昔、この一帯は「牧(まき)」と呼ばれる幕府直轄の野馬の放牧地がありました。
毎年のように「牧」を囲む土手が崩れて野馬が畑に入り込み、作物に大きな被害が出る
ため、村人達が年貢の減免と土手の補修を何度も役人に願い出ましたが、聞き入れられ
ませんでした。
名主であった「治右衛門」が死を賭して藩主に直訴し、検分となりましたが、「牧」の役人が
自分たちの手落ちを隠すために検分前に土手を修復し、畑を荒れ地に変えてしまいました。
“土手は崩れておらず、周りは畑など無い土地ではないか”と、ありもしないことで直訴をし
た不届き者として、治右衛門は捕えられて死罪となり、家族もろとも処刑されてしまいます。
しかし、処刑後に真実が明らかとなり、年貢は減免され、村人は大いに助かりました。
明治の半ばになって、道路工事中に刑場跡と思われる場所から人骨が出て、治右衛門
一家のものだということになり、村人が多門院の境内に手厚く改葬したということです。
“これは行かねばなりますまい・・・”と、多門院(たもんいん)を訪ねました。

「多門院」は天台宗のお寺で、山号は「説法山」、山之作の円融寺の末寺です。



曲がりくねった急坂を登ったところに「多門院」はあります。
「西吉倉村の多聞院も円融寺の末寺で、境内は南北二八間・東西三五間である。
阿弥陀如来が本尊であるが、その台座裏に「奉再興阿弥陀如来尊像 正徳五乙未天八月日
下総国埴生郡西吉倉村 多聞院伝誉 大仏師江戸浅草三間町七兵衛」の墨書銘があり、
正徳五年の再建であるのがわかる。境内に観音堂をもち、稲荷神社・熊野権現・薬師堂など
を支配している。」 (「成田市史 中世・近世編 P781)
ここでは寺名を「多聞院」としています。
現在の成田市の地図や千葉県の宗教法人名簿、さらに大正二年の「千葉縣印旛郡誌」にも
「多門院」とあって、この成田市史のみが「多聞院」としています。
墨書銘に「多聞院」とあるので、間違いではないのでしょうが、近世になって「多門院」と書か
れるようになったということでしょうか。
正徳五年は西暦1715年ですから、再興してから300年ということになりますので、このお寺
の歴史は相当古いものであることが分かります。

「大師堂」(左)と「観音堂」(右)。


大師像は文政十一年(1828)のものです。

「薬師堂」の隣に、老人から聞いた名主の「治右衛門」の墓がありました。
中央の大きな石碑は慰霊碑で、右側の小さい石碑が墓石です。
治右衛門とともに処刑された妻と娘の戒名が記されていて、遺骨が発見されてここに改葬
された明治三十一年の紀年銘が入っています。

「治右衛門」についての資料はほとんど残っていないようです。
探してみると、「成田ゆかりの人々」(小川国彦 著 2002年 平原社)と、「成田 寺と町まち
の歴史」(小倉博 著 1988年 聚海書林)に、治右衛門についての話が出ていました。
治右衛門とは「甲田治右衛門」であり、万治二年(1659)に処刑されたことが分かりました。
郷土史家の滝口昭二氏によれば、「佐倉宗吾」を世に出したのは歌舞伎役者の市川小団次
で、成田山を訪れた時に地元の有力者から借りた「地蔵堂通夜物語」をもとに「東山桜荘子」
を上演して大当たりをとり、木内惣五郎(佐倉宗吾)は一躍義民として有名になりました。
同じように村人の窮状を救おうと直訴して処刑された名主なのですが、地元の人々には尊敬
されているものの、「治右衛門」は世間には知られざる義民のままです。
惣五郎の処刑から6年後に治右衛門の処刑がありました。
かたや将軍に直訴、こなた藩主に直訴との違いはあるものの、もし、小団次が治右衛門の話
を聞いていたら・・・、世間の耳目はこちらに集まり、この吉倉に「治右衛門霊堂」ができていた
かも知れませんね。


治右衛門一家の墓石の隣に立つ、二基の墓石と月待塔。
月待塔には十三夜待と十七夜待の文字が見えます。
十三夜待の本尊は虚空蔵菩薩、十七夜待の本尊は千手観音になります。
風化と苔ではっきりとは分かりませんが、刻まれているのは虚空蔵菩薩でしょうか?
右手が与願印(よがんいん)で左手に如意宝珠を持っているように見えます。
墓石は弘化四年(1847)と文久元年(1861)のものです。

