一ありますが、「延保」という
元号は見つかりません。
これらの元号の中で干支が「癸丑」のケースは「延宝」のみであることから、これは「延宝」
の間違いだと思われます。(保延という元号もありますが、ここにも該当する干支はありません)
延宝元年は西暦1673年ですから、約340年前に勧請されたことになります。


鳥居の脇に「御即位紀念」と刻まれた大正三年(1914)の石柱があります。
各側面には「此方面 地蔵尊至」を始め、矢口、安食、滑河、成田等の地名が刻まれていて、
道標になっていたようです。


短い参道の右側に手水盤と風化した石造物が並んでいます。
手水盤は弘化三年(1846)、「御寶前」と刻まれた灯篭は元文三年(1738)のものです。
手前から二番目の石碑は、「天明二」と読めるような気がします。
天明二年は西暦1782年ですが、約6年間続いた天明の大飢饉が始まった年です。

社殿裏の祠の中にもう一つ小さな祠が入っていて、「稲荷大明神」と刻まれています。
天保三■辰二月と記されています。
天保三年は西暦1832年です。

「御神燈」と刻まれた石灯籠は、火袋と宝珠の部分が新しく、笠や中台、竿などは古いものの
ままで、「弘化五戊申二月」と記されています。
弘化五年は西暦1848年になります。


社殿横の路地に面して二基の「馬頭観音」が立っています。
左は文字のみで「馬頭観世音」と刻まれ、寛政の元号が読めます。
右は六臂の馬頭観音像で、年代は不詳です。



路地を馬頭観音の先に進むと、「大日如来像」があります。
宝永五年(1708)のものですが、修復のため全体が新しく見えます。
「成田の史跡散歩」には、この大日如来像について次のように紹介されています。
『 おはつ稲荷の後方に、法界定印を結ぶ大日如来像を刻んだ石像がある。 宝永五年
(一七〇八)十月八日の建立で、「下総国埴部(生)郡竜台村 施主男女六十三人」と刻ま
れている。毎年旧十月八日に大日様の祭りがあり、このとき老人たちによって三本の竹と
藁で石像の前の飾りが作り直されている。 土地の人はただ「大日様の飾り」といっている
が、これは出羽三山信仰によく見られる梵天のようである。』
「山形県の月山・湯殿山・羽黒山の出羽三山には、江戸時代には成田市周辺からも数多
くの人々が参詣に出向いている。竜台も同様で、明治年間まで講があったという。 そして
講がなくなったことから、出羽三山のことは忘れられて大日様の祭りとなったが、梵天を
立てることだけは継続されたのであろう。」 (P146)

大日如来像の後方にある嘉永元年(1848)の「月山 湯殿山 羽黒山 西国 秩父 坂東供養塔」
と刻まれた石碑。
隣の石碑には、「奉納 大乘妙典 日本廻國」と刻まれ、文久二年(1862)と記されています。

路地が行き止まりとなるところに、「竜台の百庚申」と呼ばれる庚申塔群があります。
成田市内には四ヶ所の「百庚申」とよばれる場所がありますが、ここはその一つで、本当に
百基の庚申塔があります。
「庚申塔」という文字だけにものと、「青面金剛像」が刻まれたものとが二列に並んでいて、
前列には四九基(内大きなものが三基、青面金剛像は七基)、後列には五一基(内大きな
ものが五基、青面金剛像は八基)、そしてなぜか如意輪観音が刻まれた月待塔が一基紛
れ込んでいます。
後列の手前側には大きめの五基が並んでいます。


年代不詳

明和六年(1769)月待塔

年代不詳


前列の奥にも大きめの三基が並んでいます。


嘉永七年(1854)


真ん中の「青面金剛尊」と刻まれた庚申塔には、とても珍しい三猿が刻まれています。


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普通、青面金剛像に刻まれる三猿は、「見ざる・言わざる・聞かざる」のポーズをとっていますが、
この三猿はなんと御神楽を舞っているようなポーズをとっています。
帽子をかぶり、左の猿が叩く太鼓に合わせて二匹の猿が踊っています。
庚申講で夜通し飲んで舞う村人の姿を模したのでしょうか、意表を突いたユーモアを感じます。

百庚申と言われる場合でも、ここのように実際に百基の庚申塔がある所は滅多にありません。
一番古いものでも寛政十二年、ほとんどが安政年間のものですが、平成7年に成田市の指定
文化財となりました。
終りに、「おはつ稲荷」と呼ばれるようになったいきさつについて、「成田の歴史小話百九十話」
(小倉 博著)からの要約で触れてみましょう。

江戸後期に竜台村の作兵衛の女房「おはつ」に稲荷神が取りつき、生神と称して予言をする
ようになったことに目を付けた神官が、神社とは別のお社を建て、ここで「おはつ」に人々の
相談を聞いてはお金を取ってお託宣を授けるようになります。
「おはつ稲荷」などと呼ばれて評判が高まり、遠方からも人々が集まるようになると、同じ村の
吉祥院の住職が託宣に疑問を持って神官の組合に訴え、組合もこの行為のいかがわしさを
指摘し、「おはつ稲荷」の解散を申し入れますが神官は聞き入れず、「おはつ」による託宣を
続けます。
組合は関東取締出役に訴え出て、ついに「おはつ稲荷」は解散させられてしまいました。
お社は取り壊されましたが、「おはつ稲荷」の名前だけが仏具等を移した稲荷神社の通称と
して残りました。
御託宣の中身はともかく、こうした話は現代でも時々耳にしますね。
なお、当時の「稲荷神社=おはつ稲荷」は「豊住村誌」に「龍台村字堤通 祭神 蒼稲魂命」と
あるように、利根川の堤防上の「堤通」にありました。

※ 竜台「おはつ稲荷」と百庚申 成田市竜台476
青面金剛尊の石も踊りの姿みたいで、職人集団に、余ほどユーモラスな人が居たのだと、思わず笑みが湧きます。
深刻な思いも、こうして癒やしたのかと、講の日の運営が直に伝わってきます。
昔の日本人の大らかな宗教観というか、タブーをユーモアで笑い飛ばす逞しさは、
現代人が失ったものの一つですね。
石仏の中には定形外の像容のものがありますが、これをユーモアとして見るとまた
違う世界が見えてくるような気がします。