はるか昔、成田一帯には埴輪や土器を作る土師部一族が住んでいて、かつての「埴生郡」
の名前のルーツはそこにあると言われています。
郷部にある「埴生神社」は土の神である「埴山姫命」をご祭神としていますが、「土師神社」も
こうした歴史の中から創建されたものです。

「公園通り」を郷部大橋から土屋交差点へ向かう途中の左側に「土師神社」はあります。
「千葉県神社名鑑」には、
「祭神 天穂日命(あめのほひのみこと) 本殿・石宮 境内坪数 二七坪 氏子三〇戸」
とありますが、小粒ながら立派な流造の社殿が建っています。
石宮はこの社殿の中に納められているのでしょうか。


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社号標、鳥居、手水盤、御神燈等はいずれも新しく、平成6年に建立されたもののようです。

「千葉縣印旛郡誌」の中にある「成田町誌」には、この「土師神社」について次のように記述
されています。
「無格社 土師神社 郷部村字南台にあり天穂日命木花咲耶姫命を祭る創建不詳なれども
明治四十四年六月四日許可を得て成田町大字郷部字浅間にありし無格社浅間神社を本社
に合祀す社殿間口七寸五分奥行六寸鳥居八尺と五尺とにして境内二十七坪民有地第一種あり
神官は宮崎廣重にして氏子二十七人を有し管轄廰まで八里十五町五十三間二尺あり
毎年九月廿二日に祭典を行ふ神社明細帳」


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細かな彫刻が随所に施されています。

「成田市史 史料集一」に収録の明治十七年(1884)の「下埴生郡郷部村誌」には、
「土師神社 村ノ中央ヨリ寅ノ方ニ当リ字南臺、境内廿七坪民有地、祭神天穂日ノ命。」
とあり、同じく大正元年(1912)の「成田町誌」には、
「土師神社(境内二十七坪)郷部の中央なる小字南台にあり、天穂日命を祀る。創建年月等
詳かならず。九月廿一日は其祭典の日なり。」
とあります。



前面には交通量の多い「公園通り」、周りは商店や駐車場といった環境の中で、窮屈そうに
佇んでいるような感じがします。
「千葉県神社名鑑」から、成田市内にもう一つの「土師神社」を見つけました。


「鎮座地 成田市上福田五七番地 祭神 野見宿禰命 主要建物 本殿・流造〇.二五坪
拝殿・九坪 境内坪数 一九〇坪 氏子 三〇戸」
なお、宮司は欠員となっていました。(現在は名前があります)
「野見宿禰命(ノミノスクネノミコト)」は「天穂日命」の子孫で、垂仁天皇の命により、力自慢の
「当麻蹴速」と角力(相撲)をとり、これを打ち負かしたことから、「相撲の神様」とも言われます。
殉死に代わる埴輪を考え出したことから、「土師」の姓を与えられました。

「成田市史 中世・近世編」の「市域の主な神社」リストには、
古社名が「土師明神宮」であること、ご祭神は「埴山姫命」で、天正二年(1574)の創建で
あることが書かれています。
成田総鎮守の「埴生神社」のご祭神でもある「埴山姫命(ハニヤスヒメノミコト)」は、土や陶器
の神様で、「野見宿禰命」の先祖でもあります。

「弘化三丙午十月吉日 當村講中」と刻まれた手水盤。
弘化三年は西暦1846年です。


拝殿から少し離れて流造の本殿があります。
手前の御神燈には「嘉永二酉四月吉日」と記されています。
嘉永二年は西暦1849年になります。

「千葉縣印旛郡誌」中の「八生村誌」に、この神社についての記述があります。
「村社土師神社 上福田村字天神谷ッ五十七番地にあり埴璽山姫命火結命相殿垣師命
貴之宮命を祀る天正二年創立其他不詳明治四十三年三月十二日許可を得て八生村
上福田字井戸手四百七番地にありし無格社愛宕神社字ノ前二百九十六番地にありし
無格社貴五宮社を本社に合祀す境内六十九坪共有地石井彌助外二十八人持あり神官は内海
永喜にして氏子二十九戸を有し管轄廰まで九里三十二町あり社内に埴輪土偶を安置す
神社明細帳」
ご祭神に関する記述が史料によって異なったり、史料にないローカル(?)な神様であること
は珍しいことではありません。
埴璽山姫命が「埴山姫命(ハニヤマヒメノミコト)」のことであることは想像できますし、火結命
(ホムスビノミコト)もご祭神として時々登場しますが、相殿とされる「垣師命」と「貴之宮命」に
ついては、いろいろ調べましたが全く手掛かりがありません。


本殿の裏にお堂があり、その中に古いお社が納まっています。
正面に卍の彫刻が施されているのが不思議です。
神仏習合の一つの形なのでしょうが、明治に入って神仏分離令が出されるまではそれほど
珍しいことではなかったようです。(今でも東京の「根津神社」は卍を神紋にしています。)

裏山に向かってケモノ道らしきものが伸びています。
そこに細い竹と藁で作られた「結界」を示すようなものがありました。

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ポツンポツンと離れた場所に名前も分からない小さな祠が三基ありました。




拝殿の右手に、それぞれ少しずつ離れて、三つのお堂が建っています。
それぞれ鞘堂の中に壊れかけた古いお社が置かれています。
一つのお堂の中に、首の無い木像が見えていますが、その形から道真公のようですので、
「天満宮」ではないかと思われます。


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天正二年の創建から数えて440年余り。
長い歴史を有する古社が、上福田の森の中にひっそりと鎮座しています。
郷部の「土師神社」は、開発が進む市街地の喧騒の中にありました。
そして、上福田の「土師神社」は開発とは縁遠い森の静寂の中にあります。
古のこの地方を象徴する名前を持つ二つの神社は、それぞれの姿で地域を見守っています。


※ 郷部「土師神社」 成田市郷部241
上福田「土師神社」 成田市上福田57
千年も計算ミスするとは、大分ボケが進んでいるようです。
徳島県の大名の蜂須賀家の家紋が卍で、こっちの寺社には結構付いてたりします。
う~ん関係ありますかね? 無いかな? 全くの別物でしょうか?w
それにしても、調べてみると全国的に卍紋の武家が結構いるのには驚きました。
休憩とのことですが、 再発進を楽しみにしております。
今後は県内の大型寺社を回る事になるのでしょうか?
千葉県の式内社を是非。 (>_<)ノ
ps おお、うぃきで見ると確かに卍紋は多いですね。
しますので、捨て難いところです。
書き残した成田市内の寺社を拾いながら、少しづつ周辺地域に
足を延ばす予定です。