前回の「勝光寺」と同じ「高」地区にあります。

この神社に関する資料はほとんど見つかりません。
「下総町史」には、
「高の字栗台にあり、祭神は月読命。伝承では江戸時代の別当寺は延寿院であった。」
とのみ記載されています。
また、「千葉縣香取郡誌」にも、神社誌の項に「その他神社」としての一行のみの記載です。
「千葉県神社名鑑」には、
「祭神 月讀命(つきよみのみこと) 本殿・亜鉛板葺 流造〇.二五坪、拝殿・亜鉛板葺
切妻造一坪、境内坪数一、〇二九坪 氏子五〇戸 由緒沿革 徳川時代の創建といわれる」
と書かれています。

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灯篭は平成8年の寄進です。

境内に入るともう一つの手水盤があり、「寛政九丁巳」と刻まれていました。
寛政九年は西暦1797年になります。


拝殿には「金環殿」の神額が架かっています。
月読命(ツクヨミノミコト)は月の神で、天照大神(アマテラスオオミカミ)の弟神、須佐之男命
(スサノオノミコト)の兄神になります。
伊弉諾命(イザナギノミコト)が伊弉冉命(イザナミノミコト)の許から逃げ帰って禊をした時に
右の目から生まれたとされています。
天照大神の命で保食神のもとを訪れた時、保食神が口から出した食物で饗したことを怒り、
剣で刺し殺してしまいます。
天照大神はこれを怒って会うことを拒み、日と月とが離れて住むことになったため、それ以来
昼と夜が分れたとされています。
「金環殿」の由来についてはどこにも説明がありませんが、金環日食の時、太陽が月の後ろに
隠れて見える「金環」から来たのでしょうか?


流造の本殿は重厚な造りです。

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本殿は木柵で囲まれていて良く見えませんが、脇障子には何かの物語を題材にした彫刻が
施されています。


神社の裏手に細い道があり、30メートルほど進むと「天神様」がありました。
鳥居の下には自然石をくり抜いた手水石が置かれています。


小さなお堂の中には菅原道真公の木像がありました。
風雨に晒されて、彩色はすっかり剥げ落ちています。
月輪神社に戻って、本殿裏にある石祠を見てみます。

「寛保四甲子」の紀年銘のある祠。
「■嶋大明神」と刻まれていますが、■の部分がどうしても読めません。
「下総町石造物目録」(下総歴史民俗資料館編)を見ると、どうやら淡島大明神のようです。
寛保四年は西暦1744年になります。

大きい方の祠には「元文四己未」と記され、小さい祠には「文化七■午」と記されています。
小さい祠には「疱」の文字が微かに読めますので、「疱瘡神」のようです。
元文四年は西暦1739年、文化七年は1810年になります。

境内にポツンと一つだけ離れて立つ石祠。
名前も年代も分かりません。


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神社の周りは鬱蒼とした森で、境内にはあまり陽が入らないため、一面に苔が生えています。
まるで緑の絨毯のようで、歩くのが憚られます。


「下総町史 近世編史料集」に収録されている、文久三年の「高村延寿院寺柄書上書」の
中に「月輪神社」の名前がチラリと出てきます。
「鎮守満月輪菩薩宮壱ヶ所 本社弐尺四方 拝殿九尺弐間 天満宮壱ヶ所」
との記述です。
明治三年に廃寺となった真言宗の「延寿院」はこの月輪神社の別当寺であったようです。
「延寿院」は「月輪神社」の傍にあったとのことですが、今ではそれらしき痕跡はありません。
前回の「勝光寺」の現状を見ると、ここ高地区にはお寺は無くなってしまいました。
150メートルほど離れた場所に、数基の石仏とお堂がありましたので、立寄ってみます。

お堂の右側に三基の月待塔が並んでいます。


一番道路側にある、「明和元■申」と刻まれた「十三夜月待塔」。
明和元年は西暦1764年になります。
宝冠の形から「虚空蔵菩薩」だと思いましたが、背中に子供の顔のようなものがあります。
補修跡かとも思いましたが、何となく左右に十七夜と十九夜の文字があるように思えます。
再度訪れた時に、風化が進んでいますが、両手で赤子を抱いていることに気付きました。
背中の顔も補修跡ではありません。
陽光の角度だったのでしょう、十七夜、十九夜の文字も読めました。
「子安観音」でした。

延享三年(1746)の十九夜待ちの月待塔。
十九夜の守り本尊の「如意輪観音」が彫られています。

二十三夜と刻まれた月待塔。
隣にある十九夜塔と同じ延享三年のもので、風化が進んでいてはっきりとは分かりませんが
「勢至菩薩」が彫られているようです。
十九夜塔や二十二夜塔には、守り本尊の「如意輪観音」が彫られていることが多いのですが、
二十三夜塔に守り本尊の「勢至菩薩」が彫られることは珍しいようです。

奥にある「青面金剛」。
年代等は読めませんでしたが、像形ははっきりしています。
六臂像で、それぞれの手に法輪・弓・矢・剣・錫杖・ショケラを持ち、邪鬼を踏みつけて、
台座に三猿を配しています。
「下総町石造物目録」には、この「庚申塔」が元文五年のものと記載されていました。
元文五年の干支は庚申、西暦1740年になります。

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お堂は左右に仕切られています。
右側には厨子があり、扉が閉まっています。
左は隙間からチラリと合掌する赤子が見えますので、「子安堂」かも知れません。

子安堂の横、道が交差する角に「地蔵菩薩」が立っています。
「念仏供養」「享保」と読めるような気がします。

「地蔵菩薩」の左隣には、「奉侍二十三夜尊」と刻まれた「勢至菩薩」の月待塔像があります。
「■永三■午」と読めますが、寛永、宝永、安永、嘉永等の「永」の付く年号の中で、三年の
の干支が■午となるのは安永三年(1774)のみです。

右側は奉誦塔です。
「奉誦普門品千部供養塔」「文化十癸酉天十一月吉日」と刻まれています。
文化十年は西暦1813年になります。

ここは「台の十字路」と呼ばれているそうで、地元の方たちに大切に守られているようです。
地区からお寺は消えてしまいましたが、この石仏や「月輪神社」がいつまでも地域の平穏を
護ってくれることでしょう。

※ 「月輪神社」 成田市高681
保食神を刺したのは日本書紀では月読で、古事記ではスサノオ。
・・・犯人はどっちなんでしょうね?w
スサノオは粗暴な振る舞いが多かったとされていますので、
そんなこともあるかな?と思いますが・・・。
お礼の言葉を忘れていました。
ありがとうございました。
このところ体調不良で、なかなか取材に力が入りません。
この記事を書いたころは元気だったのですが、早く体調を戻して
新しい発見に向かいたいと思います。
これからもよろしくお願いいたします。