
大正十年の「香取郡誌」中の神社誌の項に「神崎神社」が次のように紹介されています。
「神崎町神崎本宿字雙生山に在り域内六千八百八十八坪面足尊大貴己尊惶根尊少彦名尊
を合祀す祭日一月四日三月廿日五月六日九月新嘗祭等なり創建詳かならず然れども古史
巳に之を載するを見れば其最古に在りしは以て證ず可し社傳に曰ふ白凰二年二月朔日常陸
國河内郡と本郡の境界なる大浦沼字二ッ塚より此地に遷座す」
(※ 面足尊(オモダルノミコト) 大貴己尊(オオナムチノミコト) 惶根尊(カシコネノミコト) 少彦名尊(スクナビコナノミコト)
「大貴己尊(オオナムチノミコト)」については通常「大己貴尊」と書きます。)
「白凰(はくほう)」という年号は日本書紀には記されていない諸説ある年号で、西暦674年と
する説が有力ですが、651年とする説や662年とする説などがあります。
いずれにしろ実に約1350年ほど前のことになります。
「史に元慶三年四月五日下總國正六位上子松神に從五位下を授くと三代實録記するものは
即ち本社なり承平二年春宮學士大江某本州の國司なりし時社殿を造り社領卅六町餘を寄進
し廿一年毎に改造の例と為す」
明治時代初期まで、「神崎神社」は「子松神」とも呼ばれていました。
正六位上から一段階上の從五位下を賜った元慶三年は、西暦879年になります。
社殿が造営された承平二年は西暦932年になり、約1080年前のことです。


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神崎町を横切る「利根水郷ライン」に面して大きな鳥居と社号標が立っています。
昭和10年に寄進された狛犬の台座には、お馴染“魚がし”のマークが刻まれています。

真っ直ぐ伸びる石段は101段もあります。


石段を登り切った右側には「金刀比羅宮」があります。
側に数基の祠がありますが、唯一紀年銘が読めたのが■保十一丙■年で、該当するのは
「享保十一年丙午年」(1726)となります。

「金刀比羅宮」の反対側に小高い場所があり、数基の祠があります。
神社の案内板に「愛宕神社」のお宮が描かれていた場所ですが、今は石祠だけです。

今度は42段の石段を下って小さな広場のような場所に出ます。
「皇紀二千六百年四月十五日 中段参道コンクリート工事延長二十三間」と刻まれた石碑
が立っています。

右側の石段は鳥居から登って下った参道です。
左側へは石段が下へ伸びています。
「神崎神社」は後方になります。
なかなか「神崎神社」に辿りつきませんが、ちょっと石段を下りてみます。

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石段の下は墓地になっています。
寛文、明和、安永、天明、寛政、文政、慶応等の年号が読め、中には400年近く昔の寛永
年間の墓石もあります。
墓地を抜けると、昭和3年に建立の「神崎神社近道」と刻まれた大きな石柱がありました。


通りに出ると、そこは日本酒製造販売の「寺田本家」です。
延宝年間の創業で、約340年の歴史がある老舗です。
すぐ近くにはもう一軒の老舗、元禄二年創業の「鍋店」があります。
そう言えば、神崎町のキャッチフレーズは「発酵の里こうざき」でした。