薬師堂の裏には十数基の古い墓石が並んでいます。
寛永、元文、寛延、宝暦、文化などの年号が読めます。


境内の周りには南天の木が目立ちます。
”災いを転じて福となす”の難転に通じることから、縁起木として植えられたのでしょうか。

山を下る途中から、微かに成田山の「平和大塔」が見えます。
望遠で撮りましたので大分近く見えますが、実際は直線で2キロ以上はあります。


「吉倉字臺下口にあり天台宗山門派にして圓融寺末なり阿彌陀如来を本尊とす由緒不詳
堂宇間口六間半奥行五間半境内四百七十八坪官有地第四種あり住職は林豪海にして信徒
百五十六人を有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり境内佛堂二宇あり即
一、観音堂 觀世音菩薩を本尊とす由緒不詳建物間口三間奥行二間
二、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺寺院明細帳」
「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、「多門院」についてこのように記述されています。
多門院の山を下りて、裾をぐるっと回ると、向かいの山の上に稲荷神社があります。

「稲荷神社 村社 吉倉村字台下口 祭神 倉稲魂命 由緒不詳 間口五尺奥行五尺
境内坪数 一四四 氏子 一三戸」
この稲荷神社については、「印旛郡誌」にこう簡単に記載されています。
「倉稲魂命(ウカノミタマニミコト)」は穀物の神様で、古くから女神であるとされています。

石段は100段近くあります




小さいながらも流造りの立派な社殿です。
鰹木が3本で千木が垂直に切られているのは、男神を表していますが、例外もあるようです。
鬼瓦の部分には、金色の宝珠が見えます。


境内には二つの手水鉢があります。
昭和18年に奉納されたものと、一部が崩れて「宝暦(?)」と読めるものです。
宝暦年間は、西暦1751~1764年ですから、約260年前のものになります。

この祠の側面の文字は、安永八年(1779)と読めます。

何も無い境内ですが、常に手が入っている感じで、山中にあっても荒れた感じはありません。
「多門院」には、前回訪ねた「観音堂」のほかに、「薬師堂」という境外佛堂があります。

多門院から400メートルほど観音堂方向に戻った道端に「薬師堂」はあります。
「吉倉村字台下口にあり多門院境外佛堂にして藥師如来を本尊とす由緒不詳堂宇間口
三間奥行二間境内五十一坪官有地第三種あり住職は上野晃海にして信徒百五十六人を
有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり佛堂明細帳」
「千葉縣印旛郡誌」にはこの薬師堂について、こう記述しています。(信徒数・管轄廰までの
距離が前回の「観音堂」と同じであることが気になりますが・・・。)



境内の端に十基余りの石仏が並んでいます。

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屋根の下に並ぶ三基の石仏は、左が慈母観音、中が如意輪観音、右が慈母観音です。
右の像は如意輪観音のように見えますが、良く見ると膝に赤子を乗せています。
安永六年(1777)と記されています。

年代不詳の「薬師如来」と「読誦塔」。
薬師如来は左手に持った薬壺が欠落しています。
読誦塔には「奉誦普門品一千部供養塔」と刻まれています。



訪ねたのは12月10日。
小さな境内ですが、燃えるような紅葉が印象的でした。

一週間後に再訪した時には、すっかり色褪せて、冬が駆け足でやってきた感がします。

多門院から薬師堂へ向かう途中に三叉路があり、道標が立っていました。
「奉誦講」と読め、寛政の文字が見えます。
200年以上前のもので、側面に「右ハてらだいみち」「左ハなりた道」と読めます。
ここから寺台へはどうやって抜けて行くのでしょうか?
ちょっと先へ進んでみます。


なだらかな登り坂が続きます。
周りには人家も何も無い、寂しい道です。

突然視界が開けて、墓地が現れました。
手前には六地蔵が並んでいます。
元文、宝暦、文化などの墓石の中に、意外に新しい墓石も見受けられます。

「奉納 西國三拾三ケ所供養塔」と記された、文化七年(1810)の石塔。

側面にも文字が彫られていて、「此方 なり田 道」とだけ読めました。
道標になっているということは、この道が昔は結構往来があったということなのでしょう。

しばらく先に進んでみましたが、だんだん道は細くなり、荒れた感じになってきました。
今ではこの道はほとんど使われていないようです。
ゼンリン地図で「てらだいみち」をなぞってみましたが、途中で切れていました。
歩く人が無くなって、雑木や竹に覆われて消えてしまったのでしょう。
切れた道の先は「資材道路」の「ガーデンホテル」の辺りに向かっていました。

全く人気のない、心細い道を歩きましたが、見事な紅葉に慰められる山道でした。

※ 「説法山多門院」 成田市吉倉414
「稲荷神社」 成田市吉倉444
「薬師堂」 成田市吉倉467-2