
昔の軽便鉄道の三里塚・多古線が走っていた通称「資材道路」を、空港方面から成田市街
へ向かうと、東関道をくぐるトンネルの入口が二つあり、左側のトンネルを出た先が旧古内
地区になります。
トンネルから山道を150メートルほど進むと、右側の一段高いところに「観音堂」があります。

斜面の小道を登る人を迎えるかのような「如意輪観音」。


風化が進んでいますが、享保五年(1720)の文字が見えます。
300年の風雪に耐えてきた観音像も、廃仏毀釈の嵐にお顔を削られたのでしょうか?


「吉倉村字古内にあり多門院境外佛堂にして歡世音菩薩を本尊とす由緒不詳堂宇間口
三間半奥行二間境内三十九坪官有地第三種あり住職は上野晃海にして信徒百五十六人を
有し管轄廰まで八里三十五町五十四間一尺なり境内一宇あり即
一、大師堂 弘法大師を本尊とす由緒不詳建物間口三尺奥行四尺なり佛堂明細帳」
大正二年(1913)編さんの「千葉縣印旛郡誌」にある「遠山村誌」には、「観音堂」について
このように記されています。
お堂は近年に改築されたようです。


大師堂には石造の大師像が安置されています。



大師堂の裏には享保、宝暦、文化、天保などの二十数基の墓石や石仏が並んでいます。
刻まれた石仏には慈母観音が多く、■■童子のような文字が見えます。
幼くして逝った我が子を想う親の心情が伝わってきます。


お堂の中は薄暗く、微かに扉が開いた厨子の中に観音菩薩のお顔が見えています。
目を閉じて、わずかに首を傾けているようです。


道を挟んで「摩利支天宮」があります。



「サンスクリット語のマリーチーの音写で、末利支天とも書く。陽炎の神格化といわれ、インド
では除災増益の神として古くから民間で信仰されている。」
「日本では鎌倉時代ごろから武士の護り本尊として信仰された。像容については二種類あり、
天女形で二臂、うちわ(天扇)を持つものと、三面六臂で猪の上の三日月上に立つものなど
がある。」 (「仏像鑑賞入門」 瓜生 中 著 P185)
毛利元就や前田利家、山本勘助などがこの「摩利支天」の信仰者として知られています。
平成5年と記された石の鳥居と木の鳥居が2基、計3基の鳥居が並んでいます。

脇にはたくさんの絵馬を奉納するような感じで白襷が掛っています。
どのような意味があるものなのかは分かりませんが、近隣では、失しものがある時に
ここにお参りすると、良く見つかると言い伝えられているようです。

「摩利支天宮」から20メートルくらい戻ると三叉路になっています。
民家への道のように見える急坂があり、ここを登って行くと「熊野神社」に辿りつきます。

道はすぐに舗装が途切れ、林道のような感じになってきます。


行き止まりに控柱が付き、立派な額束の鳥居が建っています。

鳥居の下に立つと、石段の先に社殿がみえます。



「千葉縣印旛郡誌」中の「遠山村誌」には、この神社が簡単に記されています。
「熊野神社 村社 吉倉村字古内 伊弉冉命 由緒不詳
間口五尺奥行五尺 境内坪数四一八 氏子一六戸」
また、「千葉県神社名鑑」には、
「熊野神社 伊弉冉尊 本殿・流造一坪 境内坪数五〇〇坪 氏子三〇戸」
と書かれています。
大正二年(1913)の「郡誌」と昭和62年(1987)の「名鑑」との70年あまりの間に、氏子が
倍増していますが、その理由は何なのでしょうか?
詳しいデータが手許にありませんが、古内地区が属する旧遠山村の大正9年(1920)時点
の人口は5360人、成田市に合併前の昭和25年(1950)には9336人と着実に増加傾向
を示しています。
市の中心部は人口が急増する一方、周辺部の過疎化が進んでいますが、この氏子の増加
は地区の人口増が理由なのでしょう。

小さな手水盤は昭和2年の寄進です。

天満宮 →



初冬の境内には物音一つ聞こえません。

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深い山あいの小さな集落に、観音堂と摩利支天宮、そして熊野神社。
昔の人々の神仏に寄せる信仰が、今も残る古内の三叉路です。

※ 「観音堂」 成田市吉倉544
「摩利支天宮」 成田市吉倉561
「熊野神社」 成田市吉倉537