下りてきた石段を登って戻ります。
この石段は「女坂」と呼ばれていて、61段あります。


「女坂」上の広場には鳥居を持った「三峰神社」があります。
新しくお堂を覆った鞘堂は、大変失礼ながら何やら犬小屋のようで・・・。

この道祖神は寛政元年(1789)のものです。

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大正十一年(1922)に寄進された狛犬。
毛並みの良い巻毛の狛犬です。
そばに神社の説明板がありました。
「白鳳時代に大浦沼二つ塚より現在の地に遷座し、明治6年に郷社、大正10年県社に
昇格しました。 7000坪あまりの境内は「神崎の森」と呼ばれ、全域が県の天然記念物
に指定されています。 また本殿脇には国指定天然記念物の「なんじゃもんじゃの木」が
あります。 ご祭神は天鳥船命、少彦名命、、大己貴命、面足命、惶根命であり、交通・
産業守護の神として深く信仰されています。」
天鳥船命(アメノトリフネノミコト)」の名前は「香取郡誌」の中では出てきませんでした。
この神はイザナギとイザナミとの間に産まれ、鳥の様に空を飛べるとされています。
またこの神の名は、神が乗る船の名前としても登場することから、船の神や運輸・交通の
神とも言われています。
「天鳥船命」をご祭神とする神社は少なく、この「神崎神社」の他は、
「隅田川神社(東京都墨田区)、大鷲神社(横浜市南区)、鳥船神社(埼玉県所沢市)など」
(ウィキペディア 「鳥之石楠船神」の項)数えるほどしか無いようです。
さて、さらに43段の石段を登ると、ようやく社殿が現われます。
(今回は段数ばかり数えていますが、「利根水郷ライン」の鳥居からは101段登って42段
下り、43段登って社殿前に着きます。)

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最後の石段の上にも狛犬がいます。
元禄八年(1695)の狛犬ですが、無残に顔が削られています。
明治初期の廃仏毀釈はお寺や仏像に向けられたものですから、神社にある狛犬の顔が
削られるということは考えられません。
一体何があったのでしょうか?


「香取郡誌」中の「神崎神社」の項には、
「文應元年正元改元三月神崎師時左衛門尉○社記に北條師時に作るは誤る文書を寄せ神崎神社内
惣領宮和田小松上畠多賀青山等六所四十餘町の神領及び神事並に神輿修理廿一年の
造謍等先例に因り・・・」
とあり、社殿は、造営された承平二年以降、何度かの改築・修繕が行われてきました。
「天正十九年徳川氏社領二十石を寄附す以上文書悉く存す當時神崎大明神と稱す寛文十一年
正殿を改造し神崎本宿外三十六區二千餘戸の領土神とし五月六日を例祭とす明治の初め
神崎神社と改號し六年八月郷社に列す」
天正十九年は西暦1591年、寛文十一年は1671年になります。
社殿は明治四十年(1907)に火災に遭ったため、新たに神殿の造営が行われて、大正五年
(1916)に至ってようやく本殿・中殿・拝殿が整ったと書かれています。

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社殿に向かって右手奥にあるこのお堂には、「安産子育聖観音」と書かれています。

国の天然記念物の「なんじゃもんじゃの木」です。
クスの木で、親木の周りを数本のひこばえが取り巻き、主幹は周囲約13メートル、樹高は
約19メートルの大木です。
「神崎神社社側に在り一大巨樹にして高さ八丈圍二丈に餘り蒼々天を摩し遠望尚ほ之を認め
得べかりしが明治四十年中本社の火災に罹りし時樹も亦延焼するところとなり遂に舊狀を留
めざりしも根株の邊數本の萌蘖を生ぜり利根川圖誌に曰く本草綱目載するところ山桂樹の類
なりとし平田篤胤は以て藪肉桂とす傳へ曰ふ里人其名を知るものなく問ふにナンジャモンジャ
の語を以てす是より遂に稱となるナンジャモンジャは方言にして如何なるものゝ意なり又水戸
侯徳川光圀此名を附するの事を傳ふ」
「香取郡誌」中の「名勝誌」に、この「ナンジャモンジャの木」がこのように紹介されています。

