

「円應寺」は真言宗智山派のお寺で、山号は「米野山」。
成田山新勝寺の門末六ヶ寺の一つで、「米野山円能寺」と称していましたが、近世になって
「円應寺」と寺号を改めました。
創建年代等は不明ですが、残る記録から、少なくとも三百数十年の歴史があります。
新勝寺の門末六ヶ寺とは、末寺が延命院のみで、門徒寺として観音院・正福院・南光坊・
神光寺・円應寺となっていますが、現在残っているのはこの「円應寺」のみです。
(観音院・正福院・神光寺が明治初期に、南光坊が明治十七年、延命院が明治二十六年
に廃寺となっています。)
「公津新田字中台ニアリ。成田山新勝寺ノ末寺ニシテ真言宗ニ属シ、正観世音ヲ本尊トス。
由緒詳カナラズ。住職ハ池田照誓ニシテ檀徒六十八人ヲ有ス。」
(「八生村誌」 大正三年)
(※ 昭和29年に公津新田から米野に改称)



境内右手ある「如意輪観音」。
天保四癸巳二月吉日の紀年銘があります。
天保四年は西暦1833年です。
修復の痕があり、首が傾いていませんので、何となく違和感があります。
観音様も首の座りが悪いのか、ちょっと苦笑されているようにも見えますね。


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参道から境内に入る場所に「大師堂」があります。
手水盤は明治二十一年(1888)のものです。


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庫裡の裏に山を下る石段が見えています。
裏参道のようです。
下り切った場所には目印になる石碑や案内板は無く、静かな田園風景が広がっています。

裏参道の周りには手つかずの鬱蒼とした森です。

本堂脇にある、流造の小さなお堂の名前は分かりません。
内部も荒れていました。

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本堂の中がチラリと見えましたが、きれいに整頓されています。
庫裡の屋根には大きなスズメバチの巣が・・・。

『享保八年の「公津新田寺社差出帳」には「一真言宗 一境内弐反歩 除地 是ハ南北江
三拾間 東西江弐拾間」と記されている。同寺が別当をしている真杉大明神宮を宝永元年
(一七〇四)に再建したとき、成田山の照範が遷宮導師になっているので、同寺と成田山
との関係はかなり古い。宝永年間以降、宥性・寂明・尊専・照呼らが住していた。』
(「成田市史 中世・近世編 P709)
この記述からすれば、「円應寺」の歴史は少なくとも三百数十年以上あるようです。
「千葉縣印旛郡誌」には、「圓應寺」について次のように記しています。
「公津新田村字中台にあり新勝寺の末寺にして眞言宗に屬し正観世音菩薩を本尊とす
由緒不詳堂宇間口五間奥行四間庫裡間口五間奥行二間境内四百二十坪官有地第四種あり
住職は池田照誓にして檀徒六十八人を有し管轄廰まで七里六町四十九間あり境内堂宇
三宇あり即
一、釋迦堂 釋迦如来を本尊とす由緒不詳建物間口二間奥行一間なり
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間なり
三、子安堂 子安観世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口一間奥行一間なり寺院明細帳」
いずれの堂宇も失われてしまい、大師堂のみが形を変えて境内入口に建っています。

昨年の十一月には33年に一度のご本尊の御開帳があったようで、回向柱が残っています。
正面には「奉開帳 聖観世音菩薩 為参詣檀徒 現當二世 安樂也」とあり、右側面には
「福聚海無量是故応頂礼」、左側面には「具一切功徳慈眼視衆生」、そして裏面には「維時
平成二十六年十月十八日 山主敬白」と記されています。

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ちょっと離れた所に小さな墓地がありました。
寛文、延享、享保、寛政、天明、天保、慶応等の年号が読めます。
大きな地蔵像には歴代住職の名前が刻まれ、元文五年(1740)の文字が見えます。



墓地を抜けてしばらく行くと、椎の大木の下に小さなお堂が見えました。
近づいて中を覗くと、「馬頭観音」が安置されています。
成田市文化財保護協会発行の「成田史談第22号」(1977年)に、「米野山円応寺雑考」
という後藤栄一氏の論文があり、その中に次の一説があります。
『なぜならば寺の南方五十米の大椎の根元から、純金の守本尊が発見されたと伝えられ
ている。円応寺縁起からして多分公津ヶ原の大合戦の最中にかくしたのではないだろうか。
古老の話だと、其の時に寺(館)が火災にあったらしいと言う。同寺の縁起によれば「下総
国印旛郡公津新田村米野山円応寺で本尊聖観世音菩薩は、千葉氏十二代貞胤の守本尊
にして天正三年に一旦其の行衛を失いしが、承応三年に至り、字中台の畑地の大椎の樹
下より、武田彦兵衛翁に因りて発掘せられたるを、千葉家の遺族たる宥澄上人(承応三年
成田山貫主となる)の発願に依りて一寺を建立して奉安供養して今日に至る。抑も聖観音
菩薩は、大日如来の大悲の総徳を司り、三十三種の大願を立て弘誓の深きこと、海の如く、
娑婆、世界に遊化して無数の衆生を済度に依し奉る時は、各其の所願に応じ、観音の妙智
力、能く無量の苦患を免れて、無辺の福徳を増し、現当二世如意、円満ならん」とある。』
「現在その場所には、交通安全と深いつながりをもつと言われる馬頭観音菩薩と、二柱が
祀られて区民の信仰を集めている。」 (P61)
この場所が、「円應寺」のご本尊が掘り出された場所のようです。
そして、「円應寺」の建立は、前述した宝永元年の記録による推測よりも古い、承応三年
(1654)あたりである可能性があることが分かります。
天正三年(1575)から承応三年までの約80年間、「聖観世音菩薩像」は椎の木の根元に
眠っていたわけです。


ご本尊が納められている厨子


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「米野」の地は、東・西・南の三方を成田ニュータウンに囲まれた場所ですが、開発とは無縁
のような、森と畑が広がるのどかな環境です。
昔から十数軒の家しかない住民の少ない地区であったことと、(部外者には分からない事情
があるのでしょうが)昭和42年に「成田ニュータウン計画に反対する請願書」の提出を行った
ことに見える、地区の住民の方たちの”開発”に対する姿勢が、この景色の背景にあるような
気がします。
個人的には、「円應寺」を中心とした自然が、ニュータウンに囲まれたの一角の「米野」の場所
に残っていて欲しいと思いますが・・・。

※ 「米野山円應寺」 成田市米野202