

「成田街道」は一本松通りから表参道に入ります。
「歌舞伎役者の像」が駅から成田山に向かう参詣客を迎えます。


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街道の左側のJR成田駅前は大きく変貌しています。
成田市の「JR成田駅東口第二種市街地再開発事業」によって誕生した共同住宅や商業施設・
公益施設等の複合ビル、「スカイタウン成田」が今年の春に完成し、今は駅前広場の整備が
急ピッチで進められています。
駅前の「不動の椎」はどうやら無事に生き延びたようです。
昨年4月にはこの「不動の椎」の運命を心配した記事を書いたのですが・・・。
以下、その時の記事の引用です。
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駅舎を出て京成成田駅に向かう通路(現在は工事中で通行止め)の脇に不動明王
の分身と伝わる「不動の椎」が立っています。
樹齢700年の老大木ですが、今は工事現場のフェンスに囲まれて根元は隠れて
しまっています。
まさか切り倒されるようなことはないと思いますが、ダンプが出入りし、重機がうなる
中で、どんなに住み辛く思っていることでしょう。
工事が終わってフェンスが外された時には高層ビルが立ちふさがり、日当たりが
めっきり悪くなるだろうと心配です。
開発は必要でしょうが、どうか、自然に優しい開発であって欲しいと願うばかりです。
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右側に見える京成成田駅前は、相変わらずの景色です。
現在は駅構内での耐震工事やエレベーター・エスカレーター等の設置工事が行われています。

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JR成田駅前、駅前交番の後ろに「権現山」と呼ばれる一角があります。
この一帯は鉄道が通るまでは鬱蒼とした森で、「不動の椎」もその中の一本でした。
この森の中に「湯殿権現神社」があったので、一帯を「権現山」と呼ぶようになったようです。


通りは門前町らしい店構えが多くなってきました。

まだ新しい蔵造り風の建物があります。
これはなんと!銀行なのです。




歌舞伎とのつながりが強い成田らしい看板も目につきます。

江戸時代から続く地元の酒蔵、長命泉です。

昔の道は曲りも厳しいですね。

平日の夕方でも、参道の人通りは途切れることがありません。



沿道の両脇には干支の石像が一定間隔で並んでいます。

こちらは来年の干支の申です。

参道に並んでいる建物は、新しくなっても、極力昔ながらの雰囲気を守る造りにしています。

米屋総本店。
成田を代表する和菓子の製造・販売の会社で、明治三十二年(1899)の創業です。

米屋の前にはなぜか干支には無い亀がいます。



店の裏側には工場があり、その敷地の一角に「お不動様旧跡庭園」があります。
前回立寄った「不動塚」付近にあった当初の「新勝寺」は、長引く戦乱等のため荒れ果てて
しまい、見かねた名主たちが相談した結果、成田村の諸岡三郎左衛門が不動像を自分の
敷地内に遷座して、井戸水をお供えして大切にお祀りしたのがこの場所です。
諸岡三郎左衛門は、米屋の創業者の遠縁にあたります。


江戸時代から続く「後藤だんご屋」。

やがて街道は三叉路となり、右は「台の坂」と呼ばれる参道のメインストリートとなり、左は
西参道となって、三宮埴生神社を経て郷部へと向かいます。
この三叉路に面して「薬師堂」があります。
明暦元年(1655)の建立で、もともとは新勝寺の本堂でした。


新勝寺の本堂はこれまでに三度建て直され、それぞれ建て直された年号から元禄の本堂
(現・光明堂)、安政の本堂(現・釈迦堂)と呼ばれ、この薬師堂は明暦の本堂と呼ばれました。
この薬師堂(旧本堂)には、水戸光圀公や初代市川団十郎も参拝したと言われています。
新たに本堂が建設される度に移設が繰り返され、今では境内からは離れた場所にあります
が、近年何度か整備が行われて、狭いながらもきれいな境内になっています。
石灯篭は文政二年(1819)、手水盤は宝暦十二年(1762)に寄進されたものです。