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「ナンジャモンジャの木」は意外と各地に点在していますが、木の種類ではなく、見慣れない
巨木・古木に対して付けられた名前のようです。
「神崎町史 近現代編」に、大正九年(1920)、この木についての「東京植物病院」からの
問合せに当時の神崎町町長・酒井子之助が答えた文書が載っています。
『千葉県香取郡神崎神社ノ社頭、神木「ナンヂャモンヂャ」ト称スル年古リタル老樹ガアル、
初メ其ノ何ノ木タルヲ知ラナカッタノデ、曖昧模稜ノ意ヲ以テ斯ク呼ンダトイッテ居ル、マタ
伝フ、水戸黄門光圀ノ命名ト』
『先哲平田篤胤先生ハ「藪肉桂」トイヒ鹿島日記著者高田輿清氏ハ「年経タル桂ノ樹」ト断
ジテ 神代より茂りて立てる湯津桂 栄え行くらん限り知らずも ト詠ンデ居ル、マタ利根川
図志ニハ「山桂」ト記シ、岩崎常正氏ハ「樟ノ異名」トイヒ近頃理学博士伊藤篤太郎先生ハ
研究ノ結果「樟樹ノ一種」ナルコトヲ証明シテ居ル、去ル明治四十年回祿ノ災ニ罹リ、老木
ハ廃幹ヲ残シ基根部ヨリ簇生セル数株ノ蘖ハ現ニ盛ニ成長シツゝアル、大正二年千葉県
ヨリ名木トシテ保存費金壱百円下付セラル、尚今回発布セラレタル天然記念物保存ニ指定
セラルゝコトニ内定シアリ』
けっこう木の種類の特定には苦労したようですね。
結局、「ナンジャモンジャ」のままが一番良いようです。

ナンジャモンジャの木のそばにある「地主稲荷」。
明治二五年(1892)の「神社明細帳」には、この神社について次のように書かれています。
「稲荷神社 祭神 受持命 由緒 地主ノ神ト称ス、神崎神社御遷坐以前稲荷神社ノ社地
ナルヲ以テシカ云フナリ」


本殿の裏を登る細道があり、いくつかの祠が並んでいます。
「神崎神社」へは神宿交差点から登るもう一つ登の参道があります。

西側から坂を登る参道の途中に「八坂神社」があります。
説明板には、
「正徳二年(一七一二)創建 古くは「天王様」と呼ばれていた 明治元年に八坂神社に改称
祭神 建速須佐之男命と言われているが ここのお祭りは昔から女神の神輿といわれて出雲
の大蛇退治の神話中で後に命の奥方になった櫛稲田姫をお祭りしているとも言われている」
と書かれています。
(※ 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト) 櫛稲田姫(クシナダヒメ))
300年以上の歴史がある神社です。

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流造りの本殿には、5本の鰹木と垂直切りの千木が載り、鬼面の鬼瓦が見えました。
なお、神社下の西側にも「八坂神社」があります。



「八坂神社」の上には「天然記念物の大クス」と書かれた標柱が立っていますが、同じくらいの
大きさの木が何本もあります。

「千葉県神社名鑑」には「神崎神社」は次のように紹介されています。
「祭神・天鳥船命(あまのとりふねのみこと)少彦名命(すくなひこのみこと)面足命(おもだる
のみこと)惶根命(かしこねのみこと)大己貴命(おおなむちのみこと) 本殿・銅板葺流造六坪
幣殿・銅板葺一二坪 拝殿・同一六坪 社務所・亜鉛板葺三〇坪 境内七、〇六七坪 氏子
二、〇〇〇戸」
『由緒沿革 白鳳二年、常陸国と下総国との境である大浦沼二っ塚より現在の地に遷座した。
「三代実録」所載の子松神社で、元亀・天正の頃まで、神領七〇〇町歩を有した。 徳川時代
は代々御朱印二〇石を寄せられた。六所鎮守、神崎大明神、神崎大社等と称されていたが、
明治元年以降、神崎神社と改称されている。 明治六年郷社に列し、大正一〇年県社に昇格
した。』


神崎の深い森の中で、1350年の時の流れを過ごした「神崎神社」です。

※ 「神崎神社」 香取郡神崎町神崎本宿1994