「高」は明治二十二年(1889)に町村制の施行により高岡村字高となるまでは「高」村で、
井上氏が治める高岡藩領でした。
昭和30年になって、昭和の大合併により「下総町高」となり、平成18年の平成の大合併で
「成田市高」となりました。

まずはこの景色です。
ここには「勝光寺」というお寺があったはずです。
どう見てもこれは廃寺跡の光景です。
「下総町史 通史近世編」(平成6年)には、この「勝光寺」が次のように紹介されています。
「興隆山と号し、龍安寺末。本尊は地蔵大士(地蔵菩薩の異名)。明治時代の社寺明細帳
によれば、龍安寺五世の田村正和尚が、正保三年(一六四六)に創立したとある。宝永二年
の村差出帳によれば、二反二畝一六歩の寺地を持ち、境内に地蔵堂がある旨記されている。」
また、「香取郡誌」にはその他寺院として一行のみの記載があります。
「郡誌」が編さんされた大正十年(1921)はもちろん、「町史」が編さんされた平成6年の時点
では「勝光寺」はこの場所にあったはずですから、その後の20年あまりの間にこんな景色に
なってしまうとは、一体どんな事情があったのでしょう?
ゼンリン地図で確認すると、ここには「高青年館」と記載され、「勝光寺」の名前はありません。
昨年11月時点の千葉県宗教法人一覧表には「勝光寺」が記載されていますので、廃寺と
なったわけではなさそうです。
何の表示もありませんが、境内跡にある「高青年館」が本堂を兼ねているのでしょうか?
それにしても寂しい景色です。


境内入口の「馬頭観世音」。
昭和13年の紀年銘がありますが、文字だけの馬頭観音は、信仰というより愛馬の供養の
ために建てられることが多いようです。


境内の真ん中に笹に囲まれた梅の古木があり、寒風の中、小さな花をつけています。
境内の一角に数基の石仏が立っています

一番左にある「享保十四己酉」と刻まれた石仏。
頭部が補修され、両手も欠損があるため、自信はありませんが地蔵菩薩だと思います。
享保十四年は西暦1729年になります。

隣の「十九夜如意輪観世音」と刻まれた月待塔。
紀年銘は読み取れませんが、後日「下総町石造物目録」(平成18年・下総歴史民俗館編)
にこの月待塔が掲載されているのを見つけました。
「正徳五乙未天十一月十九日高村同行善女五十四人敬白」と刻まれているようです。
正徳五年は西暦1715年になりますから、300年前のものですね。

一つおいて「元禄十三 奉誦十九夜供養」と刻まれた如意輪観音の月待塔。
元禄十三年は西暦1700年になります。

月待塔に挟まれた墓石には「明治三庚午」と刻まれています。
右から二番目は明治三十年の戦没者の慰霊碑。
右端は明治二十六年の墓石。


「下総町史」にあった「地蔵堂」がこれでしょうか?
中を覗くと、どうやらこれは大師堂のようです。

大師堂は左右に仕切られ、左側に大師像が安置され、右側には厨子が置かれています。
厨子の扉がほんの少し開いていて、朱色の仏像の一部がわずかに見えています。

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扉の隙間が狭く、暗いため肉眼ではほとんど中が見えません。
フラッシュをたいて画像を確認すると、女形で表情も穏やかな仏像のようです。
弁才天のようにも思えますが、琵琶を持っていませんし、赤い弁才天は記憶にありません。
全身が赤く、蓮の華の上に結跏趺坐で座る姿は愛染明王(あいぜんみょうおう)を思わせ
ますが、忿怒相であるはずがあまりにも表情が柔和で、どうも違うようです。


一段高いところにもう一つお堂があります。
中にはシンプルなお姿の観音様が安置され、三峰神社のお札がたくさん置かれています。


観音堂の横にある唐屋根の祠は三峰社でしょうか?
隣の小さな祠は、屋根を見ると流造になっています。


境内からは遠く筑波山が望めます。
昔の村人は、境内からみえる筑波山に何を想ったのでしょうか?