「薬師堂」の境内から台の坂を見ています。
遠くに成田山が見えています。

薬師堂の石垣の下にある「成田町道路元標」。
大正八年(1919)に設置されたもので、成田から各地への距離を計測するときの起点
としたものです。
大正元年(1912)の「成田町誌」に、この薬師堂からの道路の状況が書かれています。
「縣道は成田町の殆ど中心点たる成田區横町の薬師堂前より各方面に通ず。即ち南する
ものは成田區の上町花崎町等を経て佐倉に至り、北するものは土屋區の境に至りて二つ
に分れ、一方は郷部區より八生村を経て安食町に至るべく、一方は土屋區を横ぎりて
八生村に入り滑川佐原方面に至るべし。又東するものは成田區の中の町、本町、田町
を経て寺台區に出て、遠山村を経多古方面に通ず。」
ここが、今回歩いてきた成田街道のほか、松崎街道、佐原街道、三里塚街道などに通じる
交通の要だったことが分かります。

薬師堂の前の小公園に立つ、成田出身の俳人、「三橋鷹女(みはし たかじょ)」の像。
成田高等女学校を出た鷹女は若山牧水や与謝野晶子に師事した女流俳人で、
夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり
鞦韆(しゅうせん)は 漕ぐべし 愛は 奪うべし
等の激しい句で知られています。


台の坂は右に左に曲がりながら下って行きます。
成田山がだんだん近くに見えてきます。
時々雨がパラつき始めました。



「成田観光館」には昔の成田の資料が展示されています。
目で見る昔の成田~成田観光館 ☜ ここをクリックしてください。

昨年6月に撮影

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三芳屋の手前の目立たない細い路地の奥には、しゃれた甘味処があります。
両側のお店のひさしの間を抜けて入って行くような感じで、ついつい見過ごしてしまいます。
あまり知られていない店なので、ちょっとした隠れ家のような雰囲気です。


うなぎで有名な「川豊本店」です。
店先でうなぎをさばき、おいしそうな匂いの煙を参道に流しながら焼いています。
休日には行列が絶えない名店です。
大正6年に建てられた店は、かつては旅館だったものだそうです。


いろんなお店がありますが、漬物屋さん、うなぎ屋さん、薬屋さんが目立ちます。

老舗の「大野屋旅館」。
木造三階建てで、上部に望楼が付いているユニークな外見の建て物は、平成17年に国の
有形文化財に指定されました。
「大野屋」の創業は江戸中期ですが、この建物は昭和10年に建てられたものです。

大野屋の先にベンチのある小さな休憩スペースがあり、「延命院旧跡」と彫られた石碑が
立っています。
天保の改革で、贅沢なものの象徴として、歌舞伎の七代目市川団十郎が狙い撃ちにされ
ましたが、縁の深かった新勝寺が手を差し延べて、一時ここに住まわせた跡です。



木戸の隙間から中を覗くと、真新しい感じの家が見えます。
以前は雑木が茂り、朽ち果てたようなあばら家が見えていたのですが、最近になって手が
入れられたようです。

振り返ってみると、けっこうな坂道です。

創業280年の「一粒丸三橋薬局」。
店舗は明治時代初期のもので、土蔵造りの二階建。
国の登録有形文化財になっています。
血止めと切り傷の薬で有名な「成田山一粒丸」の製造元です。

ようやくゴールの総門に着きました。
この総門は平成19年に建てられました。


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文化十一年(1814)に寄進された狛犬。
「靈巖島南新堀貮町目」と記されています。
丁目が町目となっていますが、昔はそうなっていたのかもしれません。
(今でも福島県いわき市の平地区などには「町目」が使われています。)

陽も傾き、空模様も怪しくなってきました。
仁王門には上らずに、ここで「成田街道」の終点としましょう。


大きな猫が総門裏の大木の根元にいました。
近づいても目線を外さず、じっとこちらを見ています。
今日は誰とも話さず、ただひたすら歩いてきたので、少し彼と話してから帰ろうと思います。


成田山の向かい側の「神明山」の紅葉もそろそろ終わりです。


①権現山 ②長命泉 ③米屋総本店 ④お不動様旧跡庭園 ⑤薬師堂 ⑥成田町道路元標
⑦延命院旧跡 ⑧成田山総門
コメントをありがとうございます。
確かにこれから大変な季節ですが、成田山のネコはそれぞれに自分の場所を
確保しているようで、なかなか逞しく生きています。