
「長光寺」は天台宗のお寺で、ご本尊は阿彌陀如来です。

「東和田村字要害にてり天台宗山門派にして圓融寺末なり阿陀彌如来を本尊とす堂宇
間口八間奥行七間境内七百六十坪官有地第四種あり由緒不詳住職は根元堯海にして信徒
二百六十一人管轄廰まで八里二十二町四十五間一尺なり境内佛堂二宇あり即
一、地蔵堂 地蔵菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口二間半奥行二間
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺
三、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺寺院明細帳」
(アンダーライン部分(「にてり」「阿陀彌如来」「大師堂のダブり」)は誤記と思われます。)
「千葉縣印旛郡誌」には「長光寺」についてこのように記述しています。
この「郡誌」には「長光寺」を「長老寺」と記していますが、「長光寺」の誤記と思われます。
同じ字(要害)には他に寺は無く、今は無くなった「観音堂」についての記述が、
「東和田村字要害にあり長光寺境外佛堂にして薬師如来を本尊とす」
とあるからです。


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本堂は全ての壁面が塞がれています。
近づいて良く見ると、もともとの古い本堂の周囲にトタンを打ちつけただけのようです。
所々に古い木材が見えています。

本堂の左手に数基の石塔が並んでいます。
右端の石塔には「佛乘心院權僧正堯海大和尚位」と刻まれています。
裏面に昭和30年に亡くなったと記されていますが、この和尚の名は大正二年(1913)に
編さんされた「千葉縣印旛郡誌」に名前がありますので、40年以上にわたってこの寺の
住職をされていたようです。
真ん中は「中心院恵暁墓」と刻まれています。
側面にびっしりと文字が書かれていますが、風化で良く読めません。
どうやら文政元年(1818)に亡くなったお坊さんのようです。

左端にあるこの石碑の文字が、読めそうで読めません。
「尊暢塔」と読めるような気がするのですが、いま一つ意味が・・・。
裏には「安政三丙辰七月八日 回向料金五両 村役人預」とあります。


内部が二つに仕切られた、真新しい大師堂があります。
前述の「印旛郡誌」に大師堂の記述がダブっていると書きましたが、もしかすると昔は二つ
あったものを近年になって一つにまとめたのかも知れません。


右の大師像の台座には「文久三年癸亥二月」「奉納新四國八十八ヶ所」と刻まれています。
大師像は頭が落とされ、側面の文字も大きく削られています。
間に合わせのセメントの頭が載っていますが、ここでも明治時代初期の廃仏毀釈の嵐が
吹き荒れたのかも知れません。
わざわざ削られた個所にはどんな文字が刻まれていたのでしょうか?
文久三年は西暦1863年で、長州による外国艦隊への砲撃や薩英戦争、天誅組の変や
生野の変など、世情は攘夷に沸いて騒然としていたころです。
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境内の一角にある墓地は古い墓石ばかりが並んでいます。
明暦、寛文、元禄、正徳、元文、寛保、寛延、宝暦、天明、文化などの年号が読めます。
年号が読める中で一番古い「明暦年間」は、1655~57年ですから、この墓地がずっと
ここにあったとすれば、「長光寺」の歴史は少なくとも360年以上あることになります。


数年前までは鬱蒼とした森だった境内の裏手は、最近になってすっかり伐採されました。
山の上にある「長光寺」は遮るものが無くなって、風が強く吹き抜けています。



成田駅から成田山までが一望できます。


お寺の足許にまで宅地化の波が押し寄せています。
本堂はトタンで塞がれ、木は切り倒され、「長光寺」は風前の灯のように見えます。
裏の木の伐採が、境内の整備のために行われているのであって、整理のためではないことを
祈りたいと思います。

「長光寺」の山を下りた信号の無い交差点に「東和田の道祖神」があります。


多くの場合、道祖神は道端にポツンと置かれた小さな祠なのですが、この「道祖神」は鳥居
を持った立派なもので、祠の周りには道祖神と刻んだ小さな祠がたくさん奉納されています。


柱に数えきれないほどの錐が刺さっています。
柄の木が腐った古いものから、比較的新しいものまで・・・、ちょっと異様な光景です。
耳の悪い人がここに錐を奉納すると、耳の通りが良くなるという言い伝えがあるそうです。


観音像が線描されています。
横の上部が欠けた石仏は如意輪観音でしょうか?

崩れかけた手水盤は元治元年(1864)のものです。
前年の文久三年から世情不安は続き、池田屋事件や禁門の変などが起こった年です。



鳥居の後ろに大きな杉の切り株があります。
昔はこの杉の木に錐を刺したそうです。
道路が整備され住宅が迫って、ここにも開発の波が押し寄せています。
「道祖神」は子孫繁栄や交通安全の神様として信仰されていますが、古くは村とあの世を
別ける結界でもありました。
時代と共に信仰の形が変わり、あるいは薄れて行くのは仕方ないことかも知れませんが、
せめて先人の生きてきた時代にほんのちょっと思いをはせるきっかけになるような景色は
残したいものですね、この道祖神のように・・・。

※ 「長光寺」 成田市東和田303
錐の祈り初めて拝見しました。違った地域の風習をこのような形で接することのできる幸せを実感します。
としか思わなかったのですが、「廃仏毀釈」の爪跡だと気づいてからは気をつけて
見るようにしています。今回の削られた文字の場所には通常村の名前があるはずで、
わざわざ削る必要など無いのでは・・・と思いますが、隠れた「事情」があるのかも
知れません。
錐については初めてみた時にはギョッとしました。何か怨念がらみなのではと思い
ましたが、調べてみてホッとしました。
自分もブログをやっているのですが、現在伐採されてしまった公孫樹の画像使用させてもらえないでしょうか?
こんな画像でよろしければどうぞお使いください。イオンタウンの屋上から、このお寺の一部が見え、だいぶ整備されていることが分かります。もう一度訪ねたいのですが、足を悪くしてそれもできません。もし、よろしければ、ばくん様のブログのURLをお教え願えませんか?
巨木に多少興味があり、切られる前の姿も載せておきたかったもので・・・
画像の使用許可ありがとうございます!
自分のブログは内容が薄っぺらい、しょうもない物ですが
https://plaza.rakuten.co.jp/ja11spikel700/
仁王の石像も珍しいですね!真福寺は自分もいったことありますが目に付きませんでした。
これからも寺社巡り続けていただけるよう脚の回復願ってます!