境内の横を登る急坂に、取り残されたような小さな墓地がありました。
かつてはここも「勝光寺」の境内だったのでしょう。


急坂を登って行くと、崖っぷちにへばりつくように「妙見神社」があります。
この神社については「香取郡誌」、「神社名鑑」共に記載は無く、由緒は分かりません。
「妙見」は房総に広く根を張った千葉一族にとって、その結束の根幹を成す信仰でした。
一族が勢力下に置いた村々にはほぼ例外なく「妙見社(妙見神社)」が勧請されています。
ご祭神は「妙見菩薩」です。


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神明鳥居や狛犬は新しく、平成8年に寄進されたものです。
足許は崖、道の反対側は山林で、陽の当らない場所にある昭和13年寄進の手水盤の
水は凍りついていました。

鞘堂の中に流造のお堂があります。

小さな亀が置かれています。
「妙見菩薩」は北方を守護する神で、北極星を指すと言われています。
亀と蛇が合体した「玄武(げんぶ)」という想像上の動物に乗る、甲冑を着けた武将の姿が
一般的ですので、そこからきたものでしょう。

見えているのは名木から神崎方面でしょうか。
先ほどの赤い仏像がどうしても気になるので、戻ってもう一度見ることにします。


柔和相の馬頭観音を「赤観音」と呼ぶことがありますが、一面二臂像は珍しく、もしこれが
「赤観音」であれば、このような形で放置されることは無いと思われます。
明王の中の唯一の柔和相である「孔雀明王」の可能性は捨てきれません。
台座部分にあるべき孔雀が欠損したと考えると像形としては一番近いのですが、光背の
部分が孔雀の羽根というより牡丹や椿のようで疑問が残ります。
修復の結果手に持つ琵琶が欠落した「弁才天」か?、とも考えましたが、赤い弁才天は
聞いたことがありません。
像形から考えて「愛染明王」の可能性は無いようです。
結局、結論は出せませんが、疑問は疑問のままで良いのかもしれないと思いました。


たまたま通りかかった地元の方にお聞きしたところ、だいぶ前から境内はこんな状態で、今後
本堂が再建されることは無いだろうとのことでした。
たくさんあった石碑・石仏もいつの間にか無くなったそうです。
さて、後日お堂の中の仏像がどうしても気にかかって、手持ちの資料や図書館の仏像図鑑類
を片っ端からめくってみました。
新たな候補に「金剛愛菩薩」と「愛楽金剛女」が加わりました。
「愛染明王」と同体とされ、朱色の像形と柔和相は不自然ではありません。
ただ、ほとんど知られていない菩薩なので、ここにあることがあまりに不自然に思えます。
そして、孔雀に乗らずに蓮の華と孔雀の羽根を持つ二臂の孔雀明王像を見つけました。
「白蓮または青蓮に座し、やや斜めに結跏趺坐する」とあり、「諸願成就・厄除・息災延命・
雨乞いの神として信仰されている」とありました。
これなら間違いないような気がします。
もう一度「勝光寺」を訪ねて確認することにしました。
前回より扉の開きが少し大きいようです。


やや斜めを向いて青蓮上に座っています。
両手に補修の痕がありますので、元の形は蓮と孔雀の羽根を持っていたかも知れません。

宝冠の上に孔雀が乗っているように見えるような気もしてきました。
素人判断は危険なので結論は出せませんが、自分の中では「孔雀明王」と推測しました。
全く的外れかも知れませんが、もし「孔雀明王像」だとしたら、ちょっとした発見です。

何度来ても寂しい景色です。
前述の「下総町石造物目録」によれば、この境内には享保九年の「宝篋印塔」や安永三年
の月待塔などがあったはずなのですが・・・。
このまま370年の歴史が消えてしまうのでしょうか?

※ 「興隆山勝光寺」(跡) 成田市高741